本丸の各々が起床しだす午前8時。廊下の向こうで誰かが障子を開ける音と遠慮のない足音が混ざり合い始めた。台所の方からは湯が沸いた気配もあり、本丸の朝はいつも通りに進んでいる。審神者はいつも通り朝の支度を終えて執務室へと向かっていたが、途中廊下で物吉から呼び止められ、やってきたのは貞宗の部屋前。
心構えは良いですかと謎の覚悟を要され、開けた先に居たのはなんと、ピンク色の毛玉。毛玉!
毛玉はなう!とひと鳴きして私の足元にお行儀よく座った。視界に映る畳と毛玉をぼーっと見つめていると、斜め後ろの物吉が言う。
「主様、これ亀甲なんです。」
物吉の一言が脳に直撃する。体のどこからかドッと音が鳴り首の後ろが寒くなったり暑くなったり忙しい私の体。踏み潰さないようにゆっくりとしゃがみこみ、それを近くで見た。
「亀甲?」
なう!とまた鳴いた。確かに、このしっかり発声される高い鳴き声はどことなく亀甲の面影を感じさせた。普段からよく通る声だなと思っていたのだ。戦の時、問いかけの返事、亀甲ワールド全開の時。
ふと手を差し出してみた。猫は匂いで人を判別するらしいから、なんとなく。軽く握った手の甲を顔辺りに近付けてみる。毛玉はパチリと瞬きをひとつしたあと、私の手に頬ずりした。ふわふわしていた。
「なにが原因かまだ分かっていなくて…うーん……。とりあえず、近侍代理を決めないとですね。………主様?」
私は3歩ほど慎重に後ずさりして襖を閉めた。この間約5秒ほど。ふわふわされた手は使い物にならず、利き手ではない方の手で閉める羽目になった。これがRTAなら致命的なタイムロスである。
「審神者マニュアル、確認してくる!!」
そして逃げた。RTA再走。
まあ、そりゃ誰だって近侍がかわいいねこになっていたら逃げるだろう。
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日も暮れてきた賑やかな夜。浴場が刀達でごった返している様な時間帯だ。私はというと、カタカタ扉を引っ掻く音をBGMにお仕事をしている。ちなみに霊障ではない。音の主はわかりきっているのだが、わざと開けないでいるのだ。
ここ執務室は本丸内有数の洋室であるため、扉は和製の物よりセキュリティ性がある。身長が精々伸びて40センチの音の主からしたら、執務室の扉は決して越えられない鉄壁と言えるだろう。くにゃりと伸びて取っ手に手を伸ばしている光景が頭に浮かび頬が緩みかける。誠に残念だが、もし取っ手に触れられたとしても鍵が掛かっている。精々そこで無駄な可愛さを発揮してなさい、毛玉。
上がりそうになる口角を何とか制御しながら、私は今日の出来事を思い返す事にした。
朝からとんでもないものを食らい、審神者マニュアル(笑)を理由に逃げた後は初期刀の元に向かっていた。近侍代理を頼むためである。厨で食器を洗っていたその刀は、何やら気分が高騰して様子がおかしい私を訝しげに見ていたが、猫化騒動の事を話すとすっかり普段の様子に戻った。案外猫好きなのか、好奇心を隠し切れていない表情で次々質問してくる。いつもの歌仙だ。
その後は歌仙と猫化バグについて調べた。まず政府に連絡を取りイレギュラーを報告。それの返事を待っている間に歌仙は毛玉に話を聞きに行き、私は調べ物。効率のいい作業配分である。毛玉と接触したくないという私情あっての配分だが。
調べ物と言っても、本丸という箱庭には情報源という情報源が政府と如何にもな古い本しかない。政府からの返答は時間がかかるみたいだし、古い本はさっぱり分からない。なのでそう、何か少しでも情報を得たいこの主、アングラ地帯インターネットに潜り込んだのである。
刀剣男士 猫化 バグ と検索バーに打ち込み、表示された結果を見つめる。
ひとつ、歴史遡行軍の血が眼球に付着し、なんらかのウイルスで猫化した事例。刀本体を手入れをすることで直ったらしい。中々に信憑性がある書き込みだ。次。
ふたつ、転送時に猫が入り込み、バグで猫耳と尻尾が生えた事例。マタタビを与えたら治ったらしい。マタタビなんかで直るの?完全猫化ではなく部分的に変化?ちょっと怪しい。次。
みっつ、『 うちの乱たんに猫耳が生えた件について?!〜ボクと乱れてにゃんにゃんしよ♡〜』 …………
深層に行くにつれて魔境になるのがインターネットである。私はピンク色の画面をそっと閉じ、遠征部隊の出迎えに向かった。収穫があったのか無かったのか分からない。最後の衝撃ですべてどこかに飛んで行ってしまったので。
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そうこう回想しているうちに通常業務が終了した。手を上に組みぐぐぐと背を伸ばして、ノートパソコンのコンセントを引き抜くため立ち上がった。静かな室内で一人分の体重を支えたフローリングが軋み、あることに気付く。
扉の音が止んでいる。
毛玉がどこかに行ってしまった?気になって扉まで歩いてしまう。疲れて自室に戻ったのだろうか、はたまた扉の前でまた例の行儀が良い座り方をしているのだろうか。
開けて確認しようものならあの愛くるしい毛玉と対峙する事になるかもしれないし、居なかったら居なかったで申し訳ない気持ちになる。あんなに扉から音を立ててアピールしていたのに、主からは無視され、その努力が損なわれるだなんて、今考えたら酷な事をしてしまったかもしれない。
ア〇と雪の女王よろしく扉に頭を付けうんうん考えていると、頭の上からコンコンコンとノックの音が降ってきた。あまりにも突然で驚き、仰け反るつもりが反動で前の扉に頭を打ち付けることになった。
「あでっ」
「っ!主!?」
結構な音が鳴った。フラフラと頭を抑えながら覚束無い手で鍵を開けるとすぐに向こうから扉が開く。
「もしかして打ち付けちゃったかい?怪我は…!」
慌てた様子の燭台切光忠が私の顔を覗き込んだ。本当に申し訳ない、こちらの変な行動のせいで要らぬ心配を掛けさせてしまった。彼のろうそくの火のような目は見開いており、眉も困ったように下げられている。
「燭台切さんかあ。怪我はありませんから大丈夫です」
「本当に?凄い音だったけど…一応後で冷やす物を持ってくるよ」
「助かります」
心配そうに見つめてくる彼からの追及や視線から逃れたくて、ところで何か用事ですか?と尋ねると、それを思い出したのかさっきまでの表情はパッとどこかへ飛んだ。そして、「亀甲くんと歌仙くんが呼んでたよ」といつものアルカイックスマイルで告げられたのだった。
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少し狭めの談話室で毛玉と相対する審神者がひとり。畳で両者姿勢を正しているなんとも変な空間だった。
ついに毛玉とこうなってしまった。廊下に佇んでいた歌仙からは「君が何故彼を避けてるのか僕には分からないけど、いい加減顔を合わせたらどうだ」とちょっぴり怒られた。歌仙の言うとおり顔を見合せているが、人間を模る刀とは異なり猫を模った刀の表情など、動物に乏しい主には分からなかった。反応豊かな亀甲から感情を読み取ることは造作もない筈なのに、今回はそれができない。それを私は恐れていた。
この状況を脱するものが欲しい。
脱する。直す、バグを直す…
___手入れだ。
「手入れしたら直るかも」
収集した情報の中には手入れで猫化を阻止した事例があった。確か歴史遡行軍の血が刀剣男士の眼球に付着したとかいう、あの書き込み。熱中していた思考から少し抜け出して部屋を見渡す。四畳半と少し狭めな談話室だが、猫と人間の間に十分なスペースがあるから、今すぐ実行できることが分かった。
「亀甲、刀出して」
毛玉は私の顔から視線を落として、目の前の畳に手を差し出した。瞬きの一瞬でどこからとも無く数枚の桜と打刀が現れる。 出してもらって気づいたが、猫の状態でも本体を取り出す事が可能なのかと驚いた。私はそっとありがとうね、と毛玉に聞こえるくらいの声で呟いた。感謝と敬いを忘れないのは審神者としての心得でもある。今は猫だが、一応付喪神なので。
正座は崩さずに前傾姿勢になって鞘の上から手をかざす。集中するために目を閉じて、手のひらや指から伝わる刀の気をよく意識する。傷を負っている訳ではないから、手入れは簡易的なものから試すつもりだ。
空気に交じる神気を徐々に捉えることができた辺りで、そろそろ次の段階に移ろうとした時。ふと右膝になにか当たった感触がした。
てし。
服の布越しなのになぜかそれをふわふわと感じたのは、恐らく1度目の接触の記憶がそう錯覚させたのだろう。多分デジャブというものはこういう事を指すと思う。
「エッ、き、きっこ…なに!?」
いつの間にか隣に居て膝に乗りかかってきた毛玉は、うるにゃーーと何かを訴えて私の腹に突進してくる。お腹がどうした?と半ばパニックになっていると、どんどん上に登ってくるから目的はそこではないのかと今更察する。猫の体は案外ずっしりしていて、毛玉の足が胸らへんにたどり着いた頃には私の頭は畳に着いていた。
途中で退かすことも考えた。が、猫の体を掴むのは怖くて支えることしか出来ず、諦めの境地に達してただただ戸惑っているしかできない。ようやく動きが収まったかと思うと毛玉は私のおでこに顔を近づけた。そして、ぺろぺろと毛を繕うように肌を舐め始める。ザラザラした舌が少し痛く感じた。
「!」
ふとそこは先程扉で打ち付けた箇所だと閃き、ようやくこの毛玉の意図を理解する。どうやら、亀甲もまた燭台切さんと同じように怪我を心配をしているらしい。
「なるほど〜……」
まったく、人騒がせな猫である。いや、主騒がせの刀か。
顔に毛布のようなお腹がダイレクトアタックして、それがあまりにもふわふわだからちょっとした酩酊状態になっていた。ドーパミン、オキシトシン、セロトニン…脳からなんの成分が出ているかは知らないが、とにかくさっきまでの緊張から解放されてハイになっている。だから、その毛玉のもふもふに顔を埋めて深呼吸したのはそのせいだったとしか言いようがない。
スーーと息を吸って吐くのを、3回程した。なんとも形容しがたい幸福を肺と顔全体で感じる。幸福感で言えば、二度寝にも勝るほどのそれだったような気がした。4回目、吸って吐く。もう遠慮はなくなってふわふわの体を手で掴んだ。5回目、6回目、7…
「ふふ……」
上から降ってきた吐息のような笑い声を聞いて、正気に戻った私はようやく異変を察知した。なぜ気付かなかったのだろう。まず、目の前が桃色ではなく白になっていた。次に、なぜか先程より重さが増している。そして、あの甘美なもふもふの感触が肌触りの良いの布のものに変わっていた。…とどめに、私が掴んだはずのふわふわの体が、まるで人間の肩のような硬さに変化していたのだ。
ギギギと徐々に視線を向ける。向きたくなかったが、向かずにはいられないのが人間の性というもの。
「随分、積極的なんだね ご主人様…」
視線を向けた先、白菊のごとき美青年がこちらを見ていた。頬を染めながら、…なんだかちょっと息が荒い様子で。正真正銘間違いなく、私の近侍の亀甲貞宗だった。
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「おまたせ主、保冷剤を持ってき……、……ワオ。」
主を呼びに行った際、僕の不注意で 主が扉に頭を打ち付けた出来事から数分後。厨の冷蔵庫から保冷剤を確保して、歌仙くんに居場所を聞いた後談話室に足を運んだ。その時なんとなく焦っていたのもあって間髪入れずにその襖を開けてしまったんだ。それで、この光景。
畳に寝転がる主と、その上に跨る亀甲くん。主は彼の肩…もとい上半身を抱きしめるように腕を回していた。亀甲くんは畳に手をついている。主に体重を乗せないようにしているんだろうけど、傍から見るとなんだか閉じ込めてるように思えた。
これらをまとめて端的に言うと、主が押し倒されていた。談話室で。
「誤解です誤解です誤解です誤解!」
「邪魔しちゃったみたいだね。これここ置いとくから、二人共ごゆっくり」
襖を閉めて廊下に戻る。障子越しから主の慌てている声が聞こえるが、あれに誤解も何も無いだろう。太刀は夜目が利かないけど、電気が付いていた室内では普通に見える。しっかりこの目で現場を目撃した訳だ。
「暫くこの噂で持ち切りになるだろうなあ」
賑やかな宴会の中心で質問攻めされる主らを思い浮かべて微笑しながら、来た道を戻った。
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翌日の昼。やっと政府から来た返事はこんのすけの口頭で伝えられた。刀剣男士が昼食を摂っている広間から少し離れた廊下の一角。こんのすけは私と亀甲の前にちょこんと座っている。
「刀剣男士が猫化する事例は、対象の心拍数が上昇することで直ったと報告されております」
「…心拍数の上昇?手入れじゃなくて?」
「手入れをしても特に効果は無いようですよ」
予想していた答えと違って思わず首を傾げてしまう。
「つまり…主とぼくが抱き合ったとき、ぼくの心拍数が上がってバグが直ったという訳だね」
隣に振り向くと人間姿の亀甲が立っている。語弊のある言い方はやめて欲しいが、抱き合ったといえば抱き合ったで間違いないので言及しないでおいた。
あの時の亀甲の様子をオブラートに包みながら証言すると、主である私との思わぬトラブル接触でご主人様至上主義の血が騒ぎ(ご主人様至上主義?)心拍が上がった、というのがまあ妥当だろうか。後に書く報告書はこれくらい濁す予定だ。
「成程。では、なぜ抱き合ったのですか?」
「えっ」
この管狐、思いのほかド直球に追求してきた。可愛くてちいこい体に見合わずとんだ遠慮のなさ。被っている可愛い皮のお陰で今までプライバシー侵害とセクハラの訴えから回避してきた、とでも言うつもりなのだろうか。もしそうなら、政府はもっと管狐に教育を施してくれとしか言いようがない。
「…ええと、黙秘しま」
「_____ああ、それを聞いてしまうのかい?!そうだね…いきなりクライマックスから話すのは分からないだろうしまずぼくとご主人様が初めて出会った日から始めようか!最初、顕現したての会話は名前の由来を聞かれたのが始まりでね。その時のご主人様の顔と言ったら……っ!今でも鮮明に思い出せるよ!歓迎と困惑が入り交じ」
あ、と思った頃にはもう遅かった。饒舌な語りが横から延々と流れてくる。こんのすけが心なしかぽかんとした表情で亀甲を見ていたが、私の視線に気が付いたようだ。さっきまで心の中で悪態をついていたこんのすけと図らずもアイコンタクトで意思疎通してしまい、複雑な気持ちになる。
こうなってしまったらもう手に負えない。今移せる行動は静かに去るのみ。こんのすけをそっと抱えてすり足で廊下を後退していく。
猫の時は感情が読めないからだなんて理由で避けてしまっていたが、今考えれば静かで可愛げがあったものだ。人間に戻るということはいつもの亀甲に戻るということ。今日も明日も明後日も続くであろう亀甲に振り回される毎日に、私は遠い目になるのだった。









![[ 参加型 ] 特例調査報告書](https://novel-img-gcs.prepics-cdn.com/prcmnovel-tokyo-prod-converted-images/p/8ec1100b736ec059e775707e9091798bf0049566/cover/01KMTH59DE7803JVFK6FVY7CB9_resized_240x340.jpg)


編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。