朝、目を覚ました私の頬に、叶くんの指が優しく触れた。
そう言って微笑む叶くんは、本当に幸せそうだった。
(こんな風に毎朝目覚めることが当たり前になっていくのが、怖い)
手のひらから伝わるぬくもり。
目を細めて見つめてくる叶くんのまなざし。
それを拒めなくなっている自分に、私は密かに震えていた。
でも。
私は、今日も優しく笑う。
いつも通り、叶の理想通りの私を演じていた。
その日、私はひとつの決意をした。
(このままじゃ、駄目だ。きっと、全部壊れてしまう)
叶くんは怖いくらいに私を愛してくれる。
それが嘘じゃないとわかるからこそ、私はもう、壊れてしまいそうだった。
――だから私は、彼のいない時間を狙った。
彼が仕事の資料を取りに書斎へこもっている隙に、
私はリビングにある観葉植物の鉢の下を、そっと持ち上げた。
数日前に、ほんの好奇心で手に取った鍵が、まだそこにあった。
(……ここから、出られるかもしれない)
震える手でポケットに忍ばせる。
音を立てないように。
呼吸ひとつさえも殺して。
叶くんの声が廊下から響いた。
私は何も知らないふりで、いつも通りの笑顔で答えた。
(怖いくらい自然に演じられる自分が、もっと怖い)
その夜も、叶くんは私を甘やかすように抱きしめた。
ベッドの中で囁かれる愛の言葉は、まるで祈りのように繰り返されて、
私の心を優しく縛り付けていく。
言葉とは裏腹に、胸の奥に冷たい塊が残ったままだった。
(本当に、ここに居ていいの?
私は、叶くんに壊されるのを待ってるだけじゃないの?)
翌朝。
私は一度だけ、彼よりも早く起きた。
そして、彼が寝息を立てている隙に、そっとクローゼットを開け、
靴箱の奥に小さなリュックを隠した。
中には、いつか使うかもしれないと思って用意した、古びたスマホと現金。
そして、唯一覚えていた実家の最寄り駅の地図。
(いつかじゃない。……“今”しかない)
自分の命を、自分の意思で守るため。
叶くんを愛したままで、叶くんから逃げる。
そんな矛盾に泣きそうになりながらも、私は準備を進めた。
夕方、叶は私の髪を梳きながら、微笑んで言った。
叶くんの隣で、私は静かに歩く。
その手を、しっかりと握られながら、
私は心の中で、すこしだけ違う景色を思い描いていた。
ここじゃない場所にいる自分。
叶のいない時間を持つ自分。
そんな自分を思い描いてしまった罪悪感と、
どうしようもない自由への欲望が、胸の中で交差する。
だからこそ、怖いのだ。
叶くんがどこまで“狂ってくれる”のか。
その限界が、まだ見えていないことが――
そして夜。
私はひとり、バスルームで湯に浸かりながら、
明日こそ“逃げる”ことを心に決めていた。
叶のいない隙を狙って、鍵を使って、玄関を開ける。
そして、一目散に走って、外の世界へ。
(このままじゃ、叶くんも、私も壊れてしまう)
そう思う一方で、胸のどこかで囁く声があった。
“叶くんが追ってきたら……止められるの?”
“叶くんが泣いたら……置いていけるの?”
(……わからない)
それでも――
私は、あの鍵を、強く握りしめていた。












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。