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第1話

苦い炭酸水
71
2021/05/28 11:41










【ド、レ、ミ、ファ....】
ピアノの音は、そのまま高い音へあがっていった。
そして聞こえないくらい高い音になると、さっきの音を辿るように、また音が鳴り響く。
それが一番最後の低い音になると、私は呟いた。
「始まった、」
その瞬間、猫が2足で踊るように、走っている車が空へ飛んでいくように、眠っているクマですら、パーティーを開くように、音が鳴り響いた。
そして私は今日も聴く。
顔も名前も知らない、あの人の曲を。










初めて聴いたのは、1年くらい前。
入社したばかりの私は、先輩に毎日怒られてて正直会社になんて行きたくなかった。
起きなきゃ行けないのに掛け布団を頭までかぶった瞬間、外から小さな音色が聴こえてきたんだ。
[ド、レ、ミ、ファ....]
あの日も今日みたいに、聴こえた。
その音は優しくて、寂しくて、切なくて、儚げで。
そばで抱きしめてくれるような、そんな音だった。
私は布団から出て耳を澄ませながら窓際へ行くと、音が消えないようゆっくり窓を開けた。
音楽にずっと興味がなかった私には、曲名も分からない。
そして誰がどんな風に弾いているのかもわからない。
でも、そんな音楽に私は魅了された。
その日私は、会社へ行った。
怒られても平気。
あの音を思い出すと、不思議と救われる。
あの音楽は、私の一番の薬のようだ。
次の日から私は決まった時間に起き、音楽を聴いた。
毎日聴こえるその音は、毎日私を癒す。
いつしか私は考えた。
一体どんな人が弾いているのだろう。
どんなに心が綺麗な人が弾いているのだろうと。

もしそれが女の人だったらきっと、ストレートな黒髪で、大きくキラキラした瞳を持っていて、鼻筋の通った上品な唇の人だろうか。
もし男の人だったら、きちっと整えられた暗い色の髪の毛に、二重で、鼻筋が通っていて、シュッとした顎で...。
そして何よりも、細くて綺麗で器用な指先で、滑らかに踊るように弾いているのだろう。
そんな考えすら忘れるくらい聴いた。

この音楽と共に成長し1年と少し経った今、会社では前ほど怒られないようになったし、同僚に沢山友達ができて、優しい先輩と一緒にご飯だって食べに行くようになった。
私はこの音楽と共に、充実した生活を送っていた。





















“ぽつ、ぽつ、ぽつ、”
私はいつもの時間に起き、窓を開けると小雨が降っていた。
もう音が鳴ってもいい時間なのに。
雨音にかき消され、いつものあの音は聴けなかった。
仕方ないなと、私は雨にそっと手を伸ばした。
手のひらが雨でどんどん濡らされて行く。
春から梅雨へ、移り変わったというサインだった。
仕事が終わり時計を見ると、もう8時を過ぎていた。
久しぶりに残業しちゃったと思いながら、急いで資料をトートバッグにしまった。
「お先に失礼します」
そう言い周りを見ると、残っているのは私が最後だった。
なんだか薄気味悪い。
廊下のライトは切れそうなのか点滅をしていて、よりいっそ気味悪さを倍増させた。
会社を出ると、小雨だった雨は土砂降りになり、風も強く、歩く人の傘を飛ばそうとしていた。
私は立てといた傘を取ろうとすると、その傘はなく、あるのは置き手紙だけ。
​───────​───────

傘もってないから借りる!
代わりに明日奢るよ〜ん🐻

​───────​───────
そんな言葉がぐちゃぐちゃな裏紙に書いてあった。
「あいつ、、」
私はその紙をビリッと破り、床に投げつけた。
やられた。
絶対にテヒョンだ。
私は投げつけた紙を踏みにじった。
「あぁ、ムカつく!」
「どうやって帰ればいいのよ!」
私は大きな声でそう言った。
周りにいた人が振り向き、ちょっと恥ずかしいし。
もう、最低だよほんと。
仕方ないと、私はバッグを頭の上に乗せてコンビニへ走り出した。
冷たい雨と風が私のシャツを濡らしていく。
セットした髪の毛は完全に崩れ、前髪はおでこに張り付いて、もはやバッグの意味なんてなかった。
コンビニにつき急いで傘を探すが、売り場には値段の札があるだけ。
レジへ行った。
「すみません、傘って、、」
そんな切実な言葉に店員さんはやる気のない声で、“ないです”と言った。
きっとこうやって何人もの人に聞かれているんだろう。
なんだか悪いことをした気分になった。
「すみません、ありがとうございます」
私はぺこっと頭を下げてコンビニを出た。
仕方ない。
このまま電車まで走るしかないか....。
またバッグを頭に乗せ、走り出した。
通り過ぎる人達は前を向いて今日も歩いている。

家に帰ったら誰かが待っているのかな。
それとも私みたいに独りぼっちなのかな。
私はホームで考えた。
明日、あの曲を聴けることを願って。
ホームからでて、私はまた走り出した。
大雨のせいで電車は遅延して少し遅くなってしまった。
なんだかさっきより雨が強くなっている気がする。
気のせいかな。
きっと金曜日だから疲れているのかな。
私は走りに走って、アパート前についた。
どんなに雨が降っても、癖でポストに手が伸びる。
ポストには何も入っていなかった。

階段を登ろうと振り向いた時、階段の下の影から何かが見えた。
忘れてたけど、会社でおばけ見たんだ。
あれ?見てないっけ?
わかんない。わかんないけど何あれ。
怖い。人影みたいなの。
私はビビりながらもゆっくり近づいていった。

あれ、、多分これ、、人だ。
人だよ。
なんでこんな所に、、?
もしかして家を追い出されちゃったのかな。
こんなに寒くて雨も強いのに。
ここにいたらきっと風邪ひいちゃうよ。

私は男の人らしき人の肩をそっと叩いた。
「あ、あの、、」
「風邪、風邪ひいちゃいますよ?」
そう言った瞬間、肩に置いた手を掴まれた。
「わっ!」
彼は頭もあげずに、ただ震えた手で私の手を握りしめていた。
「あ、あの、、」
「手、手を、離して欲しい、です、」
彼は何も言わなかった。
頭もあげなかった。
雨で聞こえてないのかな、、?
そう思って肩を叩くけど、変わらなかった。
ただ、私の手をぎゅっと握りしめている。

そんな彼を、何故か拒むことが出来なかった。
無理やり手を離すことが出来なかった。
せめて雨だけは避けたいと思い、階段の下の彼の横に入った。
手はぎゅっと握りしめたまま。
汚れたスニーカーを履いていて、手にはまめができていた。
少し小柄な人なのか、背中が男友達より小さく見えた。
それに風が吹く度に、モッズコートの隙間からはミント色の髪の毛が見えた。
こんなに髪の毛が明るくて、家がないなんて、
もしかしたらヤンキーなのかな、とか考えてしまう。
でも、私にはこの手を離すことなんてできない。
ほっとくことなんて出来ない。
私は寒そうな彼との距離を少しだけ縮めた。




















目を覚ますと、家の布団の中で眠っていた。
外からはあの音楽が聴こえた。
まるで初めて聴いた日のようだった。
でも違う、あの日とは確実に違う。
聞こえる曲も同じ、天気も、時間も。
でも何故か違うんだ。
私は布団から急いででると、窓へ行く。

あれ、なんで。
窓は私からどんどん遠ざかっていく。
音が少しずつ消えていく。
「だめっ、いやだ!」
「音楽を消さないでっ!」
「その曲が無いとわたしっ、わたしっ!」





「はっ、」
私は目を覚ました。
良かった、夢か。
でも、それよりも、なんでここにいるの?
雨が降っていて、ここは、階段の下で、
あぁ、思い出した。
彼だ。あの人。
階段の下で、私の手を握るヤンキーっぽい彼。

あれ?その人は?
私は周りを見るが、誰もいなかった。
でも、背中に何かがかかってる。
ひっぱると、さっき彼が来ていたモッズコートだった。
もしかして、私を置いて帰った感じ?
ちょっと申し訳ないからコートだけかけてった感じ?
はぁ?何それめっちゃムカつく!
私は階段の下からでて、コートを見た。
見た目が暑苦しい。
なんだかファーがついたそのコートは、彼が着ているのを見ていた時よりも大きく感じた。

どうしようこのコート。
やり返しとしてここに置きっぱにしてやろうか?
さすがに酷いかな。
少し汚いから、これしか持ってないかもしれない。
多分また会えるだろうし1度持ち帰ろう。
そう思って階段を上ったとき、声が聞こえた。
『まて!』
黒の半袖に、黒のジーパンを身にまとったその人は、ミント色の髪をしていた。
この人、私の手を握っていた人じゃん。
彼は気だるそうに髪をかきあげて、ゆっくり来た。
「な、なんですか?」

『それ俺の。』
彼は私のもつコートを指さした。
「あぁ、ごめんなさい」
私は彼にコートを返した。
でも彼は納得していないような顔をした。
『なんで?』

「え?」

『なんで謝るんすか?』

「......は?」

『俺が悪いのに。』

「いや、まぁ。」
たしかに。私悪くないけど。
でもまぁ、なんとなくだよね。
『まぁ、いいや。』
『これ、』
彼はコンビニの袋を渡してきた。
「なんですかこれ?」
やばいものだったらどうしようとか思ってたら、なんか目で圧かけてくるから、結局急いで袋を覗いた。
中には1枚のホッカイロと、毛糸でできた手袋が入っていた。
「なに、、これ。」

『、、迷惑かけてごめん、なさい、』
『なんか、無意識に手、』

「あぁ、はい、握られてました。」

『俺、寝てて全然気づかなかったし、』

「寝てたんですね、無視されたのかと思いました」

『ごめん、、なさい、』
ちょっとからかうつもりで嫌味を言うと、彼は顔を真っ赤にして謝ってきた。
「冗談です‪w」
「それより、お家帰らなくて大丈夫ですか?」
私はポケットに入れたスマホを取り出して電源を入れると、ちょうど0:00になったところだった。
「えっ?あぁ、もうこんな時間!」
「12時過ぎてますよ」
私のその言葉に、彼は何も言わなかった。
なんか、もしかして変な予感する。
家、、ないのかな。
「あの、、」

『はい。』

「失礼ですけど、お家はどちらに?」

『すぐ近くですけど、、』
彼は普通の顔でいった。
じゃあ帰りなさいよって、
なんでここで寝てたのよ、、。
『でも、帰れないです。』

「え?」
帰れない。。
帰れない?!
もしかしてやばい人と遭遇しちゃった?
このまま私の家とか?
そんなドラマみたいな展開、、無い訳では無い。
いやいやいや、、無理無理。
だって、男の人家にあげたことなんてないし。
何年も前の元彼とそういうことしたのはあいつの家だったし。。
もし家に入れてそういうことになったら、、
いやいやいや、なんでそういう前提?
でも、手を出しかねない。
いや、人を見た目で判断しちゃダメって教わってきたじゃん。
ちゃんとお礼をする人だよ。
家にあげてもだいじょう.....
『ちょ、大丈夫すか?』
『お、おい。』

「えっ?あ?大丈夫!です、、」
何寝ぼけたこと考えてるんだ私は。
『良かったらなんですけど、』
え?やっぱり家泊めてって。
そうなっちゃうの?
「家はダメです。」

『は?』

「家には入れられません。」

『いや、そんなこと言ってねーし』

「え?」

『良かったら金を貸してほしいって。』
わぁ、私バカだ。
恥ずかしすぎる。
死にたい。
なんでこうも私は、、
『もしかして家に泊めてって言うとでも、』

「お、おお、おおおおもってませんよ。」

『ほんとですか?』

「ほんとです!」
「それよりさっきなんて!」

『だから金を』

「なんでですか?」
「なんで私がお金を貸さなきゃ行けないの!」

『なんで怒ってるんですか!』

「怒りたくもなりますよ!」




















なんで、こうなるわけ。
結局彼を家にあげる羽目になった。

彼は58円しかなくてネカフェにすら行けないし、だから私にお金を借りようとしたらしいんだけど。
お財布を覗くと現金が1円も入ってなく、カードはお昼テヒョンに買い物を頼んで返してもらってない。
元はと言え、忙しくて言わなかった私も悪いんだけど、マジでキムテヒョン、、、
「はぁ、」
私はため息をついてタオルを2枚出した。
「これで拭いてください」

『あぁ、ありがとう、ございます、、』

「はいはい。」
私は彼をソファに誘導し、私も隣に座った。
そして暇つぶしにと喋りかけた。
「なんで帰れないんですか?」

『は?』

「さっき言いましたよね。」
「帰れないんですとか何とか。」

『あぁ、言いました。』

「なんでですか?」
「お家がすぐ側にあるのに、」
彼はだるそうに頭を搔いた。
『家って言っても、俺の家じゃない。』
『俺をものみたいに扱ってるクソ男の家』

「え?ク、クソ男、、」

『俺の父親。』
『俺を部屋に閉じ込めて知らねぇババアとセックスさせて、金儲けしてるクソ野郎。』
「セッ、、セッ、」
彼はなんの躊躇もなく、そう言った。
知らない世界すぎてびっくりした。
私は普通の両親がいて、田舎だけどそこそこいい高校と大学に行かせてもらった。
でも彼は違う。
いい家族に恵まれないで、仕事もさせて貰えない。
監獄のような部屋に閉じ込められている。
『幻滅した?』
『俺のこと。』

「い、いいえ。」

『嘘』
『顔に出てる。』

「出てません。」

『ふっ‪w』
『おもしれぇ奴‪w』
彼は私を見ながらちょっとだけ笑った。
それが馬鹿にしてるような笑いだったとしても、何故か胸がときめいてしまった。
消して大きいとは言えない切れ長の目を細めて笑った。

彼は立ち上がってふらふら歩き、戻ってきた。
『あそこにあるピアノ、、』
彼が指すピアノは、私が半年くらい前に買った電子ピアノだった。
毎朝なるあの音楽に憧れて、安く売られていたピアノを買ってみたけど、上手く弾けるわけが無い。
私はそのまま立てて角に置いていた。

あんな不器用そうな彼がピアノを弾くとか言い出すなんて、
どんなひどい曲を聞かせてくれるんだろう。
「いいですよ。」
「私に音楽を聴かせてください。」
その瞬間、心臓がドキッとした。
彼の指先からなる音ひとつひとつ。
[ド、レ、ミ、ファ....]
毎朝なるあの音のように、彼は指を動かした。
そして彼が言った。
『始まった、』
その瞬間、あの音楽が聴こえた。
猫が踊り出すような、車が飛ぶような、クマがパーティーを開くような、そんな音楽。

間違えない。彼だ。
毎朝あの音を奏でる人は彼だ。
1年間聴き続けた私が間違えるわけない。

彼が演奏を終えると、私を見た。
『どう?俺の音楽。』

「もしかして、、」
彼は今度は歯茎を見せるようにして笑った。
その笑顔にまた、私の胸がときめいた気がした。
『俺の名前はミンユンギ、』
『前のアパートに住んでる、毎朝ピアノを弾く男』

「う、そ、、」
彼は二重じゃなかった。
鼻筋が特別通っている訳でもなかった。
顎がシュッとしているわけでもなかった。
黒髪ストレートでも、暗い色でセットされた髪でもなかった。
指先は綺麗なわけじゃなく、切りすぎた爪や、まめもあって、彼からあんなにも綺麗な音色が出るなんて思わなかった。
『そんなに意外?』

「はい。意外すぎます。」
「なんて言うか紅茶みたいな?そんな人だと思ってました。」
「ユンギさんは、コーヒーみたいで、でも時々炭酸みたいに心臓をギュッとさせます」
「苦い炭酸水みたいな」

『なんだよそれ』

「ユンギさんは私を知ってたんですか?」

『あぁ、毎日聴いてただろ?』
『俺の家の窓はさ、中は見えないけど、外の景色は全部見えるんだよ。』
『お前が俺の弾くピアノを毎日聴くために窓際に来てたの知ってた。』

「なにそれ、早く言ってくださいよ、」

『で、俺だった感想は?』
どうだろう。
ずっと想像してたのと違った人。
私を成長させてくれた音楽。
嫌じゃない。
もちろん驚いたけど、なんだか胸がときめいた。
「悪くはない」

『それはどーも』
彼はまた笑った。
今度はとびきりの笑顔で。
多分、そんな彼のことを私はすきになる。
黒髪じゃなくてミント色の髪の毛を。
通った鼻筋じゃなくて小鼻が可愛い小さな鼻を。
二重じゃなくて一重を。
整った髪の毛じゃなくてボサボサな髪の毛を。
シュッした顎じゃなくて少し丸い顎を。
綺麗な手じゃなくてまめやささくれがある手を。

そして紅茶じゃなくて、苦い炭酸水のような貴方を。
いや、好きになるんじゃない。

















もう好きになっていた。





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