第209話

アイ【4】
5,600
2026/03/02 09:28 更新
朝方の洗面台の前で、
あたしは一人、鏡を見つめていた。

鏡の中に映っているのは、
かつての『紛い物の王子様』じゃない。

数日前までのあたしなら、
この姿を見ただけで吐き気がして、
今すぐにでも自分の存在を
消してしまいたいと願っただろう。

あの子はあたしにとっての太陽だった。
あたしは、あの子の光を反射することでしか、
自分の存在を証明できない月だったから。

だから、その光を失ったあたしは、
自分を不潔だと思った。
間違いだと思った。

あの子と過ごしてきた記憶と共に、
海の底へ沈んで消えてしまいたかった。



でもね、
二階堂 渚
二階堂 渚
貴方は、私達の誇り高き同期です。
 
犬堂 レオ
犬堂 レオ
そうっすよ、あまちゃん。
俺たち、何処にも行かないっすよ。
 
神喰 (なまえ)
神喰 あなた
あま姉…一緒に、帰ろう?
あの言葉は、太陽の光とは違っていた。

それは、凍りついた月の表面を、
じわじわと内側から温めてくれるような熱だった。

短くなった髪をそっと撫でる。
あの子という太陽を失って、
真っ暗闇になった私を見つけてくれたのは、
同じ夜空の、小さい星々だった。

彼らは、あたしの傍にいてくれた。
暗闇に沈んでいたあたしを、
そのままの姿で認めてくれた。

不揃いな髪も、ボロボロになった心も、
セクシュアリティも、全部含めて、
これがあたしの姿。

如月 天音
如月 天音
あの子がいなきゃ、あたしは
価値がないなんて……大嘘だったな。
鏡の中のあたしに、そっと話しかけてみる。

あの子が好きだった。大好きだった。心から愛していた。
あの子に認められたくて、
あたしを見て欲しくて、王子様を演じようとした。
でも、それは愛というより、
ただの執着だったのかもしれない。

この短い髪は、あたしが自分を
取り戻すために流した、血のようなもの。
皆に拒絶された傷跡じゃない。
あたしがあたしを愛するために、
自分で選んだ新しいスタートライン。

あの子がいなくても、あたしの世界は終わらなかった。
あの子がくれた光を、否定なんてしない。
あの子を好きになった気持ちも、忘れる訳ではない。
でも、もうあたしはあの子の光がなくても夜空に踏み止まれる。

暗闇を知っているからこそ、
傍にいてくれる星々の輝きに気づけたんだ。

太陽がいなくなったとしても、
月は、消えてなくなる訳じゃない。
ちゃんと、其処に在るの。

あたしは、ゆっくりと鏡に触れた。
ガラスの向こう側にいるあたしは、
今までで一番情けなくて、
今までで一番自由な顔をしていた。
如月 天音
如月 天音
……ばかだなぁ、あたし、
全てを曝け出したあたしの声は
驚くほど軽くて、少しだけ震えていた。

あの子がいない夜は、これからもきっと暗い。
ふとした瞬間に、あの眩しい光を思い出して、
胸が痛む夜もあるだろう。

でも、もう大丈夫。

欠けていても、満ちていても、
あるいは誰にも見えない新月の夜であっても。
あたしはあたしとして、この夜空に在り続ける。

あたしは洗面台の蛇口を閉め、
最後に一度だけ、鏡の中の自分と視線を合わせた。
そこには、新しい夜を歩き出す為の、
静かな、けれど確かな意志が宿っていた。
如月 天音
如月 天音
……行ってきます!!
あたしは背筋を伸ばし、一歩を踏み出した。
誰のためでもない、あたし自身の、
あたしの為の物語を始めるために。

扉を開けた瞬間、冷たい夜風の代わりに、
温かな春風があたしを包み込んだ。
如月天音 過去編 Fin.

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