安定の短編集でしか出さない長文のばうてる
落ち着いて聞いてください。
今回も記憶喪失ネタです。
救いはあります。バッドエンドは趣味じゃないので。
それでは
例年よりも幾分か早く梅雨入りを果たした日本は、それはそれは嫌悪感が漂っていた
人々は傘を差し、俯き加減にただ目的地を目指すためだけに足を進める。
どんよりとした街を、僕は図書館から眺めていた
呆れがちに鉛筆を握る
無造作と言っていい程にノートに綴られた数式は、僕の気分をいっそう悪くした
頭を切り替えろ、と背もたれに寄り掛かり目を瞑る
つぎ、目を開けると、待っていたのは集中力ではなく、僕の顔を覗き込む青年だった
大声を上げなかった僕には是非国民栄誉賞をあげたい。テスト前の頭で切実にそう思った。
絵の具で塗ったような赤髪が、目を奪う
蜂蜜色の瞳を細くして、彼は言う
そして、僕の制服をじろりと見た
中高と制服はブレザーだった僕の目には、学ランの彼が珍しくうつった
口角が弧を描き、僕を見下ろした状態の彼は言った
これが、赤髪の彼……もとい、ばぁうくんとの出逢い
湿った雰囲気を纏う彼に
僕は頷くことしか出来なかった
あれから、毎日とは言わずとも、彼と放課後に勉強をするようになった。
否、教えるようになった。
青ざめた顔をする彼の「マジヤバい」の基準がどの辺なのかは知らないが
過去、数学古文物理を教えた僕からすれば、全てが「マジヤバい」。
頭を抱えた。勿論心の中でだが。
マズイぞ、これはマズイ。よく高校生になれたものだ
アイハバペンだぞ?『I have a pen』だぞ?
割とキッパリ言い切った彼に少し驚いた
どうやら、今度の期末考査で、全ての教科で赤点を回避したいのだとか
彼の言う意味は、よく分からなかった
お友達?と聞くと、そんな感じーと返された
あいつはまとめて喋るのが下手なんだ、と困ったように笑った。
友人をおもう顔が、とても綺麗だと思った。
そうなんだよーと言う彼に苦笑する
徐々に暑くなりつつある外に対して、図書館はいつまでも同じ空気だった
今までは耳が痛くなりそうな程静かな図書館だったのに、今は囁くような彼の声のおかげか、穏やかな時間が流れていた
丸つけをし終わった彼のノートを見せる
ばぁうくんは嫌そうに息を吐いた
彼はきょとんと目を丸くする
まるで、なんで分かるんだと言うように
正直最初はどうなることかと思ったよ、と言えば、彼はノートを持ってどこか嬉しそうに頷いた
僕が彼に会った時に解いていた数2
完璧とは言わずとも彼は解いてみせた
ありがとう
机に突っ伏してそう言った彼に、僕はなんて声を掛けるべきだったのか、未だに分からない。
彼の英作文の丸つけをする僕に、伏せ目がちにばぁうくんは言った
不意に持ち出された少し先の未来に
期待をしながら微笑んだ
夏だし、と言えば、彼は嬉しそうに目を細める
丸つけを終え、彼が直している間に手帳を取り出す
2人して手帳を覗き込んで、8月の最後の日曜日に、赤い丸をつけた。
僕らが住む街に、海はなかった
電車とバスを乗り継ぎ、40分程度の旅路の先の隣町にある蒼い景色を目的地に設定する
海水浴場とは名ばかりの、砂浜より岩場が多いそこは、偶に地元の人が釣りをしているような、小さくて地味な海。
手に持った赤ペンを、この前黒色と間違えて買ってしまった藍色のボールペンに持ち変える
「ばぁうくんと海に行く。」
少し滲んだ藍の線が、
8月最後の日曜日の予定を埋めた
からかい口調のばぁうくんに、微笑んで返した
はにかむ彼の表情には、僕と同じむず痒い感情がきっと乗っている
きっと、僕らの間には、他と違う特別な感情みたいなものはないのかもしれない
それでも、夏の夕暮れに照らされたくすぐったい時間は、心地よくて好きだった。
終業式の日、震える携帯を手に取って、ぱかりと開けた画面に映る、彼からの連絡
微かに焼けた肌は、袖があたると少しヒリつく。
それでも、図書館へ走った
入口に見える、塗りつぶされたような赤色。
僕を見つけた途端、答案用紙を握って僕に突撃してきたばぁうくん
この上なく嬉しそうな彼の様子に、努力が報われたのだと知った。
抱きつかんと言わんばかりの勢いで見せられた答案用紙は、確かに『回避』としか言えないような数字ばかりが飾られていた
特に英語。
アイハバペンから始まった勉強会。
赤点を1点越した点数に、少しだけ安堵した。
でもその中で、一際目立つ数字があったのだ。
僕が1番始めに教えた数2。
70点台が飾られた答案用紙に思わず目頭が熱くなった
『テストが受けれる』
彼はそう言った。
泣き出してしまったばぁうくんをどうにか慰めようと、背中をさすった
その背があたたかく、同時に薄かったのを覚えている
この年、僕の夏の思い出はそれで終わりだ。
手帳の隅に書き留められた、藍色の約束は
果たされることがなかった。
ガラケーが震えるのを待つことも、なくなった。
残暑の足音も聞こえなくなった10月
僕らの雰囲気は、夏休み明けのどこか散漫なものから、受験を意識した張り詰めたものに移ろいていく
予備校に通い始めたという声も聞く中、僕は図書館に通っている
いつかと同じ席で、数学の課題を解いた
彼と出逢う前の日常が、手元に戻りつつあった。
彼と出逢ってから、僕も僕で大分変わったと思うのだ
放課後、似つかわしくないCDショップによってみたり、勉強中に音楽プレーヤーを聞いてみたり
彼がいなければ意味が無いと、もうやらないが。
ばぁうくんと連絡がつかなくなったのは、あれからずっとだ。あの、泣き出した日から。
約束の日、彼の携帯に電話を掛けてみた。
出なかった。それが全て。
絶対に意味があると思った。
大雑把で適当だけど
真っ直ぐで、優しいひとだったから。
短い夏の勉強会。その時間だけで充分だった。
彼から連絡が来ないまま
約束の藍色は、終わりを告げた
確かにいたのに、まるでいなかったかのように白で埋まる僕の夏。心は雨模様だ、ずっと。
僕には、それで充分だった。
それだけで、いっぱいいっぱいだった。
耳が痛くなるほど静かな図書館で、ページをめくる音だけが響いていた。
手帳の隅、滲んだまま色褪せていく藍の約束だけが
まばゆい幻の残滓だった
秋が過ぎ、冬が過ぎ、僕の好きな春が来た。
めでたく第1志望に合格した僕は、あの日彼がいたように、図書館の入口に立っていた
薄暮れの中、気の早い一番星がそらにのった。
肌寒いからと帰路に足を運んだ
宵闇に追い立てられるように、ずんずん進む
ふと、敷地を出て初めての角を曲がる直前に止まった
長く伸びた影が、道を塞ぐ
顔を上げると、見えたのは色素の薄い瞳
ヘアピンをつけた、見知らぬ青年だった
肩を掴まれ、前置きもなく放たれた言葉に、放心状態で頷いた。
息を吐いた青年は、僕の肩から手を滑りおろし、僕の両手を握った
ばぁうくん、という言葉に僕の肩が跳ね上がる
わたわたと話し始め慌てる彼は
僕の記憶を呼び起こした
『マヒトが怒るから』
囁くほどの声を目の前の彼は拾ったのか、目一杯目を丸くして僕を見た
歪んだ表情で僕を見た"まひとくん"は、少し冷えた両手で、僕の両手を包んでいる
何処にいるの、彼は、今、どこに
場所を問うたのに、帰ってきたのはいささか的外れなものだった。
朝、引き出しからガラケーを取り出した
中々解約せずにいられた携帯を。
なぜ気づかなかったのか、1件、メールが来ていた
きっと、送信時間を設定したものだろう
差出人の名前を見て、読んで、それで、飛び出した
僕の、春の日曜日。
僕は、彼のことが好きだった。
そしてきっと、彼も僕のことが好きだった。
きっと、両想いだった。
『件名:てるちゃんへ』
『きっとこれを読んでるってことは、俺が約束破っちゃったってことになってると思うんだけど』
電車の窓から、過ぎる景色を眺める
田んぼとか、みかん畑とか、そんな風景ばっかりを通り過ぎて、ゆっくりと時間は流れた
『俺、病気なんだよね。あの、あれ、脳みその病気。なんていったかな、まあいっか』
『そんで、手術しなきゃいけなくなってさ、その前に、定期考査があったんだ。』
『それでどうしても、いい点とりたかった。』
『徳積んどいたらさ、手術、成功しそうじゃん?いい気分で、のぞみたかったんだよ。』
「テストはいい気分でやりたい」と言っていた彼が頭をよぎる。
ああ、これを言っていたのだと、単純に思った
『俺、てるちゃんと会えてよかったって思うんだ』
『てるちゃんほど、俺の事気にかけてくれる奴なんていなかったよ。あ、まひとは別な。』
『頭悪いけどバカじゃない、って言ってくれたの、嬉しかったぜ』
僕しかいない車両に、震える声が響いた
『先生にさ、手術成功は五分五分だって言われたんだ。ひどくねえ?』
『でさ、高確率で、記憶障害になるって言うんだ。こんなに酷いことってある?』
『なんか、なんとかコンセントつって、お医者さんは患者さんに全部言わなきゃいけないとかなんとか』
『でさ、俺決めたんだよね』
『約束は忘れちゃっても、絶対てるちゃんのこと忘れてたまるかって』
電車を降り、バスに乗り込む。
おもちゃみたいな、こじんまりとしたバス。
窓を見てふと思った
いるかいないかも分からない人を、確信をもって会いに行こうとしている僕は虚しくうつった
『約束、守れなくてごめんね。』
『何発でも殴っていいからさ、また勉強教えてよ。大学で留年は勘弁なんだ。』
『甘んじて受け入れるよ。(ねえこれ使い方あってるのかな)』
幻想の輪郭を不器用になぞる様に、彼の言葉が僕の頬に触れた気がした
『俺のこと、忘れてもいいけど』
そんなわけ、ないじゃないか
『俺は、待ってるよ。』
バスから見える、海を見た
灰色の防波堤。車もなけりゃ、人もいない
頭から、僕のことが消え去った彼は、果たして待っていてくれるのだろうか。
ひと夏、たったひと夏の秘密の勉強会。
僕にはそれだけで充分だったけど、彼は、ばぁうくんは、どう思っていたのだろうか。
『p.s.』
『好きだよ』
降車ボタンを押し、携帯を握りしめた
海岸へ繋がる狭い階段を降りる
広がる海は、春の空をうつし、穏やかに凪いでいる
ああ、確かに、確かにあったのだ
あの日、シャッターを切ったように瞼の裏に焼き付いた僕らの想像図。
湿る頬が、彼と初めて会った梅雨を思い出させた
青に、赤はよく映える
青から見た赤は綺麗だとかなんとか、そんな話を聞いたことがあるような気がする
海から見たばぁうくんは綺麗なのかなとか、思った僕ごと誰か殴って欲しい気もした。
だから、潮風に靡く赤髪が綺麗なのを知っている
赤マルよりも、青マルが好きなのを知っている
彼の携帯が、藍色なのも、知っている
今、目の前にうつる青年の手にあるものが、藍色のガラケーなのを知っている。
その中に、僕の連絡先があるのも
知ってる、知ってるんだよ
どうしても、止まらない涙はあるもので。
流れ落ちた雫は、砂浜に埋まった
驚いたように蜂蜜色がまるくなったのを見て、泣きながら笑った。
赤点ギリギリの答案と、夏の藍の約束を抱えて、世界の片隅で子供のように笑いあったあの日
あの日のように、背中に手を回した
そしたら、僕の肩が濡れた
それだけで充分なのだ。それだけで。
藍色の約束は、僕の眼前
眩しく光って、世界に降り注ぐ
いますぐにでも触れられる距離に
滲んでいた。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!