第3話

「『おかえり』が言える場所」
7
2026/06/27 13:30 更新
島田 杏しまだ あん
着いたよ
パン屋の女性――島田杏に案内され、遥が足を止めたのは、住宅街の一角にある古い二階建ての建物だった
決して新しくはない
白い外壁はところどころ色褪せ、木製の扉には小さな傷がいくつもついている
けれど、その玄関先には季節の花が植えられたプランターが並んでいた
手書きの看板には、丸みのある文字で書かれている
子どもの居場所

陽だまり
遥は思わず看板を見つめた
朝倉 遥あさくら はるか
……ここ?
島田 杏しまだ あん
そう
杏は微笑んだ
島田 杏しまだ あん
入ってみる?
遥はぎゅっとランドセルの肩紐を握った
知らない場所
知らない人たち
本当に入っていいのだろうか
そう思っているうちに、杏が扉を開けた
島田 杏しまだ あん
ただいまー
すると
橘 綾たちばな あや
杏さん、おかえりー!
酒井 勝さかい まさる
遅かったじゃん!
平田 琴音ひらた ことね
今日のカレー焦げてない!?
元気な声が次々と飛んできた
その声に混じって
増田 司ますだ つかさ
……あれ?
一人の男性が顔を上げた
三十代前半くらいだろうか
エプロン姿で、大きなお玉を持っている
優しそうな目元が印象的だった
増田 司ますだ つかさ
お客さん?
島田 杏しまだ あん
うん
島田 杏しまだ あん
帰り道で会ったの
杏は遥を振り返った
島田 杏しまだ あん
紹介するね
朝倉 遥あさくら はるか
……
島田 杏しまだ あん
ここは『陽だまり』
朝倉 遥あさくら はるか
……
島田 杏しまだ あん
で、この人は
増田 司ますだ つかさ
増田司です
エプロン姿の男性は、ふわりと笑った
増田 司ますだ つかさ
こんばんは
遥は慌てて頭を下げた
朝倉 遥あさくら はるか
……あ、朝倉遥です
増田 司ますだ つかさ
遥ちゃん
司は目を細めた
増田 司ますだ つかさ
いらっしゃい
朝倉 遥あさくら はるか
……
増田 司ますだ つかさ
お腹空いてる?
その問いかけに答えるように、遥のお腹が、ぐう、と鳴った
朝倉 遥あさくら はるか
……!
顔が熱くなる
朝倉 遥あさくら はるか
ご、ごめんなさい!
増田 司ますだ つかさ
ふふ
司は笑った
増田 司ますだ つかさ
ちょうどよかった
増田 司ますだ つかさ
今日、カレーなんだ
朝倉 遥あさくら はるか
え?
増田 司ますだ つかさ
みんなで食べよう
――みんな
その言葉に、遥は室内を見渡した
リビングのような広い部屋
宿題をしている子
本を読んでいる子
テレビゲームをしている子
小学生くらいの子もいれば、中学生らしき子もいる
年齢はバラバラだった
でも、誰も遥をじろじろ見なかった
あ、新入り?
声をかけられた
振り向くと、中学生くらいの男の子が立っていた
少し跳ねた黒髪
気だるそうな目
制服のネクタイは緩んでいる
増田 司ますだ つかさ
司が苦笑する
増田 司ますだ つかさ
そんな言い方
神崎 蓮かんざき れん
だってそうじゃん
彼は遥を見る
神崎 蓮かんざき れん
俺、三年
朝倉 遥あさくら はるか
……
神崎 蓮かんざき れん
神崎蓮
朝倉 遥あさくら はるか
……朝倉遥です
神崎 蓮かんざき れん
ふーん
蓮は遥の顔をじっと見た
神崎 蓮かんざき れん
泣いた?
朝倉 遥あさくら はるか
……え?
神崎 蓮かんざき れん
目、赤い
遥は思わず目を逸らした
朝倉 遥あさくら はるか
別に
神崎 蓮かんざき れん
蓮はあっさり言った
神崎 蓮かんざき れん
言いたくないならいい
朝倉 遥あさくら はるか
……
神崎 蓮かんざき れん
俺も最初、何も話さなかったし
増田 司ますだ つかさ
神崎 蓮かんざき れん
はいはい
蓮は肩をすくめた
神崎 蓮かんざき れん
とりあえず、カレー食べな
朝倉 遥あさくら はるか
え?
神崎 蓮かんざき れん
ここのカレー、うまいから
朝倉 遥あさくら はるか
……
神崎 蓮かんざき れん
冷める前に
そう言って、さっさと席へ戻っていった
島田 杏しまだ あん
蓮くん、不器用なんだよ
杏が小さく笑う
島田 杏しまだ あん
でも優しいの
遥は黙ったままだった
優しい
そうなんだろうか
ぶっきらぼうだったけれど
でも、泣いたことを笑わなかった
理由を無理に聞こうともしなかった
それだけで少しだけ、胸の奥が軽くなった
増田 司ますだ つかさ
ご飯できたよー!
司の声が響く
平田 琴音ひらた ことね
手伝うー!
橘 綾たちばな あや
皿持ってく!
酒井 勝さかい まさる
スプーンどこー?
一気に賑やかになる
島田 杏しまだ あん
遥ちゃん
朝倉 遥あさくら はるか
はい
島田 杏しまだ あん
一緒に運んでくれる?
朝倉 遥あさくら はるか
……できます
島田 杏しまだ あん
ありがとう
カレーの匂いがした
甘くて、温かい匂い
気づけば遥は皿を運んでいた
いただきます!
みんなの声が重なる
遥も小さく呟いた
朝倉 遥あさくら はるか
……いただきます
一口食べる
朝倉 遥あさくら はるか
……
おいしい
特別な高級料理じゃない
家でも食べたことのあるカレーだ
でも
島田 杏しまだ あん
どう?
杏が尋ねる
朝倉 遥あさくら はるか
……おいしいです
増田 司ますだ つかさ
よかった
司が笑う
増田 司ますだ つかさ
おかわりもあるからね
誰かが笑った
酒井 勝さかい まさる
今日、じゃがいも当たり多い!
神崎 蓮かんざき れん
それ何?
酒井 勝さかい まさる
大きいやつ!
平田 琴音ひらた ことね
いいなー!
くだらない会話
何でもない笑い声
だけど、遥は少し戸惑っていた
こんな風にご飯を食べたのは、いつぶりだろう
家では母は帰りが遅い
弟はテレビを見ながら食べる
「いただきます」も「ごちそうさま」も、最近は小さな声でしか言わなくなった
朝倉 遥あさくら はるか
……
神崎 蓮かんざき れん
どうした?
蓮だった
神崎 蓮かんざき れん
まずかった?
朝倉 遥あさくら はるか
違う
神崎 蓮かんざき れん
じゃあ何
朝倉 遥あさくら はるか
……
遥はスプーンを見つめた
朝倉 遥あさくら はるか
なんで
神崎 蓮かんざき れん
朝倉 遥あさくら はるか
なんで、みんな普通なの?
神崎 蓮かんざき れん
は?
朝倉 遥あさくら はるか
だって
遥の声は小さかった
朝倉 遥あさくら はるか
ここに来る子って……もっと……
もっと暗いと思っていた
もっと泣いていると思っていた
もっと「かわいそうな子」だと思っていた
神崎 蓮かんざき れん
普通じゃないと思った?
蓮は言った
朝倉 遥あさくら はるか
……
神崎 蓮かんざき れん
まあ、最初はそう思うか
蓮はカレーを一口食べた
神崎 蓮かんざき れん
でもさ
朝倉 遥あさくら はるか
神崎 蓮かんざき れん
問題抱えてるからって、ずっと泣いてるわけじゃない
朝倉 遥あさくら はるか
……
神崎 蓮かんざき れん
ゲームもするし、笑うし、バカみたいな話もする
神崎 蓮かんざき れん
普通だよ
朝倉 遥あさくら はるか
……
神崎 蓮かんざき れん
みんな
遥は言葉を失った
神崎 蓮かんざき れん
それに
蓮はぼそりと言った
神崎 蓮かんざき れん
ここ来る理由なんて、人それぞれだし
朝倉 遥あさくら はるか
……蓮くんは?
神崎 蓮かんざき れん
言わない
朝倉 遥あさくら はるか
……
神崎 蓮かんざき れん
まだ教えない
少しだけ
ほんの少しだけ
蓮が笑った気がした
神崎 蓮かんざき れん
でも
朝倉 遥あさくら はるか
神崎 蓮かんざき れん
お前だけじゃない
朝倉 遥あさくら はるか
……
神崎 蓮かんざき れん
それは本当
遥は俯いた
――お前だけじゃない
その言葉が胸に残った
ごちそうさまでした!
増田 司ますだ つかさ
はーい
増田 司ますだ つかさ
食器お願いしまーす!
また賑やかな声
誰かが笑う
誰かが宿題を始める
誰かが「ゲームしよう」と叫ぶ
その輪の中で
増田 司ますだ つかさ
遥ちゃん
司が声をかけた
朝倉 遥あさくら はるか
うん?
増田 司ますだ つかさ
今日は来てくれてありがとう
朝倉 遥あさくら はるか
……
増田 司ますだ つかさ
また来てもいいからね
朝倉 遥あさくら はるか
……でも
増田 司ますだ つかさ
ん?
朝倉 遥あさくら はるか
私……
言葉に詰まる
本当は、また来たいと思った
でも、そんなことを言っていいのだろうか
朝倉 凛音あさくら りおん
『いい子だから』
母の声が蘇る
朝倉 遥あさくら はるか
迷惑かけちゃ……
その瞬間
島田 杏しまだ あん
誰も迷惑なんて言ってないよ
杏が言った
朝倉 遥あさくら はるか
え?
島田 杏しまだ あん
ここはね
杏は優しく微笑んだ
島田 杏しまだ あん
助けてもらう場所でもあるし、誰かを助ける場所でもあるの
朝倉 遥あさくら はるか
……
島田 杏しまだ あん
今日はご飯運んでくれたでしょ?
朝倉 遥あさくら はるか
……
島田 杏しまだ あん
それだけでも十分
朝倉 遥あさくら はるか
……
島田 杏しまだ あん
だから
杏は遥の目を見た
島田 杏しまだ あん
『いてもいいのかな』じゃなくて
朝倉 遥あさくら はるか
……
島田 杏しまだ あん
『いていいんだ』って、少しずつ思ってくれたら嬉しいな
遥の喉が詰まった
朝倉 遥あさくら はるか
……はい
窓の外を見る
空はもう暗くなっていた
増田 司ますだ つかさ
お母さんには連絡してあるから
司が言った
増田 司ますだ つかさ
迎えに来てくれるって
朝倉 遥あさくら はるか
……
遥は少しだけ目を伏せた
朝倉 遥あさくら はるか
そっか
増田 司ますだ つかさ
うん
玄関先
迎えを待つ間
蓮が隣に立った
神崎 蓮かんざき れん
なあ
朝倉 遥あさくら はるか
……?
神崎 蓮かんざき れん
また来る?
朝倉 遥あさくら はるか
……分からない
神崎 蓮かんざき れん
朝倉 遥あさくら はるか
……
神崎 蓮かんざき れん
でも
蓮はそっぽを向いたまま言った
神崎 蓮かんざき れん
明日、オセロの勝負の続きあるから
朝倉 遥あさくら はるか
え?
神崎 蓮かんざき れん
負けっぱなし嫌だし
朝倉 遥あさくら はるか
……私、やってない
神崎 蓮かんざき れん
じゃあ明日やる
朝倉 遥あさくら はるか
……
神崎 蓮かんざき れん
だから
少し照れくさそうに
神崎 蓮かんざき れん
また来いよ
遥は瞬きをした
そして、ほんの少しだけ、本当に少しだけ笑った
朝倉 遥あさくら はるか
……考えとく
神崎 蓮かんざき れん
何それ
朝倉 遥あさくら はるか
ふふ
笑い声がこぼれた
その時、外から車の止まる音が聞こえた
朝倉 凛音あさくら りおん
遥!
母の声だった
遥の肩がびくりと揺れる
さっきまで温かかった胸の奥に、別の緊張が広がる
帰らなければならない
家へ
いつもの日常へ
だけど、遥は振り返った
明るい玄関
「またね」と手を振る杏と司
ぶっきらぼうに「じゃあな」と言う蓮
そして
島田 杏しまだ あん
遥ちゃん
朝倉 遥あさくら はるか
島田 杏しまだ あん
おかえり
杏が言った
島田 杏しまだ あん
今日は来てくれてありがとう
遥は目を見開いた
――おかえり
その言葉が、こんなにも温かいなんて知らなかった
朝倉 遥あさくら はるか
……ただいま
小さな声だった
けれど確かに、遥はそう答えた
そして、母の待つ車へと歩き出した
家に帰るのは、まだ少し怖い
だけど、明日もまた、あの場所がある
「おかえり」と言ってくれる人たちがいる
その事実だけで、帰り道は昨日より、少しだけ短く感じられた

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