ついに夏休みが始まった。
心待ちにしていたはずの夏休みだけど初日は楓ちゃんの家で課題を進めることになった。
おしゃべりを交わしながら手を動かしていくと思いのほか早く宿題が片付いた。
顔を見合わせて、思わず笑い合う。
そして夏休み二日目。
私たちは、見渡す限り青い水面が広がる場所へとやって来ていた。
目の前には大きなプールが広がっている。
しかも、周りには私たち以外の人影がほとんど見当たらない。
楓ちゃんがいたずらっぽく笑顔を輝かせる。
私はその場で固まってしまった。
思わず声が大きくなる。
いつも明るくて誰とでも分け隔てなく話してくれて、私にもすぐに打ち解けてくれた楓ちゃん。
そんな彼女がまさか社長令嬢だったなんて。
私が驚きに首を振る様子を見て、楓ちゃんは楽しそうにくすくすと笑う。
知らなかった。
楓ちゃんにも私がまだ知らないたくさんの姿があるのだとそう思ったらなんだか照れくさくなった。
そう答えた矢先、遠くから聞き覚えのある声が響いてきた。
はっとして振り返るとそこには夏の日差しを浴びて、太陽のように眩しい笑顔を浮かべた藤井くんが立っていた。
彼の姿を目にした瞬間、胸が一気に駆け巡るように高鳴った。
きゅん。
夏休みが始まったばかりのこの日。
私の恋もきっとまだ始まったばかりなのだ。
プールサイドに荷物を置いて、これから遊ぼうと準備していたとき。
楓ちゃんが突然、私の方を向いて弾んだ声で言った。
私が首を傾げると楓ちゃんは少しだけ頬を染めて、恥ずかしそうに笑った。
そして、小さく口を開いた。
思わず大きな声が出てしまった。
本当に驚いた。まさか楓ちゃんの好きな人が颯汰くんだったなんて。
楓ちゃんは嬉しそうに目を細める。
落ち着いていて物腰の柔らかい颯汰くんと明るくて元気いっぱいの楓ちゃん。
二人が並んでいる姿を想像すると本当に自然ですごくしっくりくる。
楓ちゃんの声がだんだん嬉しそうに弾んでいく。
そんな話をしていると突然背後から声が響いた。
はっとして振り返るとそこには颯汰くんが立っていた。
楓ちゃんの顔が一瞬で真っ赤に染まる。
颯汰くんは不思議そうに首を傾げる。
その隣から藤井くんと翔真くんが並んで歩いてくる。
翔真くんがにやにやしながら訊ねる。
楓ちゃんが即座に答える。
そんな二人のやり取りを見て、思わず笑顔になる。
みんなで一緒に夏休みのプールに来て、こうしてわいわいとおしゃべりして……。
こんな時間がずっと続けばいいのに。
そう思ったときふと隣に立つ藤井くんの横顔を見た。
彼は楽しそうにみんなの会話を聞いていてその穏やかな
笑顔に目が離せなくなる。
その瞬間。
また胸がきゅんと高く鳴った。
(……私の好きな人は)
まだ、誰にも言えない。
それどころか、自分自身でさえ、まだちゃんと言葉にする勇気が持てていないけれど。
この胸の高鳴りだけは、嘘じゃないことを私はちゃんと知っている。
突然隣から声がかかり、私は思わず顔を上げた。
藤井くんがいつの間にかすぐそばに立っている。
近い。
さっきよりもずっと肩が触れそうなくらいの距離。
それだけで胸がどきどきと鳴り始め、落ち着かなくなる。
何か話さなきゃ。
そう思うのに言葉が全然出てこない。
いつもなら話しかけてもらえると嬉しいのにこんなに近くにいると頭の中が真っ白になってしまう。
(どうしよう……何も話せないままだ)
そのとき
楓ちゃんの声が響いて私は思わず振り向いた。
楓ちゃんが指を差す先には、青い空に映える大きなスライダーがそびえ立っている。
助かった。
私はほっと胸を撫で下ろし、楓ちゃんのもとへ向かおうと立ち上がる。
その瞬間
また、藤井くんに呼び止められた。
恐る恐る振り返ると彼は真っ直ぐ私を見て優しく笑った。
その言葉を聞いた瞬間、また胸がきゅん。
甘く強く高鳴った。
私は慌てて頷くとその場を後にして楓ちゃんのもとへ駆け寄った。
楓ちゃんは何かを感じ取ったように意味ありげな笑みを浮かべて私を見つめる。
絶対、何か気づいてる。
私は顔をそらして誤魔化すようにスライダーの方へ歩き出した。
だけど、さっきの藤井くんの言葉が頭の中から離れない。
『あとで一緒に乗ろうよ』
たったそれだけの言葉なのに。
夏の暑さのせいなのか、それとも藤井くんのせいなのか。
私の頬は、ずっと熱いままだった。
楓ちゃんに呼ばれて振り返ると彼女は大きなウォータースライダーを指差していた。
楓ちゃんと一緒に歩き出そうとしたその瞬間。
背後から聞き慣れた声が響いた。
驚いて振り返ると藤井くんがそこに立っていた。
そうだった。すっかり頭から抜けていた。
藤井くんが柔らかく笑う。
私は慌てて頷くと彼と並んでスライダーの階段を上っていく。
隣に藤井くんがいる。ただそれだけのことなのに
ドクン。
心臓が大きく鳴った。
(落ち着いて、私。まだ滑ってもいないんだから)
自分に言い聞かせても鼓動は一向に収まる気配がない。
絶対、顔に出てる。そう思うだけで余計に頬が熱くなる。
藤井くんはそう言って私の顔をそっと覗き込んでくる。
近い。
まただ。
藤井くん、いつもこんなに近い距離にいるなんて……。
いよいよ私たちの番が来た。
そうは言ったものの全然、大丈夫じゃない。
怖いんじゃない。
藤井くんと一緒だから心臓がもたないだけ。
二人で並んでスタート地点に座る。
次の瞬間
勢いよく滑り出した。
水しぶきが顔にかかり、風が髪をなびかせる。
本当はすごく楽しいはずなのに。
隣にいる藤井くんのことが気になって思い切り楽しめないでいる自分がいる。
そっと横を見ると藤井くんが気持ちよさそうに笑っていた。
また心臓が跳ね上がる。
ドクン、ドクン。
水の音よりもスライダーの勢いよりも自分の鼓動のほうがずっと大きくてうるさい。
(もう……ダメだよ)
全然、集中できない。
自分でも苦しい言い訳だと分かっている。
藤井くんは少し不思議そうに私を見ていたけれど
そう言ってふわりと笑った。
その笑顔を目にした瞬間――また胸がドクンと高鳴った。
(……もう、無理だよ)
ウォータースライダーのスピードなんて全然怖くない。
水しぶきだって、なんてことない。
ただ隣にいる藤井くんのほうがずっとずっと私の心臓に悪いんだから。
ウォータースライダーから戻ってきても私の心臓はまだまだ落ち着く気配がなかった。
水に濡れたせいじゃない。
あのときの藤井くんの笑顔が私を気にかけてくれた柔らかな声がそして肩が触れそうな距離のときめきが頭から離れてくれないから。
今までずっと「どうしてこんなに気になるんだろう」って、自分の気持ちが分からないふりをしていた。
だけどもう、はっきりと分かった。
私は、藤井蓮くんのことが好きなんだ。
自分の心の中をちゃんと見つめた瞬間、不思議なくらい胸の中がすっきりとして温かい気持ちになった。
私の初恋の人は藤井くんになったの。
私は少しだけ緊張しながら真っ直ぐ楓ちゃんの目を見て言った。
楓ちゃんの顔がぱあっと明るく輝いた。
思わず両手で顔を覆うと楓ちゃんは私の背中を優しく撫でてくれた。
楓ちゃんだって、きっと颯汰くんのことが大好き。
同じように胸をときめかせる人ができた。
私たちは、同じ夏に恋をしたんだね。
楓ちゃんが太陽のような笑顔でそう言ってくれたから私も負けじと笑って頷いた。
青い空の下、きらきらと水しぶきが輝くプール。
水の音とみんなの笑い声が響く中で私たちの恋の話はまだまだ続いていく。
はじけるような笑い声が夏の空に響いた。
私の初恋は、やっと始まったばかり。
この夏が終わる頃には、私はいったいどんな恋の気持ちを知っているのだろう。
今まで知らなかったたくさんのときめきをたくさんの優しさを藤井くんと一緒に少しずつ知っていけたらいいな。











編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!