第5話

五話
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2019/07/21 09:09
甘田
甘田
火事? 怪我はなかったの?
八代アリス
八代アリス
はい。私も家族も無事だったんですけど……その、色々なものが燃えちゃってですね……
露月
露月
なるほど……。それは、さぞやまかないが重宝することでしょう。しかし、住み込みというのは……?
八代アリス
八代アリス
親戚が声を掛けてくれたおかげで、しばらく親戚の家に家族でお世話になってもいいという話にはなったんですが……その……学校から遠くて……
甘田
甘田
もしかして、そこの織原おりはら高校に通ってる子?
八代アリス
八代アリス
そうです
影宮
影宮
……たしかに、あそこに通っているならここで働くのは合理的だが……。ふん、どれだけ持つものかな
 影宮は鼻で笑う。それを聞いたアリスは、内心で唇を尖らせた。甘田や露月とはずいぶん印象の異なる男性である。
陽道寺
陽道寺
まぁ、そんな細かいことはどうでもいい。影宮、仕事だ
影宮
影宮
断る。僕は忙しいと何度も言っているだろう。原稿が進んでいないんだ
陽道寺
陽道寺
机に向き合っていれば進むというものでもあるまい。そうであれば、とっくに原稿など完成しているはずだからな
影宮
影宮
ぐっ……。ほ、ほっといてくれ
陽道寺
陽道寺
無駄な時間がどれだけ積み重なったところで同じだ。机に向かい続けてもアイディアが浮かばないということは、その方法は貴様には合っていないということだろう。無駄だとわかりきった時間を繰り返すことほど、愚かなことはあるまい
影宮
影宮
……ずいぶんと好き勝手に言ってくれるじゃないか。お前にはわからんだろうがな、閃きを得るのは簡単なことでは――
陽道寺
陽道寺
知らぬ間に庭に落ちていた血にまみれた鍵
 陽道寺が述べた瞬間、影宮の動きが停止した。彼は片眉を持ち上げて訊き返す。
影宮
影宮
……なんだと?
陽道寺
陽道寺
先程来たばかりの依頼だ。依頼人は独り暮らしの老女。いつの間にか、庭に血に濡れた見知らぬ鍵が落ちていたのだそうだ。庭には草木が茂っているため、誰かが侵入すればすぐに気が付く。にもかかわらず、その鍵はいつの間にか庭に落ちていたのだという。……なんともミステリー小説のネタになりそうな話だな
 陽道寺は薄く笑みをうかべた。
露月
露月
血に濡れた鍵……ですか
甘田
甘田
気持ち悪い話だねぇ。依頼人は独り暮らしだっていうし、不安になるんじゃないかな
八代アリス
八代アリス
っていうか、私にはその話、ホラーに聞こえるんですけど……。影宮さんじゃなくて、露月さんに頼んだほうがいいんじゃ――
影宮
影宮
僕が行く
 台詞を遮った影宮に驚き、アリスは彼を見やった。影宮の面持ちは先程までの嫌そうな顔とは異なり、今はどこか凛としている。
甘田
甘田
あれー? 影宮くん、お仕事忙しいんじゃなかったっけ?
影宮
影宮
黙れ色欲魔。女に刺されてくたばってしまえ
甘田
甘田
けっこうな暴言じゃない?
露月
露月
的を射ていると思いますが
甘田
甘田
露月くんもなかなかに冷たいよね
 腰に手をやった陽道寺が、クールな微笑を唇に描きながら、明らかに煽る声を出した。
陽道寺
陽道寺
おや、いいのか? 仕事が忙しいのなら、無理にとは言わんが
影宮
影宮
他人をどうこう言えた義理ではないが……お前のその性格、どうにかならないのか
甘田
甘田
どうにかなるなら、とっくにどうにかなってると思うよ
露月
露月
そうですねぇ……
 甘田と露月がしみじみと述べる。この言葉だけで、陽道寺の性格は知れるというものだった。――もっとも、それはアリスの不安を増幅する役割しか果たしていないのだが。
陽道寺
陽道寺
ふっ、そういうことだ。まぁ、仕事の息抜きとでも思うがいい。幸いなことに、報酬額も悪くないからな。依頼人の住居はここだ
 陽道寺は電話の横に置いてあったメモを影宮に手渡す。いつの間にか、メモを残していたらしかった。
影宮
影宮
……なんだ、すぐそこじゃないか。歩いて行ける
陽道寺
陽道寺
ちなみに、今回はこの探偵事務所の責任者として、俺からひとつの条件を提示したい
影宮
影宮
……なんだ。まぁ、お前のことだ。どうせロクな条件じゃ――
陽道寺
陽道寺
八代アリスを連れていけ
 アリスの肩を、陽道寺がぽんと叩く。
 くちを噤んだ影宮が、真顔でアリスを見た。
 目をしばたたき、そうして影宮は勢いよく視線を陽道寺に戻す。
影宮
影宮
はぁっ? 嫌に決まってるだろ! なんで僕が
陽道寺
陽道寺
バイトに仕事をさせることが、そんなにおかしいか?
影宮
影宮
仕事は他にいくらでもあるだろ。事務所の掃除とか、犬の散歩とか!
陽道寺
陽道寺
どうせ最終的には探偵の助手もさせることになるんだ。今から経験させておいて、なにが悪い
八代アリス
八代アリス
あ、あの……
 言い争っているふたりの視線が、アリスに集まる。それに気圧されながら、アリスはおずおずと発言した。
八代アリス
八代アリス
わ、私も、その……いきなり探偵の助手っていうのは、ちょっとハードルが高いかなーっていうか……
 こうは言ったものの、実際の不満点はそこではなく、相手が影宮という点にある。話が「甘田に同行せよ」「露月に同行せよ」というのであれば、アリスは些かの不安をいだきながらも不満をいだくことはなかっただろう。

 よりによって、印象の悪い影宮に同行するなど、避けられるものであれば避けたいというのが本音であった。
影宮
影宮
ほら、見ろ。本人だってこう言ってるんだ。この仕事は僕ひとりで充分だ
陽道寺
陽道寺
八代
 陽道寺の鋭い眼差しが、アリスを射貫く。鋭いのは眼差しばかりでなく、声まで鋭利で、アリスは相手から目を逸らすことはおろか、返事をすることさえままならなかった。
陽道寺
陽道寺
ハードルというものはな、飛び越えるためにあるんだ。楽に飛び越えられるハードルなど、なんの意味もない
八代アリス
八代アリス
いや、あの……でも……
陽道寺
陽道寺
真に意味を持つハードルは……そうだな。現在の自分にとって、ギリギリ飛び越えられるかどうか――という高さのハードルだ。全力で挑んで、それでも確実に飛び越えられるとは言えないハードル。それこそが、最も己を成長させてくれるものだ
八代アリス
八代アリス
そ、そうかもしれませんけど……
陽道寺
陽道寺
成長するんだ、八代。お前の成長を、俺は望んでいる
八代アリス
八代アリス
と、言われましても……
陽道寺
陽道寺
影宮に同行しないということであれば、お前のバイトはここまでだ。じゃあな
八代アリス
八代アリス
そんな!
陽道寺
陽道寺
短い付き合いだったが、なかなかに楽しかった。ああ、自宅が燃えたんだったか? 大変だな。しかし、人生はそんなものだ。達者でな
八代アリス
八代アリス
同行します! 同行させていただきます! だからそんなこと言わないでください!
 アリスは陽道寺の足に縋りついた。ここまで必死に誰かの足に縋ったのは、生まれて初めての経験であった。
陽道寺
陽道寺
……同行するそうだ。バイトの研修、よろしく頼むぞ
影宮
影宮
お前には……慈悲はないのか……
甘田
甘田
さすがにこれはアリスくんが可哀想だねぇ……
露月
露月
自宅が燃えたばかりの少女に、なんという……
 そんなわけで、アリスは強制的に影宮に同行する運びとなったのである。
 事務所に足を踏み入れて、まだ一時間足らず。あまりに前途多難なアリスのバイト生活が幕を開けようとしていた――。

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