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第2話

殺人鬼の告白
97
2023/11/25 06:34
ぽつり、ぽつり。
先程まで荒れ吹いていた雪はすっかり止んでいる。
会場もすっかりしずまりかえり、残っている者も数えられるくらいしか居ない。
ナワーブは机に突っ伏しており、浴びるほどの酒を飲んだ後だった。

ナワーブは空になったグラスを振ろうと、手を伸ばす。しかし、グラスはナワーブの手をすり抜け、ガシャンと音を立てて割れた。
「あ……」
まだ少し残っていたシャンパンがこぼれ、辺りに散らばる。ナワーブは近くにあった雑巾を手に持ち、床を拭く。
だが、なかなか綺麗にならない。零してしまったシャンパンの酒精のせいで手が震え上手く拭けないのだ。


「大丈夫ですか、お嬢さん」


ふと、グラスを片付けようとしたその時だった。ナワーブの後ろから男の声がした。それも、2度と聴きたくない奴の…。鳥肌が立つのを感じる。本能が逃げろ!と叫んだ。

「硝子が散らばるといけませんよ。私が拭きましょう」

背後から伸びて来た手を掴み、ナワーブは男の手を振り払った。
「お前……!」
振り払われた手を宙に浮かせながら、''切り裂きジャック''と呼ばれる彼は笑った。

「おや……?麗しい淑女しゅくじょかと思えば、汚らしい野良犬が紛れているではないですか」

ナワーブは低い、唸る様な、それでいて鼻歌の様な声を聞いた瞬間、完全に酔いが覚めてしまった。ふと自分の手を見ると、括り付けたグルカナイフの方に伸びていた。無意識のうちに臨戦体制をとっている。

リッパーはワイングラスに赤黒い液体を注ぎ、それを口に運んだ。彼の愛用している赤ワインだろう。一体どれくらい飲んだのだろうか。そこら中に酒の瓶が転がっている。
いつもとは少し違い、高級そうなシルクハットにしわないスーツ…。側から見れば格好のいい紳士の様だ。
「何でここに…」

「忘れましたか?今日は両陣営集う祝賀会ですよ。それにしてもまあ、紳士淑女の場に貴方のような料理の味もわからない畜生が紛れ込むとは」
「……用がないなら帰れ」
「おやおや、その言い方はないじゃないですか。……折角ですから少しお話ししましょうよ。こんな機会は滅多に無いですしね……」

リッパーはナワーブの側にあった椅子に腰掛けた。長い脚をゆったりと組み、こちらを見つめる。ナワーブはその視線を無視すると、割れたグラスの破片を掃き集めた。一刻もこの場から離れたい、その一心で。

「おや?無視ですか?……全く、しつけのなっていない犬はこれだから嫌なんだ」

言葉に相反して楽しそうなクツクツとした笑い声を聞いて背筋が凍る。
それは、リッパーが獲物を追い詰め、痛ぶる時と同じ声だった。
ナワーブはそれを何度も経験している。

「……お前と話す事なんてない」
「ああ、そんな事言わないで。ね?私と貴方との間には、未だ絆というものが1ミリも存在していない。確かに私は何度か貴方を殺しましたけどね……」

リッパーは一気にワインを飲み干すと、ナワーブの顔を覗き込んだ。彼の鋭い爪が首筋に当たる。少しでも動いたらその爪が皮膚を突き破るだろう。ナワーブは唾を呑むことすらままならない状態でじっとしているしかなかった。
「私、これでも貴方のことを尊敬しているんです」
尊敬…?リッパーの予想外の答えに思わずナワーブは復唱した。
リッパーはナワーブの肩を抱いた。その腕を払う事すら叶わないまま、ナワーブは彼の話を黙って聞くしかない。

「その小さな体に何度唸らされたことか。…傭兵時代の知恵を活かした戦術、それは並大抵の努力では習得できるものではない。1人で異国に放られたところで、貴方のその実力は変わらなかった……いや、むしろより磨きがかかっていた。幾度いくどとなく貴方に負けを認めた」

「……つまりお前は俺が憎いのか?」
「とんでもない!」
リッパーはナワーブの言葉を遮り否定した。その口調に嘘は感じられない。寧ろ彼の言い方はまるで……

「貴方はとても魅力的な方だ……」

そう言うとリッパーはナワーブに顔を近づけた。
「やっ……」
ナワーブはリッパーの手から逃れようともがく。そんな抵抗も虚しく、簡単に手首を掴まれてしまった。
「私は貴方と仲良くなりたいんですよ」


…ドクン…ドクン…


リッパーの角張った大きな手から伝わる体温が、ナワーブの皮膚をむしばんでいく。
「離せ!」
暴れるナワーブに構わず、リッパーは鉤爪かぎつめをナワーブの腹に当てがった。


ドクン……ドクン……ドクンッ! ドクンッ!! 心臓が早鐘をうつ。


「貴方を殺めたあの高揚感は忘れられません……」

まるで催眠術にでもかけられたかのように全身の力が抜ける。ぐ、と鉤爪の先端が薄い腹に突き立てられる。

「試合の外で殺されるとどうなるか…気になりませんか」

ドクンッ!ドクンッ!!ドクンッッ!!!!! 脈が早くなる。ナワーブの視界がぐるぐると回る。まるで脳味噌を直接搔き回されているようだ。



殺される…。



「………………なんて、冗談ですよ!」

リッパーはナワーブの腹から鉤爪を外した。途端に力が抜け、ナワーブはその場にへたり込む。
「……ふざ……け……」
「おやおや、失礼」
リッパーはナワーブに顔を近づける。ワイングラスに映り込んだその顔は、まるで恋する乙女のような恍惚とした表情だった。

「もうそろそろお開きのようだ…ね、どうです。これから私の部屋で飲み直しませんか」

誰が、お前なんかと。そう答えようとするものの口がうまく回らない。
最初から選択肢なんてない。
きっと断れば…。
考えたくもないが、先程の言葉に洒落は感じなかった。
この体じゃ、こいつからは逃げられない。
「ほら、私の部屋にワインがあるんです」
鉤爪の先がナワーブの顎をなぞる。頭がボーッとしてうまく思考が纏まらない。リッパーが手を貸すと簡単に立ち上がることが出来た。
「……好きにしろ……」
もうどうでも良かった。きっと自分にはこうするしか道がないのだろうと何処かで思う自分がいるからだ。
彼は求めていた答えを聞いて、にっこりと笑った。
いや、仮面で表情は見えないがそう感じる。
リッパーはナワーブの細い腰に腕を回した。その体は薄く、体温が高い。まるで子供の様だと、リッパーは思った。

「では行きましょうか」

ドクン……ドクン……ドクン。

リッパーの言葉1つ1つに心臓が跳ねる。

体の細胞一つ一つが目の前の男に支配されているような感覚に陥る。それは恐怖にも似ていて、それでいて何処か心地良いものだった。

きっと酒を呑みすぎたせい。自分にそう言い聞かせながらナワーブはリッパーに半ば抱えられた状態で広間を後にした。


ぽつり、ぽつり。

止んでいた雪がまた降り出した。

まだ暫く止みそうにはない。

二人の影が、重なるまで。

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