私の愛おしい人。
私を置いて何処へ行くと言うの?
貴方様の帰り道は私の腕の中だけでしょうに?
と異界にいながらも、そんなことを呑気に言っていた。
きらびやかな街、笑う男女の声。誘う女。誘われいそいそと店に入っていく男。着物の擦れる音。何処かでまた誰かが泣いている。
通行人だっているが、其奴らの顔には靄がかかっているようで、顔を認識出来なかった。
それでも通行人どもが俺を見ていることはわかった。
俺は今、学園の制服を着ている。学園の制服はスーツに似ていて、多分だが外国のお方とでも思われているのだろう。
主がいる所に行くためには、この格好では難しい。
仕方ねぇ。
俺は持ってきていた鞄を開けた。
トレイが目を覚ました場所はNRCではなく、きらびやかな部屋の中だった。そこは、甘い梅の香りが満ちていて、どこか官能的な雰囲気を醸し出していた。
流石ハーツラビュル副寮長、決断が早く、扉、嫌、確か遠い東の国の襖というものを開けた。
【おや、旦那?…どちらに行かれるんですか?】
目の前には一人の恰幅の良い男がゆったりとした口調で話しかけてきた。上質な服を纏っていることから、ここでの立場は高いと思われる。
そう言うと、男は笑い出し、
【旦那、そんな嘘…この楼主の私には誤魔化せませんで】
とこちらを離さないというような目で捕らえていた。
【旦那は〝梅姫花魁〟を身請けすると約束したでしょう。】
【さぁさぁ、そろそろ花魁の準備も整います。】
【後一刻程、ごゆるりとお待ちくださいませ。】
そういうと、楼主はトレイに笑いかけ部屋に入るように促した。いうよりもトレイは早くこの男から離れたかった。自分を今にも殺しそうであるこの男が恐ろしく、それが外にいると思うともう一度外に出たいとは思えなかった。
一刻後がいったいどれくらいの時間かわからないが、その時間が来たら、その花魁と呼ばれる人が来てしまうのではないか?…咄嗟に制服のポケットを触った。
自分の唯一の対抗手段。魔法士にとっての命たるもの。
換気をしなければ空気が籠ってしまう。この香りはどこか
考えを妨げる作用がある。
トレイは決心し、襖に手をかけるとノック音が同時に聞こえた。
202.スカラビア寮生
監督生…死んじまったか?
203.オクタヴィネル寮生
おま、流石にそれはねぇよ。アイツ魔力無しな上に異界にまで飛ばされる?なんて少し位慈悲の精神持つだろ。
204.イグニハイド寮長
202.…2年のS.A氏
205.202スカラビア寮生
すいませんでした!!!
206.ハーツラビュル寮生
ざまぁ笑
207.ハーツラビュル寮長
君、ハーツラビュル寮生としてその口調はなんだい!!
208.ハーツラビュル寮生
寮長!?…いや、ほんとにすいません。
209.監督生
やっと、♣さんの居場所がわかったので、今向かってる。
210.イグニハイド寮長
監督生氏!!!ほんとに報告してクレメンス!!
異界でこんなに長時間生きてるだけでも奇跡なんだから。
報連相大事!!
211.監督生
詳細を今は伝える時間がねぇ。だから、要件だけ言うが、
今までに男性だけが忽然と姿を消したっていう事件がないか調べてくれ
212.イグニハイド寮長
了解…後で絶対事情聞くんで、わかったでしょう。早く情報集めて
213.ポムフィオーレ寮生
イグニハイドってこういう時はほんとかっこいいよな
214.スカラビア寮生
わかる!!…普段からそうしたら良いのにな
215.イグニハイド寮長
それが出来るのは陽キャだけとはご存知ない??
僕達は僕達の得意分野で殺るだけなんだが?
216.サバナクロー寮生
漢字がちげぇだろ
217.ポムフィオーレ寮生
監督生は無事なのか?…返信が返ってこないが?
218.イグニハイド寮長
監督生氏、見つけましたぞ
8年前、輝石の国出身のネロ・スバラーっていう男が姿を消した。魔法執行官は何かしらの事件に巻き込まれたと思い調査をしていたが、手がかりは見つからない。
友人の証言によると、三日前に「俺は、あの女を買うんだ」と意味不明な発言をしていたのこと。失踪直前に銀行で現金をおろしていたことがわかっている。
女性との駆け落ちも考えられたが、その場合隠す必要なんて無いので、未解決事件となっている。
219.ハーツラビュル寮生
やばっ。絶対副寮長もこの女の所に連れてかれてるだろ。
220.監督生
ありがとう。もうすぐ。
トレイはもう限界だった。寮生やリドルがいる前では弱音を吐くことなんて無いが、ここには誰もいない。ましては異界であり、生存確率なんて一桁にも満たない。
そんな不安しかない場所で泣き叫び絶望していないだけ、彼もNRCの生徒なだけである。
【お客様…いらっしゃいますか?】
トレイは口を手で強く押さえた。そうしなければ、声が漏れてしまいそうだったからだ。女の声だ。
もしかしたら、梅姫花魁という人かも知れないと考えていた
【お客様…いらっしゃらないなら開けますよ?】
とクスクスと笑いながら、扉を開けた。
【あら、誰もいない?】
トレイはユニーク魔法で、自身の要素を上書きし、この空間に馴染むようにしたのだ。つまり、部屋と同化しているようなものであった。
兎に角物音を立てないように静かに、ただ女が動く際の着物の擦れる音のみが響く。
漆黒の黒髪に紅い目を軽く肩上で結ってあり、紅がさされている。どこか哀しげのある瞳。
トレイはそんな様子の女を目で追ってしまう。それは恐怖ではなく、ただ追いすぎたようで、目があった。
【なんだ…】















編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!