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第4話

刺青 4
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2022/07/06 09:00 更新
いつしかひるも過ぎて、のどかな春の日は漸く暮れかゝったが、清吉の手は少しも休まず、女の眠りも破れなかった。娘の帰りの遅きを案じて迎いに出た箱屋迄が、
清吉
あのならもう疾うに帰って行きましたよ
と云われて追い返された。月が対岸の土州としゅう屋敷の上にかゝって、夢のような光が沿岸一帯の家々の座敷に流れ込む頃には、刺青はまだ半分も出来上らず、清吉は一心に蝋燭のしんを掻き立てゝ居た。
一点の色を注ぎ込むのも、彼に取っては容易なわざでなかった。さす針、ぬく針の度毎に深い吐息をついて、自分の心が刺されるように感じた。針の痕は次第々々に巨大な女郎蜘蛛じょろうぐも形象かたちそなえ始めて、再び夜がしら/\と白みめた時分には、この不思議な魔性の動物は、八本のあしを伸ばしつゝ、背一面にわだかまった。
春の夜は、上り下りの河船かわふね櫓声ろごえに明け放れて、朝風をはらんで下る白帆の頂から薄らぎ初める霞の中に、中洲、箱崎、霊岸島の家々のいらかがきらめく頃、清吉は漸く絵筆をいて、娘の背に刺り込まれた蜘蛛のかたちを眺めて居た。その刺青こそは彼の生命のすべてゞあった。その仕事をなし終えた後の彼の心は空虚うつろであった。
二つの人影は其のまゝ稍〻暫く動かなかった。そうして、低く、かすれた声が部屋の四壁にふるえて聞えた。
清吉
己はお前をほんとうの美しい女にする為めに、刺青の中へ己の魂をうち込んだのだ、もう今からは日本国中に、お前にまさる女は居ない。お前はもう今迄のような臆病な心は持って居ないのだ。男と云う男は、皆なお前の肥料こやしになるのだ。………
其の言葉が通じたか、かすかに、糸のような呻き声が女の唇にのぼった。娘は次第々々に知覚を恢復して来た。重く引き入れては、重く引き出す肩息に、蜘蛛の肢は生けるが如く蠕動ぜんどうした。
清吉
苦しかろう。体を蜘蛛が抱きしめて居るのだから
こう云われて娘は細く無意味な眼を開いた。其の瞳は夕月の光を増すように、だん/\と輝いて男の顔に照った。
親方、早く私にせなかの刺青を見せておくれ、お前さんの命を貰った代りに、私はさぞ美しくなったろうねえ
娘の言葉は夢のようであったが、しかし其の調子には何処か鋭い力がこもって居た。
清吉
まあ、これから湯殿へ行って色上げをするのだ。苦しかろうがちッと我慢をしな
と、清吉は耳元へ口を寄せて、いたわるように囁いた。
美しくさえなるのなら、どんなにでも辛抱して見せましょうよ
と、娘は身内みうちの痛みを抑えて、強いて微笑ほゝえんだ。

あゝ、湯が滲みて苦しいこと。………親方、後生だから私をちゃって、二階へ行って待って居てお呉れ、私はこんな悲惨みじめざまを男に見られるのが口惜くやしいから
娘は湯上りの体を拭いもあえず、いたわる清吉の手をつきのけて、激しい苦痛に流しの板の間へ身を投げたまゝ、うなされる如くに呻いた。気狂じみた髪が悩ましげに其の頬へ乱れた。女の背後には鏡台が立てかけてあった。真っ白な足の裏が二つ、その面へ映って居た。
昨日とは打って変った女の態度に、清吉はかたならず驚いたが、云われるまゝに独り二階に待って居ると、凡そ半時ばかりって、女は洗い髪を両肩へすべらせ、身じまいを整えて上って来た。そうして苦痛くるしみのかげもとまらぬ晴れやかな眉を張って、欄干に靠れながらおぼろにかすむ大空を仰いだ。
清吉
この絵は刺青と一緒にお前にやるから、其れを持ってもう帰るがいゝ
こう云って清吉は巻物を女の前にさし置いた。
親方、私はもう今迄のような臆病な心を、さらりと捨てゝしまいました。―――お前さんは真先に私の肥料こやしになったんだねえ
と、女はつるぎのような瞳を輝かした。その耳には凱歌の声がひゞいて居た。
清吉
帰る前にもう一遍、その刺青を見せてくれ
清吉はこう云った。
女は黙ってうなずいて肌を脱いた。折から朝日が刺青のおもてにさして、女のせなかは燦爛とした。

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