ーーーこの逃避行に終わりが来るなら、海の中が良いと思うんだ。
「ヘレナ? 」
グレタから声をかけられ、私は勢いよく振り返った。
周りを見渡すと、他の子らはポワントを履いていて、私だけがまだバレエシューズのまま突っ立っていた。
「わ、ごめん。ぼーっとしてた。」
急いでポワントを取り出す。
バーレッスンは終わったんだった。いけない、ついあの夢のことを考えてしまう。
「あなた最近変よ、ヘレナ。……この前の夕食も麻婆豆腐にタバスコかけてたし。」
スクランブルエッグにチリソース。蕎麦に七味唐辛子。焼き鳥に辛子。
一息で言い切ったグレタは、なんだか少し自慢気だ。
「ちょっと待って、辛味に罪は無いわよ。美味しいもの。」
ええー、と焦ったそうにこちらを見るグレタに私は弁解した。
異文化共生というアレね、とくすくすグレタは笑っていたが、その微笑みには少しの安堵が混じっていた。
グレタは優しい。私が夢に囚われている事を見抜いている。
そして、その上で敢えて話を逸らした。
私だってそのくらい理解している。ごめんね、と心の中で唱えてから私は急いでポワントを履き、センターレッスンへと向かった。
一通りセンターレッスンを終え、休憩時間になった。
私はまた夢についてぼんやりと思いを馳せる。
ーーーヘレナ、これはキャッサバ。毒抜きしないと食べられないんだ。
ーーーこれは流氷。……え、海月? アムール川にはいないかな。海月が見たいんだったら水族館にでも行こうか。
ーーーこのビザで、飛行機に乗って行きなさい。一人で行かなくちゃいけない。いいね?
連日夢に現れてくる謎の青年。断片的な記憶が毎晩私に降りかかる。
そして、やっと地名が出てきた。何かの手がかりになるかもしれないが、残念ながら私に心当たりはない。
ずっとバレエ一筋でここまでやってきた。
生まれはポーランド。今でこそロシアにいるけれど、アムール川のある沿岸部に行ったことはない。
「アムール川、か……」
私のいるバレエ学校からは、どのくらい時間がかかるだろう。
これ以上夢が続くなら、アムール川に行ってみるのも悪くないかも知れない。
「グレタ、次の休みはいつだったっけ。」
「次の休み……確か今週末は休みじゃなかったっけ?」
「そうだったかも。あれ、ハニースフレ食べにいく約束はいつだった?」
「まだ決まってないわ。……折角だから今日付き合ってよ。」
いいかしら、とこちらを見るグレタ。綺麗な黒の瞳がキラキラと眩しい。
「勿論。アムールリンデンを探しに行こう。」
「探すだけじゃ嫌よ。食べるまでが遠足なんだから。」
「はは、生憎私も食べるまでが遠足派だ。」
えへへ、と顔を見合わせてお互いに笑った。
そうと決まれば善は急げよ、とグレタは笑う。
「よし、残りの練習頑張ろう。俄然やる気が湧いてきた。」
「もう、ヘレナったら。」
グレタの苦笑に、私は左手をひらひらと振る。
休憩終わりの合図と共に、ポワントの調子を確認してから、私は練習を再開する。
ピルエットを上手く決め、幸先の良い滑り出しだ。
ハニースフレを思い浮かべ、私は笑顔で踊り始めた。












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。