第16話

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2026/01/30 15:35 更新







それは、偶然だった。



倉庫の整理。

古いファイル。

使われなくなった棚。



誰も期待していない作業の中で、
一冊のノートが落ちた。


表紙は色あせていて、
学年も、クラスも書いていない。


ただ、
端のほうに小さく文字があった。



「……けちゃ」



読めた、はずだった。


でも、
声に出そうとした瞬間、
喉が詰まる。



音にならない。



口は動くのに、
空気が震えない。



「なにそれ?」



聞かれて、
ノートを差し出す。


相手は首をかしげる。



「……白紙じゃん」



違う。

確かに、書いてある。


インクの跡も、
筆圧も、
ちゃんと残っている。


なのに、
“文字として”認識されない。


目には映るのに、
意味に変換されない。


それを見ているうちに、
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。




理由は分からない。

思い出もない。

顔も浮かばない。




それでも、
なぜか泣きそうになる。



「なんか、やだね」



誰かがそう言って、
ノートを閉じた。


閉じた瞬間、
その感情も少し薄れる。


強すぎる違和感は、
人の手で自然に封印される。




その日の夜。


夢に、
言葉のない声が出てきた。


口は動く。

確かに、何かを呼んでいる。


でも、
聞き取れない。



ただ、
懐かしい。



とても、
懐かしい。



目が覚めると、
涙が一滴だけ落ちていた。


どうして泣いたのか、
説明できないまま。




翌日、
そのノートは見つからなかった。




捨てられたのか、

移動されたのか、

最初から無かったのか。




誰にも分からない。




分からないことは、
議題にならない。


世界は今日も、
問題なく回っている。


ただ、
時々ふと、


理由もなく、
胸の奥が痛む瞬間がある。



何か大切なものを
落としてきた気がして。



でも、
何を落としたのかは
思い出せない。



名前を失った存在は、
“思い出される権利”も失う。



それでも、
文字だけが、
どこかでまだ息をしている。





読まれないまま。


呼ばれないまま。





——けちゃ。





それは、
世界に残った
最後の痕跡だった。













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