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第19話

一年後の君へ、僕はまだ恋をする
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2026/02/11 04:59 更新
彼女の行きたい温泉街まで距離があったので、
僕達はバスに乗っている。
彼女はバスに揺られながら外の景色を眺めていた。
「ねえ」
「なに?」
「群馬ってさ、思ってたより静かじゃない?」
僕達は群馬に来ている。
群馬の温泉街。草津温泉だ。
「それは場所によると思う」
「でもいいなー。落ち着く」

バスを降りると、周りには低い建物と山の稜線。
観光地らしい賑やかさはあるけれど、都会ほど騒がしくはない。
「ここが温泉街?」
「うん、ちょっと歩けば見えるよ」
「日帰りって言ってなかった?」
「言った」
「……不安になる言い方やめて」
彼女は何も答えず、笑うだけだった。
温泉街を歩き、土産物屋を冷やかして、足湯に座って。
時間は思った以上に早く過ぎた。
「もう夕方じゃん」
「ね」
「帰れるよね?」
「うーん……それがさ」
彼女はスマホを見せてくる。
表示されているのは、赤字の文字。
「運休?」
「うん。大雨で」
「……まじで?」
「まじで」
一瞬、言葉が出なかった。
「代替手段は?」
「バスも最終終わってる」
「じゃあ……」
「帰れないね」
彼女は、あまりにもあっさり言った。
「ちょっと待って」
「なに?」
「ホテルとか……」
「あるよ」
「あるの!?」
「さっき見た。空いてた」
どうやら、彼女は最初から少し予想していたらしい。
「勝手に決めすぎじゃない?」
「嫌なら無理しないよ?」
「……嫌とは言ってない」
少し沈黙が落ちる。
彼女はそれを破るように言った。
「一緒にいたくない?」
その聞き方は反則だと思う。
ホテルは小さくて、古いけれど清潔だった。
フロントで鍵を受け取るとき、僕はずっと落ち着かなかった。鍵が一個しかなかったから。
「緊張してる?」
「してない」
「嘘」
部屋に入ると、畳と小さなテーブル、窓の外には山。
布団は、二組。
「……二部屋じゃないんだ」
「空いてなかった」
「本当に?」
「ほんとだよ」
彼女は靴を脱ぎ、窓際に座る。
「ねえ」
「なに」
「今日、楽しかった?」
「……楽しかった」
「よかった」
少し間を置いて、彼女は続ける。
「こういう時間、ずっと続けばいいのにって思う」
胸の奥が、静かに痛んだ。
僕は何も言えず、テーブルの上の鍵を見つめる。
「君は?」
「……考えないようにしてる」
「そっか」
それでも彼女は、どこか満足そうに笑った。
「じゃあ今日はね」
「うん」
「“何も決めない日”にしよ」
外では雨が強くなっていた。
帰れなくなった夜は、まだ始まったばかりだった。

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