それは、ある雨の昼だった。
ソウルの空は灰色で、あなたのデスクに差し込む光も、どこかくぐもっていた。
午前中の会議を終え、部屋に戻ると、
デスクの上にひとつ、小さな封筒が置かれていた。
アイボリーの厚紙。
ラフな筆記体で「あなたへ」とだけ書かれている。
誰からかは、書いていなかった。
でも、手に取った瞬間にわかった。
ジミンさんだ。
中を開けると、
小さなアンバーガラスの香水瓶がひとつ。
そして、便箋一枚。
こんにちは。元気にしていますか?
あの夜の匂い、忘れたくなくて、
自分なりに再現してみました。
香りを調合するのは初めてで、
うまくできたか分からないけど、
これをつけたら、
少しだけ“あの夜”が、近づいてくる気がします。
ナツメグとベルガモットは、あなたの声に似ていて。
ムスクとシダーは、触れた手の温度。
サンダルウッドは、パブの木の椅子の匂い。
どこにも売ってない、
でも、わたしたちだけが知ってる香りです。
言葉がうまく出てこないから、香りで送りますね。
ジミンより
あなたは、それを読み終えてから、
しばらく何もできなかった。
便箋を握る指先が、ほんの少しだけ震えていた。
手に取った香水瓶は、
どこかジミンの手の形をしているような気がした。
ほんの少しだけ、温かさが残っているような。
キャップを外して、手首にひとしずく。
それを肌に馴染ませ、そっと香りを吸い込む。
ナツメグのスパイスが、まず鼻腔をくすぐる。
その奥に、ベルガモットの柑橘と、シダーの乾いた木。
ムスクが静かに広がって、最後に、サンダルウッドの深い甘さが胸の奥に残る。
それは、まぎれもなく、あの夜だった。
夜風と、彼女の声と、照明の影と、手のひらの熱。
言葉よりも先に、胸がぎゅうっとなった。
あなたは、便箋を持ったまま、目を伏せた。
そのとき、誰もいないオフィスのなかで、小さく呟いた。
香りだけで、こんなにも人を近くに感じられるなんて。
彼女がくれたものは、香水じゃなかった。
記憶そのものだった。
香りを纏ったあなたは、
その日一日、自分が自分でないような気がしていた。
会議のあいだも、タクシーの中も、エレベーターも。
どこにいても、ふとした瞬間に、
彼女の声が聴こえた気がする。
「今日のこと、覚えていてね」
閉じたエレベーターの扉。
指先の名残。
頬に残った温度。
すべてが、香りといっしょに呼び覚まされる。
そしてその夜、あなたは初めて、
自分からメッセージを送った。
しばらくして、既読のマークがついた。
返事はなかった。
けれど、それでよかった。
香りは、もう十分にすべてを伝えていたから。













編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。