パン屋の女性――島田杏に案内され、遥が足を止めたのは、住宅街の一角にある古い二階建ての建物だった
決して新しくはない
白い外壁はところどころ色褪せ、木製の扉には小さな傷がいくつもついている
けれど、その玄関先には季節の花が植えられたプランターが並んでいた
手書きの看板には、丸みのある文字で書かれている
子どもの居場所
陽だまり
遥は思わず看板を見つめた
杏は微笑んだ
遥はぎゅっとランドセルの肩紐を握った
知らない場所
知らない人たち
本当に入っていいのだろうか
そう思っているうちに、杏が扉を開けた
すると
元気な声が次々と飛んできた
その声に混じって
一人の男性が顔を上げた
三十代前半くらいだろうか
エプロン姿で、大きなお玉を持っている
優しそうな目元が印象的だった
杏は遥を振り返った
エプロン姿の男性は、ふわりと笑った
遥は慌てて頭を下げた
司は目を細めた
その問いかけに答えるように、遥のお腹が、ぐう、と鳴った
顔が熱くなる
司は笑った
――みんな
その言葉に、遥は室内を見渡した
リビングのような広い部屋
宿題をしている子
本を読んでいる子
テレビゲームをしている子
小学生くらいの子もいれば、中学生らしき子もいる
年齢はバラバラだった
でも、誰も遥をじろじろ見なかった
声をかけられた
振り向くと、中学生くらいの男の子が立っていた
少し跳ねた黒髪
気だるそうな目
制服のネクタイは緩んでいる
司が苦笑する
彼は遥を見る
蓮は遥の顔をじっと見た
遥は思わず目を逸らした
蓮はあっさり言った
蓮は肩をすくめた
そう言って、さっさと席へ戻っていった
杏が小さく笑う
遥は黙ったままだった
優しい
そうなんだろうか
ぶっきらぼうだったけれど
でも、泣いたことを笑わなかった
理由を無理に聞こうともしなかった
それだけで少しだけ、胸の奥が軽くなった
司の声が響く
一気に賑やかになる
カレーの匂いがした
甘くて、温かい匂い
気づけば遥は皿を運んでいた
みんなの声が重なる
遥も小さく呟いた
一口食べる
おいしい
特別な高級料理じゃない
家でも食べたことのあるカレーだ
でも
杏が尋ねる
司が笑う
誰かが笑った
くだらない会話
何でもない笑い声
だけど、遥は少し戸惑っていた
こんな風にご飯を食べたのは、いつぶりだろう
家では母は帰りが遅い
弟はテレビを見ながら食べる
「いただきます」も「ごちそうさま」も、最近は小さな声でしか言わなくなった
蓮だった
遥はスプーンを見つめた
遥の声は小さかった
もっと暗いと思っていた
もっと泣いていると思っていた
もっと「かわいそうな子」だと思っていた
蓮は言った
蓮はカレーを一口食べた
遥は言葉を失った
蓮はぼそりと言った
少しだけ
ほんの少しだけ
蓮が笑った気がした
遥は俯いた
――お前だけじゃない
その言葉が胸に残った
また賑やかな声
誰かが笑う
誰かが宿題を始める
誰かが「ゲームしよう」と叫ぶ
その輪の中で
司が声をかけた
言葉に詰まる
本当は、また来たいと思った
でも、そんなことを言っていいのだろうか
母の声が蘇る
その瞬間
杏が言った
杏は優しく微笑んだ
杏は遥の目を見た
遥の喉が詰まった
窓の外を見る
空はもう暗くなっていた
司が言った
遥は少しだけ目を伏せた
玄関先
迎えを待つ間
蓮が隣に立った
蓮はそっぽを向いたまま言った
少し照れくさそうに
遥は瞬きをした
そして、ほんの少しだけ、本当に少しだけ笑った
笑い声がこぼれた
その時、外から車の止まる音が聞こえた
母の声だった
遥の肩がびくりと揺れる
さっきまで温かかった胸の奥に、別の緊張が広がる
帰らなければならない
家へ
いつもの日常へ
だけど、遥は振り返った
明るい玄関
「またね」と手を振る杏と司
ぶっきらぼうに「じゃあな」と言う蓮
そして
杏が言った
遥は目を見開いた
――おかえり
その言葉が、こんなにも温かいなんて知らなかった
小さな声だった
けれど確かに、遥はそう答えた
そして、母の待つ車へと歩き出した
家に帰るのは、まだ少し怖い
だけど、明日もまた、あの場所がある
「おかえり」と言ってくれる人たちがいる
その事実だけで、帰り道は昨日より、少しだけ短く感じられた












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。