第12話

下手くそ
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2023/02/05 07:00 更新
「よくよく考えてみたんですけど、ピアニストってピアノを弾いてお金を貰うことを仕事にしてる人なんですよね」

「? うん」


出会ってから約3週間が過ぎた土曜の朝食中。
女が何の前触れもなく話し始めた。


「ということは、今の音さんはただのピアノが弾ける人なんですね」

「まぁ…そういうこと」


別にピアニストだろうとなかろうと、ぼくのファンタジーがあればなんでもいいんだけど。


「お金もないんですよね」

「うん」

「でもトマト好きでもっと食べたいんですよね」

「赤いモノね」

「あら、そうだったんですか。てっきりトマトが好きなのかと…」

「結局天乃は何が言いたいの?」

「………ふふっ」


女がニヤリと口角を上げた。
ゾワッと背筋に悪寒が走る。
女がこの顔をすると碌なことがないのだ。


絶対面倒なことに巻き込まれる…!


「音さん、お」

「嫌だ」

「まだ言い終わってませんよ!?」

「どうせまた、買い物の荷物持ちしろとか、ランニングに付き合えとか言われるんでしょ?もう騙されないから」


荷物持ちは兎も角、ランニングは地獄だった。
もう二度としない。


…多分天乃の体力は無限だ


「もー、まだ怒ってるんですか?お詫びにトマト買ってあげたじゃないですか。最近お野菜高いんですよ?」

「何でもかんでもトマトで誤魔化せると思わないで」


言った途端、女は持っていた茶碗をテーブルに置き俯いてしまった。


「天乃?」


先日、七五三にこの女に優しくするよう諭されたからか、少し反省する。
男はこの3週間で、反省することとその大切さをほんのちょっとだけ学んだのだ。


…言い過ぎた?


「……今度はパプリカですね(小声)」

「聴こえてるから」


ぼくの反省心を返せ。


「そんなことより音さん、『お小遣い』、欲しくありません?」

「お小遣い?」


また女が突拍子もないことを言い出した。
まぁ、もうこの3週間で慣れたが。


「毎週土曜のシフトが変更になって、午前中暇になったんです!」

「あっそ。で?」


小皿に盛られた最後の漬物を口に入れ、手を合わせる。


「ピアノお」

「嫌」

「だからまだ言い終わってないですよ!?」

「才能のない人間のピアノなんて聴きたくないし、教えるとか論外」

「あら、やってみないとわからないですよ?」


女が2人分の食器を重ね、台所で洗いながら言う。


「弾かなくてもわかる。天乃は才能無い」


女が振り向き、キョトンとした目で自身を見つめる。
そして直ぐにその間抜けな顔は、優しい笑顔に変わった。


「……ふふっ」

「? なんで笑うの?」

「いえ、ふふ、なんでもないです。ただ、音さんのそんな真剣な顔、初めて見ました。ふふふっ」

「は?」


女がまた食器洗いを再開する。
なぜ女が笑っているのかわからない。


「無理言ってすみませんでした。…音さんには、譲れないものがあるんですね」

「……! あ…」


譲れない…もの。


消えたはずの、嫌で、黒いナニカがまた現れる。


……ちがう。


「さっきの音さんはなんだか、まっすぐ芯が一本通っているような、そんな風に見えました。…ふふ。しっかりと自分を持つことができる人って立派ですね」


ちがう。

ぼくが持っているのは、そんな…
そんな綺麗なものじゃない


「私、音さんみたいな、自分の意見を持って突き進んでいけるような人になりたいです!」


違う。
ぼくが持っていたものは、正しくなかった。
コレさえなければ、ぼくは……あの子たちは…!


「少し前までの私は……ふふ、なんと言ったらいいのか…自我がとても薄かったんです。…音さん?大丈夫ですか?音さん!?」


あぁ、嫌だ。


怖い。


何か、恐ろしいものがぼくを殺そうとする。



自身の心に渦巻く闇からどうにか逃れようと頭を抱えてうずくまる体勢をとる。



「あ、ぁぁ…くる、な…くるな…っ!」


怖い 怖いよ



ごめんなさい

ごめんなさい



助けて

誰か 助けて

蝶、



「大丈夫です。大丈夫。もう平気です」
   この声…

蝶調じゃない。

…そうだ。もう蝶調はいない。

もう、この世のどこにも…彼女はいない。

それなのにぼくは、いつも蝶調を頼る。

声をかけているのは、天乃なのに…。


女に優しく抱きしめられる。


「何か私が、嫌なことを言ってしまったんですね。ごめんなさい」

「ち、違う。そうじゃなくて…ぼくが、その、だからっ」

「ふふ、大丈夫です。無理に言おうとしなくても大丈夫ですよ」


今のような状況は、これまででも珍しいものではなかった。

女や周囲の言葉に感化されなることもあれば、突然陥ることもあるこの発作のようなもの。

その度に女は、とても優しく美しい声で、無責任で残酷な、「大丈夫」という言葉を口にする。


何も知らないくせに簡単に大丈夫なんて言う。
でも天乃が言うと、本当に大丈夫な気がして、暗闇か
ら抜け出せるから不思議。


強ばっていた体から力が抜ける。
目を瞑り、ゆっくりと深呼吸をして心を落ち着かせた。


「…。…もう、大丈夫」

「あら、本当に?」


女がからかうような少し上擦った声で聞いてくる。


…本当は、まだ大丈夫じゃない。


この女はこういう時、不気味な程に自身の嘘を見抜く。

それに助けられているのも、真実ではあるのだが。


「………あとちょっとだけ、このままでいて」

「いつまででもどうぞ」


いつもどうり、女の背に腕をまわした。








「ピアノ、教えてあげる」

「本当ですか!?本当ですね!?今言いましたからね!?」

「うるさい」









冬の部屋に入り、ピアノの右横に立つ。


「じゃあ何か弾いてみて」


椅子に座り鍵盤を不思議そうに見つめている女に指示を出す。


「うーん……あ!カエルの歌なんてどうでしょう?」

「は?なにそれ?」


カエルの歌なんて曲は今まで1度も聞いたことが…


…いや、子供たちが小さかった頃、たしかテレビか何かで流れてたような…


「あれですよ、ドレミファミレドってやつです。小学校の鍵盤ハーモナカで練習しました!」

「ハーモニカね。とりあえずやってみて」

「はい!えーと、ドの音は……これですね!」


微妙すぎる力加減で押された鍵盤からポワァ〜ンというなんともマヌケな音が出てきた。

あと、女が自信満々に押した鍵盤はソである。
その事実に気づくことなく、女はカエルの歌とやらを弾き続けた。

そして部屋に響き渡る最悪の不協和音。

一音一音が謎のテンポで区切られ、時折ずっこけたくなる。

力加減にしても、下手どころの騒ぎでは無い。
なんなんだ。
お前は手をチンパンジーかゴリラと交換したのか。

だいたい、ラの音を押したらラの音が出るはずなのだ。
しかし鍵盤からは聞いた事のない謎の音階の音が生み出されている。
このピアノは昨日まで正常に機能していたはずなのだ。



……なんかもう、天才とか凡才とかの域超えてる。



「じゃん!どうでしょう、なかなか上手く弾けて」

「下手くそ」

「ええっ!?」

「衝撃受けないで。ショックなのはこっちだから。どんだけ才能ないの?」

「そ、そんなに下手でした…?」

「うん。というかまずそこドじゃないソ」

「あら大変」

「ドの音はここ」


人差し指で鍵盤を押せば、音とともに現れる美しいファンタジー。


天乃は見たことないんだっけ


様子が気になって女へ視線を向ければ、ぽかんと口を開けてマヌケ顔をしている。


大方予想どうり…


「あらあら、思ったより左側だったんですね」

「………は?」

「? ですから、ドの鍵盤が思っていたより左側にあったと…」

「いや、は?それだけ?」


ぼくのファンタジーへの感想は何処へ?


「……あっ」


女が顎に手を当て少し考える仕草をした後、なにかに気づいた様子で声を上げる。


やっとわかっ


「お昼ご飯何にします?」


男は今度こそずっこけた。







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