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第7話

新しい朝
22
2026/05/30 13:42 更新
すばるサイド

 玄関のドアを開けた瞬間、少し冷たい朝の空気が流れ込んできた。

 亮の肩がぴくっと上がる。

「しゃむ」

「寒いな」

「やめとこ」

「学校やめとこか」

「やめとこ」

「早いな」

 さっきまでホテルニューアワジ歌ってたやつとは思えへん。

 でもこれが亮や。

 楽しい。

 嫌。

 楽しい。

 嫌。

 その間を行ったり来たりする。

 特に今日は中学部二日目。

 昨日の入学式の疲れも残ってる。

 環境の変化も残ってる。

 亮本人は言葉で説明できへん。

 でも体はちゃんと覚えてる。

 学校行った。

 人いっぱいやった。

 知らん先生おった。

 兄ちゃん帰った。

 頑張った。

 疲れた。

 全部体に残ってる。

 だから朝からずっと少し揺れている。

「にちゃ」

「ん?」

「おる?」

「おる」

「おる?」

「おる」

 車椅子のテーブルを撫でながら聞く。

 何回目やろな。

 もう数えるのやめた。

 亮は不安になると確認する。

 兄ちゃんおる?

 帰ってくる?

 消えへん?

 ここおる?

 それを全部まとめて、

 『おる?』

 や。

「おるやん」

「おるやん」

 亮は少し安心した顔をした。

 俺は車椅子を押して駐車スペースへ向かう。

 家の横。

 そこに停まっている大きな福祉車両。

 亮が生まれる前やったら、たぶん俺はこんな車選んでへん。

 でも今は違う。

 この車が一番使いやすい。

 車椅子ごと乗れる。

 荷物も積める。

 将来も使える。

 そして何より。

 亮が楽や。

 それが一番大事やった。

「おっきい」

 車が見えた瞬間、亮が言った。

「おっきいな」

「おっきい」

「毎日見てるやろ」

「おっきいしよかー」

 出た。

 今日はそれか。

「学校行くやつやで」

「おっきい」

「せやな」

「おっきいしたいねん」

「リフトやろ」

「おっきい」

 言えへん。

 リフトなんて言葉知らん。

 高いも言わへん。

 上がるも言わへん。

 全部おっきい。

 世界のおもろいものはだいたいおっきい。

「ええよー言うて」

「おっきいええよ」

「ええよー!」

 声が弾んだ。

 さっきまで学校やめとこ言うてたやん。

 ほんま忙しい。

 俺は車の後ろへ回る。

 リモコンを取り出す。

 ボタンを押す。

 ウィーン……

 機械音が鳴った瞬間。

「おっ!」

 亮の顔が変わった。

 目が大きくなる。

 体が前へ出る。

 テーブルに手をつく。

「近い近い」

「おっきい!」

「近い」

「おっきい!」

 リフトがゆっくり下りてくる。

 亮は完全に見入っていた。

 弱視やから近くで見る。

 顔がどんどん前へ出る。

「ごっつんする」

「おっきい!」

「聞いてへん」

 ウィーン……

 ガコン。

 地面まで下りる。

「おっきい!」

「到着しました」

「もっか!」

「まだ始まってへん」

「もっか!」

「早い早い」

 亮は笑っていた。

 朝の不安はどこ行ったんやろ。

 でもこういうもんや。

 この子は今に生きてる。

 目の前に面白いものが来たらそっち。

 不安も嫌も飛ぶ。

 だから支援も面白い。

 何で切り替わるか分からん。

「乗るで」

「おっきい!」

「前向く」

「おっきい!」

 車椅子をゆっくりリフトへ乗せる。

 ガタ。

 少し揺れる。

 亮が笑う。

「しゅー」

「まだ動いてへん」

「しゅー」

「気持ちは分かる」

 安全バーを下ろす。

 カチャン。

「がっちゃん!」

 出た。

 今日はがっちゃんの日でもあるらしい。

「がっちゃんしたいねん」

「今したやん」

「もっか」

「まだ上がる」

「おっきい」

 リフトを上げる。

 ウィーン……

 少しずつ。

 ゆっくり。

 体が浮く。

「おぉーーー」

 亮が声を上げる。

 毎回や。

 毎回同じ反応する。

 年齢関係ない。

 十三歳でもやる。

「おぉーーー」

「上がってるな」

「おっきい!」

「せやな」

「おっきい!」

「それしか言わへんな」

 でも楽しそうや。

 この瞬間だけは。

 学校へ行く途中じゃなくて。

 リフトで遊んでる子になる。

 上まで到着する。

 俺は車椅子を車内へ押し込んだ。

「がっちゃん?」

「今から」

「がっちゃん!」

 車椅子固定ベルトを手に取る。

 ガチャン。

「がっちゃん!!」

 満面の笑み。

 完全に音。

 固定したいわけちゃう。

 音が好き。

「もう一個」

「がっちゃん!」

 反対側。

 ガチャン。

「がっちゃん!!」

 声でか。

「好きやな」

「もっか!」

「終わり」

「もっか!」

「固定終わり」

「もっか!」

「やめとこ」

 すると。

「やめとこ」

 自分で言った。

「せやな」

「やめとこ」

 ちょっと納得した。

 俺は車のドアを閉める。

 運転席へ回る。

 エンジンをかける。

 ブルルッ。

 振動が伝わる。

「しゅー?」

「学校しゅー」

「102?」

「102」

 覚えたな。

 昨日一日で。

「102!」

「102や」

「102!」

「気に入ったな」

「102!」

 数字の意味を理解してるわけやない。

 でも音が気に入った。

 だから残った。

 亮の言葉ってそういうことが多い。

 意味より先に音。

 音から好きになる。

 車を発進させる。

 ゆっくり。

 家の前の道を出る。

 バックミラーを見る。

 亮はテーブルをとんとん叩いていた。

「やさしい手」

「やしゃ」

 力が抜ける。

 こういう積み重ねや。

 亮は力加減が苦手や。

 でも声をかけ続けると少しずつ抜ける。

「にちゃ」

「ん?」

「おる?」

「おる」

「おる?」

「おる」

「おるやん」

「おるやん」

 少し沈黙。

 そして突然。

「♪A B C D E F G」

 始まった。

「急やな」

「♪H I J K L M N O P」

 綺麗な声。

 ほんまに綺麗や。

 普段の発語からは想像できへん。

 発音も。

 リズムも。

 音程も。

 全部綺麗。

 俺も続ける。

「♪Q R S」

「♪T U V」

「♪W X」

「♪Y and Z」

 歌い終わる。

 少し間。

 そして。

「♪ホテルニュ〜ウア〜ワ〜ジ〜」

「やっぱり出た」

「にゅーあわじしよかー!」

「学校」

「にゅーあわじ!」

「学校」

「にゅーあわじ!」

「学校」

「知らんがな」

「急に強い」

 亮が笑う。

 俺も笑う。

 すると。

「♪クリアアサヒが家で冷えてる〜」

 始まった。

 また急やな。

 でも声がええ。

 やたらええ。

 変な話。

 発語だけ聞いたら年齢より幼く感じる。

 でも歌だけ聞いたら。

 本気で歌うまキッズや。

 息の抜き方も。

 リズムも。

 間も。

 妙に完成されてる。

「誰に教わったんやろな」

「♪こころウキウキワクワク〜」

「聞いてへんな」

 亮は楽しそうに歌う。

 窓の外は流れていく。

 朝の通勤。

 信号。

 コンビニ。

 歩いている人。

 全部流れる。

 その中で亮だけが歌ってる。

 歌って。

 笑って。

 突然黙る。

 そしてまた。

「にちゃ」

「ん?」

「おる?」

 確認する。

「おる」

「おる?」

「おる」

 亮は少しだけ黙った。

 そして。

「……がっこ」

 小さく言った。

 あ。

 来た。

 楽しい時間が少し落ちた。

 学校が近づいてきたことを感じたんやろな。

「学校やな」

「せんせ?」

「せんせおる」

「102?」

「102」

「……にちゃ?」

「朝の会始まる前までおる」

 亮は黙る。

 窓の外を見る。

 少しだけ口を尖らせる。

 さっきまでのリフトの顔とは違う。

 俺はバックミラー越しにその顔を見る。

 不安やな。

 分かる。

 昨日頑張ったもんな。

 新しい先生。

 新しい教室。

 新しい空気。

 兄ちゃん帰った。

 頑張った。

 疲れた。

 覚えてるよな。

「102行ったら何する?」

 俺が聞く。

 亮は少し考えた。

「ころころ」

 出た。

「クーゲルバーンか」

「ころころ」

「好きやな」

「ころころ」

「ビー玉逃げたら?」

「ばばいしたっ!」

「人のせいにするな」

 亮が笑う。

 少し緊張がほどける。

「ラジカセは?」

「しゅー」

「ラジカセしゅーなんや」

「しゅー」

「壊したらあかんで」

「知らんがな」

「知ってて」

 また笑う。

 こうやって。

 学校の話を少しずつ混ぜる。

 嫌な場所じゃなくて。

 好きなものがある場所として思い出せるように。

 クーゲルバーン。

 ラジカセ。

 先生。

 歌。

 自由時間。

 全部ある。

 学校は嫌なだけの場所じゃない。

 それを思い出せたらええ。

 車は少しずつ学校へ近づいていく。

 亮はテーブルを撫でながら。

 小さく。

 本当に小さく。

「……にちゃ、おる」

 と言った。

 確認じゃなかった。

 独り言みたいな声やった。

 俺は少しだけ笑って。

「おる」

 と返した。

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