キューを持つ手に、緊張が走る。
ギャラリーこそいないが、先程とはまるで雰囲気が違う。もうお遊びの時間はお終いだと言うように。
ヤンヤンが触れてもいいボールは1~7番までのローボール。そのうちの4つをポケットできれば、エイトボールまで辿り着ける。
聞こえは簡単そうだが、そう一筋縄にはいかないだろう。
今回のブレイクショットを飾るのはジェミン。
ヘッドラインと呼ばれる箇所に白い手球を置く。彼は腰を低く保ち、キューを台に構えた。その眼光は岩壁を貫くようだ。彼の視界に映るのは、手球と15の的球だけ。
キューを出し入れする手が一瞬静止したかと思えば、その瞬間勢いよくボールめがけて腕を突き出した。
勢いのある、それでいて繊細なショット。手球は一直線に進み、そのままポケットの中へと吸い込まれていった。
その一連の動作に唖然とするヤンヤンの前で、彼は再び口角を上げるとキューを肩にかける。そして右手の人差し指で唇をなぞった。流石、としか言いようがなかった。ハンデを与えられたとは言えど、あまりにも次元が違いすぎる。
ジェミンは再び、迷うことなく長クッションの傍らを歩き、ひとつのボールに狙いを定めた。
彼はキューの先端をそっと手球の上に乗せ、ゆっくりと押し出す。その手つきは繊細で、さながら職人のようだ。
自然の摂理とでもいうように、手球に当てられたボールは美しい軌道を見せ、ポケットに吸い込まれた。その一連の動作は、まるでスローモーションのようにヤンヤンの視界に映ずる。
彼はそれを見届ける前にそのまま次のボールに移る。そしてもう一つ手球を撞くと、そこに先程の手球をぶつけて2つの的球をおとしいれた。
まるで魔法を見ているようだ。
ヤンヤンは呆気に取られ、ただその一連の流れを見つめる。
まだ試合が始まって間もないと言うのに、この集中力と技術力の高さは一体なんだというのか。彼は本当に遊び感覚でここに来たのだろうか。否、本気だからここに居るのだ。本気でこのカジノの賭博師たちを、彼は相手にしようとしているのだ。
ただ呆然とするヤンヤンに、ジェミンは気にも留めず、再び手球を撞く体勢に入った。そして先程と全く同じ動作を繰り返す。
あと少しで撞くというところで、仲間の一人が彼を呼んだ。ロンジュンだったか。ジェミンは視線を手球から移し、ゆっくりと後ろを見る。
ロンジュンはジェミンを真っ直ぐに見つめていた。黒水晶のような瞳の奥底に、ジェミンへ訴えかけるなにかがある。
それを悟ったジェミンは、途端につまらなそうに唇を突き出した。
ジェミンはロンジュンを一瞥すると、もう一度キューを握り直して構えた。
だが、それは先程の緊張感を孕んだものではなく、一気に気が抜けたのを感じる。
不貞腐れた雰囲気を醸しながら、ジェミンは次の手球に狙いを定める。強い力で押し出されたボールは勢いよく、一直線に飛んでいった。その軌道は先程のものとは違う。
ボールはポケット付近のクッションに当たり、その場で止まった。ジェミンはそれを見届けると、キューを下ろし、仲間のもとへと歩み寄った。
ヤンヤンは困惑しながらも、その場に立ち尽くした。もう彼が打つ番は終わったのだろうか。すると、ジェミンは急にこちらを振り返りヤンヤンに「頑張れー」と声を掛けた。
そこでヤンヤンは悟った。
彼は、わざと打ち損ねたのだと。
ヤンヤンはふと、後ろを見る。
そこには台に近づいてプレーを見ているユウタが居た。
ユウタは、二人の対決など全く意に介していないようだった。ヤンヤンに心配の眼差しを送るわけでも、ジェミンに期待の眼差しを送るわけでもなく、彼はただただそのゲームを楽しんでいるようにしか見えなかった。
(いや、楽しんでいるんだろうな)
そうに違いない。だって彼は、ギャンブルをするために、そしてそのスリルを味わうために、ここに来たのだから。
ヤンヤンは再び前を向くと、手球を見据えてキューを握り直した。
ふー、と息を吐き、構える。ヤンヤンの目線の先にあるのはキューの先と白い手球、そして1番ボール。恐怖、緊張、不安。自分の心臓の音が大きく響くのを感じる。大丈夫だ、手の震えは収まっている。何を怯えている?これはただの遊戯だと思え。
そうだ、これは遊びだ。ゲームだ。
ヤンヤンは自分に言い聞かせるように心の中で呟くと、手球を撞いた。ボールは勢いよく飛び出し、的球にぶつかる。そしてそのまま、吸い込まれるようにして1番ボールがポケットへと落ちた。
その瞬間、ギャラリーから歓声が上がるのを感じる。
ヤンヤンは思わずその声の方向を見た。テヨンが感激したように手を叩いているのが見える。ジャニーは口笛を吹き、ユウタは相変わらずニヤニヤとこちらを眺めていた。
ヘチャンは感心した様子で腕を組む。
ほっと一息つきながら、ヤンヤンは次の手球の前に陣取った。
もう随分と汗をかいてしまった手のひらをズボンに擦り付けながら前を見据える。手球に向かってキューを構え、ヤンヤンは意を決して撞いた。ボールは勢いよく進みながらクッションに向かって軌道を描くが、しかし先程の投球でズレた的球に当たりそのまま長クッションの方へと飛び出した。
ジェミンは立ち尽くすヤンヤンの背中をポンッと叩くと、耳元で囁くように声をかけた。
どこか悪戯っぽさを孕んだ声色だ。彼はにんまりと笑った。
形のいい眉を八の字にして、今にも泣きそうな表情で見つめるテヨンをジャニーが一喝する。彼は「そ、そうだね」と頷き、気を取り直すように咳払いをした。
さて、ヤンヤンは折角のチャンスを失ってしまった。次はジェミン。先程の彼の手さばきを見れば素人でも解る。この試合では、彼に勝てない。
ああ、もう。なんで初心者の僕が、こんなビリヤードの申し子みたいな奴にいきなり対戦しないといけないんだよ!というユウタさんの無茶ぶりのせいじゃないか!100億飛んでいくんだぞ!
今ここでぶつけられぬ恨みを、素知らぬ顔でグラスに口をつける彼を睨みつけることで訴える。ユウタはその視線に気づきはするものの、ヤンヤンの気持ちを知ってか知らずか、「がんばって!」と口パクで伝えてきた。ははは、的球を腹にお見舞いしてやろうか。
そうしていると、ジェミンの準備が整い、既にキューが構えられていた。何度見ても美しい姿勢だ。敵ながら惚れ惚れするほど。
カンッ!と気持ちの良い音が鳴り、手球が11番ボールをポケットへと導く。それが落ちるのを見届ける前に、右側の長クッションへと移動し、10番ボールを狙う。素人には理解できない、彼らにしか見えない軌道があるのだろう。的球は意志を持ったようにテーブルを駆け、サイドポケットへと入っていった。
口々にジェミンを褒め称える。しかし、その称賛は彼に届いていないようで、ジェミンはひとつも表情を変えず再び左側へ回り込んだ。
狙いを定めるは9番ボール。勝利を決める8番ボールは目前。リーチポイントである。
ヤンヤンの心臓はバクバクと脈打った。対照的に、ジェミンは獲物を射るような目つきで、構える。その視線の先には、彼の手球。ヤンヤンはその瞳孔の開いた瞳から目を離せないでいた。
カンッ!
ボールはクッションの上スレスレを通過し、最終的に9番に当ってポケットインとなった。
テヨンはユタに食ってかかったが、ユタはそれを軽くあしらいながら、グラスの氷を揺らしていた。
ジェミンは相変わらず手球を見据える。その眼光は先程よりも柔和に感じるが、それに一切の希望を抱くこともできない。
敗北は目前。心臓の音がやけにうるさいのを感じる。これは緊張か、それとも恐怖からくるものか?
カンッ!と球がぶつかる音が鳴る。その音が耳に入るだけで、脳が揺さぶられたような感覚に陥る。
(ああもう……)
目が回ってしまいそうだ! 今までと同じように、的球は計算された軌道を描いてテーブルを駆ける。ヤンヤンは思わず目を背けそうになった。しかし、次の瞬間にはその目を見開くことになる。
8番ボールがポケットのスレスレに留まったのだ。
ジェミンは残念、とでもいうように唇を尖らせる。しかし内心はそう思っていなさそうだ。その表情はとてもにこやかだった。
その余裕ぶった様子が、無性に癪に障った。ヤンヤンはムッと眉を寄せるが、相手は手練れのビリヤードプレイヤーだ。素人が敵う相手ではないことは百も承知である。
深呼吸をする。されど気持ちは落ち着かない。ここで3回連続してポケットインできなければ、ジェミンと同じ土俵に立つことはできない。これでもハンデありなのだが、それだけでは埋まらない差があることはキューの構え方から歴然としていることだ。
2番ボールを見据えて、構える。
その時だった。ふと、ジャニーが横に立ったのだ。
突如、ジャニーとテヨンの二人に顔を覗き込まれ、ヤンヤンはギョッとした。一見心配しているような声色だが、その眼には真意が映されている。この絶好の機会を逃すわけにはいかない。
ヤンヤンが涙目でそう言うと、テヨンは頭を撫でて隣のビリヤードに促す。
とんだ猿芝居だ。しかし、これ以上に確固とした椅子などない。ヤンヤンがこのまま一度もミスせずに8番ボールまで辿り着く確率など、ゼロに等しいだろう。
ヘチャンは呆れた様子でジャニーを見た。それはそうだ。こんな見え透いた嘘を本気で信じる方がおかしい。
すると、その傍らで高らかに笑い声が上がった。
ジェミンは挑発的にジャニーにそう告げる。彼はそれを聞くと、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの余裕な笑みを取り戻した。
そのやり取りを見ていたヤンヤンは内心穏やかではなかった。
(ああもう……本当に大丈夫だろうか)
しかしここで引き下がった者に勝負について野次を飛ばす資格はない。ただ、ジャニーを信じるだけ。
ヤンヤンは、この世のありとあらゆる神に勝利を乞い願うしかないのだった。



















編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。