第109話

NICHOLAS 平気、の裏側で
1,286
2025/11/08 13:16 更新






朝の空気が、少しだけ重たい。
窓の外は曇り。光のない空を見上げながら、ニコラスは喉の奥に残る違和感を何度も飲み込んだ。

「……大丈夫。」
いつものように、そう呟く。

鏡の前で髪を整えながらマスクをつける。
顔は少し赤い。目の奥が熱をもっていて、寝不足のせいだと自分に言い聞かせた。
熱を測ろうか一瞬迷ったけれど、数字を見ると余計に気持ちが落ちる気がして――やめた。

「行かなきゃ。」

声に出した瞬間、喉の奥が焼けるように痛む。
それでもスマホと財布をポケットに入れて、玄関を出た。
外の空気は冷たくて、首元に刺さるようだった。



タクシーの窓に額を預けると、ひんやりした感触に少しだけ息が落ち着く。
信号待ちのたびに、ワイパーが濡れた音を立ててフロントガラスをなぞる。

「雨……か。」

低い声で呟く。
音が遠くに感じる。車のエンジンの震えが、頭の奥に鈍く響いていた。
SNSの通知を開く指先は、いつもより遅い。
文字が霞んで、焦点が合わない。

少しでも気を逸らそうと、イヤホンを耳に入れて、
未完成のボーカルラインを小さく再生する。
いつもなら頭の中で自然とテンポを取れるのに、今日はうまく乗れなかった。



「お客さん、着きましたよ。」

運転手の声に軽く会釈して、マスクの上から微笑む。
車を降りた瞬間、冷たい空気に体がびくりと反応した。
足が少しふらつく。

撮影スタジオの自動ドアをくぐると、暖房の風が頬にあたって一気に頭がぼうっとした。
スタッフに軽く会釈しながら、
「おはようございます」
といつも通り言ったけれど、自分でも驚くほど声が掠れている。



控え室のドアを開けると、
すでにウィジュとタキの笑い声が聞こえてきた。

「ニコラスおはよ〜!ひさしぶり!」
「お、やっと来たね。おはよう!」

明るい声に、少しだけ胸が緩む。
久しぶりの全員集合。
それだけで、ああ、帰ってきたなって思う。

「おはよう。元気?」

そう返した自分の声は、少し掠れていたけれど、
二人は気づかずに笑ってくれた。

ソファに腰を下ろして上着を脱ぐ。
ふと視線を落とすと、手の甲がほんのり赤い。
熱のせいか、血が巡りすぎている気がする。

「……平気、平気。」

小さく呟いて、深呼吸をひとつ。
今日も乗り切るしかない。
少なくとも、誰にも心配をかけたくはなかった。



でも、あのときから――
ほんの少しずつ、世界が霞んで見え始めていた。













スタジオの照明は、朝から容赦なく眩しかった。
目を細めた瞬間、視界が一瞬ぐらりと揺れる。
でも誰にも気づかれないように、ニコラスはいつも通りの笑顔を作った。

「じゃあ、次のカット入りまーす!」
スタッフの声が響く。

「はい、お願いします!」
メンバー全員の声が重なった。

その瞬間、ニコラスは無意識に深呼吸をした。
胸の奥まで空気が入ってこない。喉の奥は焼けつくように痛む。
それでも、カメラの前ではそんなそぶりを見せないように――。

いつも通り、少し明るめのテンションで笑う。
横にいるウィジュが振り返って小さく手を上げた。
「ニコラス、顔赤くない?」

「ん?照明のせいだよ。」
笑ってそう言う。けど、声が少しかすれていた。

照明の熱で、背中が汗ばんでくる。
ハンカチをポケットから取り出そうとして、指先が少し震えた。
いつもなら気にならない小さなことが、今日はやけに重たく感じる。



休憩中。

ソファに腰を下ろすと、
Kが隣からペットボトルを差し出した。

「飲めよ。顔、ちょっとしんどそう。」

「え、俺?全然平気。」
ニコラスは笑ってキャップを開ける。
けど、水を一口飲み込んだ瞬間、喉の奥がひりついて、思わず眉を寄せた。

その様子を見ていたKは、じっと彼を見つめた。
「……まあ、無理すんなよ。」

「分かってるよ、Kヒョン。」
笑いながら言って、
ソファの背もたれに体を預けた。



午後。
撮影の後半に入ると、照明の熱と人の気配で空気がこもる。
スタジオの中のざわめきが、だんだん遠くなっていくような感覚。
「ニコラスさん、もう少し右で〜」
「はい」
反射的に返事をしたけど、立ち位置を少し間違えてスタッフに直される。

ウィジュがさりげなくそのフォローをして、
「大丈夫?」と小声で聞いてくれた。
ニコラスは、ほんの一瞬だけ視線を合わせて、
「大丈夫」って口だけで笑う。

でも、その笑顔の下で、
意識の奥がふわりと浮いていた。



撮影が終わると、
スタッフの「お疲れさまでしたー!」の声に続いて拍手が起こる。
メンバーたちは軽くハイタッチを交わして、笑い合った。

ニコラスも笑った。
けれど、その笑みの奥で――
体の芯が、静かに悲鳴を上げていた。



控え室までの廊下を歩く足音が、自分のものじゃないみたいに響く。
息が浅くて、肺に入る空気はシンと冷たい。
ウィジュとタキの笑い声が少し遠くに聞こえる。

扉を開けて控え室に入った瞬間、
安心したようにふわっと膝が緩んだ。

「……やばいな。」

小さく呟いた声は、自分でも聞き取れないくらい掠れていた。












撮影がすべて終わったころには、
スタジオの外はすっかり暗くなっていた。
照明の白い光が消えた瞬間、張りつめていた糸がぷつりと切れる。

スタッフが片づけを始める横で、
メンバーたちは「おつかれ〜!」と声を掛け合っていた。
笑い声が飛び交う中、ニコラスはゆっくりと椅子に腰を下ろす。

「ニコラス〜、ちゃんとご飯食べた?」
ウィジュの柔らかい声。

「うん、あとで食べる。」

いつもの軽いやり取りのはずなのに、
言葉が妙に遠くから響いて聞こえる。
呼吸を整えようとするけど、空気が浅くしか入ってこない。

――目の前が少し、ぼやける。



「……おい、ニコラス?」

ふいにKの声が近くから聞こえた。
ハッとして顔を上げると、Kとフウマが覗き込んでいた。

「顔、真っ赤だぞ。大丈夫か?」
「なんかさっきから様子おかしいよ。」

「大丈夫だよ。ほんとに。」
笑って見せようとするけど、頬が引きつっているのが自分でも分かる。
体を起こした拍子にふらっとよろめき、
近くにいたタキがあわてて支えた。

「うわ、ニコラス熱い!」

その一言で、空気が一気に変わった。
ウィジュがすぐに駆け寄って、額に手を当てる。

「これ、やばい。完全に熱あるよ!」

ニコラスは苦笑いを浮かべた。
「そんなことないって。俺、ただちょっと……疲れただけ。」

「疲れただけでここまで熱くなんないよ。」
フウマが低い声で言って、
マネージャーにタオルと水を頼みに出ていく。



控え室の端では、ハルアとジョウ、マキが心配そうに顔を覗かせていた。
「ニコラス、熱?」
「マジか……」

ジョウが眉をひそめて呟く。
「昼からあんまり喋ってなかったもんね。」

マキが小さく頷くと、
ウィジュが「タオルお願い」と声を掛け、
ハルアが急いで冷蔵庫からペットボトルを取り出した。



「冷たいの、ここ当てて。」
タキがそっと首筋にペットボトルを押し当てる。

「ん……ありがとう。」

少し息が漏れた。
冷たさが一瞬だけ心地よくて、
思わずそのまま目を閉じる。

「寝ちゃいそう……」
かすれた声に、タキが苦笑した。

「いいよ、寝て。ちゃんと見てるから。」



「なんで言わなかったんだよ。」
静かに、Kが言った。
少し怒ったようで、でもそれよりも声が震えていた。

「朝から顔、赤かったの知ってるんだぞ。」

「……だって、久しぶりにみんな揃ったじゃん。」
ニコラスの声はかすれていた。
「会ったら、ちゃんと笑ってたいなって……。」

Kが息を詰まらせる。
フウマは手にした毛布をそっとかけながら、
「ほんと、お前はさ。優しすぎるんだよ。」と小さく呟いた。



そのまましばらくの間、
控え室にはエアコンの音と、
誰かの小さな息づかいだけが響いていた。

ジョウが照明を少し落とし、
ハルアが水のボトルを持って隣に座る。
ウィジュは壁際に寄りかかって、
その隣で眠りそうなニコラスを静かに見つめていた。

「ニコラス、ちゃんと休んで。」
マキの声に、
「うん……」と答えたきり、ニコラスは動かなくなった。

その穏やかな寝顔を見て、
誰も何も言わず、
ただ「おかえり」と心の中で呟いた。










空調の風が静かに流れる控え室。
さっきまで笑い声であふれていたはずの場所は、いまや嘘みたいに静まり返っていた。
中央のソファには、顔を少し赤くして毛布にくるまるニコラス。
その隣に座るマキは、心配そうに眉を寄せていた。

「……熱、高いよ。」
手の甲を軽く額に当てて、マキが呟く。

「うん、でも平気。」

「平気じゃないでしょ!」
思わず声が少し大きくなった。
マキの声に驚いたように、ニコラスが薄く目を開ける。

「病院、行こ。ニコ、顔真っ赤だよ。」

「……行かない。」

「なんで!?」

「行ったって、どうせ“風邪です”って言われて終わりだよ。」
ニコラスの声は掠れていて、それでもどこか落ち着いているように聞こえた。

「でも、それで安心できるなら行った方がいいじゃん。放っといたら悪化するって!」

「マキ、ほんとに大丈夫。行かなくていい。」
「大丈夫大丈夫って、それもう大丈夫な人の顔じゃないよ!」

言葉の温度が少しずつ上がっていく。
周りの空気がピリッと張り詰めた。

Kが一度止めようとしたけど、
フウマが小さく首を横に振って制した。
「言わせてやれ。たぶん、マキも限界だ。」



「……マキ、心配してくれてるのは分かるけど。」
ニコラスがゆっくりと視線を上げた。
少し潤んだ目で、真っ直ぐにマキを見る。

「俺、病院ってあんまり得意じゃないんだよ。」

「……得意じゃない?」

「小さい頃、何回も通ってた。
入院もしたことあるし、あの匂いも音も、思い出すだけで気持ち悪くなる。」

淡々とした口調。
けれど、握った拳が小さく震えていた。

「だから行きたくないの。今日は……寝れば治るから。」

「……でも、それで倒れたらどうすんの?」

「倒れないよ。」

「そうやって強がるの、もうやめようよ!」

マキの声が、控え室に響いた。
ハルアとジョウが顔を上げ、
タキが不安そうに2人を見つめる。

「……マキ。」

「俺だってさ、ニコラスが無理してるの分かってた。
今日だってずっと変だったじゃん。
なのに“平気”ばっか言うから、心配するしかないでしょ!」

マキの目が潤んでいた。
ニコラスは一瞬、言葉を失う。

「……ごめん。でも、ほんとに行かなくていい。
みんなの時間、無駄にしたくないから。」

「そういうとこだよ!」
マキは声を詰まらせて、唇を噛む。

「誰も無駄だなんて思ってないのに……。
ニコラスが自分で自分を追い込んでるだけじゃん。」



数秒の沈黙。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いた。

ニコラスがそっと立ち上がる。
体を動かした途端、少しよろめいたけど、
すぐに笑って誤魔化した。

「悪い、俺……帰る。」

「帰るって、ひとりで?」
ウィジュが立ち上がろうとしたが、ニコラスは小さく手を振った。

「大丈夫。少し休めば平気だから。
みんなも今日はもう疲れたでしょ。」

毛布をたたみ、鞄を肩にかけてマスクをつける。
ふうっと息をついて微笑むけど、その目はどこか遠かった。



タクシーのドアが閉まる音が、
控え室の外の静けさに溶けていく。

窓の外の街灯が、滲んで見えた。
額を冷たいガラスに押し当てて、
心の奥で誰かの声が響く。

――ほんとは、分かってる。
マキは悪くない。
俺が、ちゃんと甘えられないだけ。

小さく笑って目を閉じた。

「……明日、ちゃんと謝ろう。」

そう呟いた声は、
車のエンジン音にかき消された。











ドアが静かに閉まったあと、
控え室には一瞬だけ何の音もしなかった。

「……行っちゃったね。」
タキの小さな声が、沈黙を破った。

ソファの上、マキは俯いたまま拳を握っていた。
指先が真っ白になるほど力が入っている。
彼の隣で、ウィジュが心配そうに様子を見守っていた。

Kは深く息を吐き、
「ちょっと、落ち着こっか。」と静かに言ってマキの肩をぽん、と叩いた。

マキは唇を噛みしめたまま、震える声で呟いた。
「……俺、言いすぎたかな。」

「言いすぎてない。」
即座に返したのはフウマだった。
「お前は、ニコラスのこと思って言っただけだろ。
優しさをぶつけただけだ。」

「でも、あの顔……。俺、怒らせた気がして。」
マキの声が震える。
視線を落としたまま、目尻が少し赤くなっていた。

「怒ってなんかないよ。」
Kが柔らかく言った。
「たぶん、自分でも分かってるんだ。
マキが心配してくれたことも、正しかったことも。」



その言葉に、マキは顔を上げた。
Kの表情はいつものように穏やかだけど、
その目の奥には小さな苛立ちが見えた。

「ほんと、あいつ……。なんで全部抱え込むかな。」

「ニコちゃんって、昔からそうだよね。」
ハルアが呟いた。
「体調悪くても“気のせい”とか言って笑うし。」

ジョウも小さく頷く。
「優しいんだよ。みんなに迷惑かけたくないって、
そればっか考えるタイプ。」

「でも、それで倒れたら意味ないじゃん。」
マキが小さく吐き捨てた。



その瞬間、Kがソファの背にもたれかかりながら小さく笑った。
「……ほんとに“優しい”って、厄介だな。」

フウマがそれに頷く。
「そうだな。でも、今回はちゃんと俺らが支えないと。
あのまま一人で帰したのは、少し心配だし。」

「行く?」とウィジュが聞くと、
Kは首を横に振った。

「たぶん、今はそっとしておいた方がいい。
少し休ませて、落ち着いたら俺が連絡する。」

その言葉に、みんなが静かに頷いた。



マキはようやく少し顔を上げた。
「……ごめんなさい、俺、ヒョンたちが止めてくれたのに。」

「謝ることないよ。」
Kが笑う。
「お前がちゃんと“本気で言ってくれる弟”だからこそ、
ニコラスもあそこまで真面目に聞いてたんだ。
本気の言い合いなんて、嫌われてたらできないよ。」

マキの頬が少し緩んだ。
「……そうかな。」

「そうだよ。」
フウマが笑って、マキの頭をぐしゃっと撫でる。
「あとでちゃんと仲直りしろよ、ゴールデンレトリバー。」

「もー……。」
そう言いながらも、マキの目尻が少し赤くなっていた。



控え室の明かりが少し落とされる。
みんなが片づけをしながら、それぞれ静かに思っていた。

“ちゃんと、ニコラスヒョンのそばにいよう。”

Kは荷物をまとめながら小さく呟く。
「……明日、顔見たら怒る前に抱きしめてやろう。」

「ヒョン、それ絶対びっくりしますよ。」
ハルアが笑うと、Kも肩をすくめた。

「いいんだよ。びっくりしても、もう離さない。」

そう言って笑ったKの声は、
どこか寂しさを含んでいた。












宿舎に着くころには、夜の空気がすっかり冷たくなっていた。
タクシーのドアを閉めると、車のランプが遠ざかっていく。
あたりは静かで、足音だけが乾いた廊下に響いた。

エレベーターの鏡に映る自分の顔が、
思った以上に赤くて、思わず苦笑いする。

「……やば。こりゃ完全に熱あるな。」

独り言を呟いても、返事はない。
ただ、静寂が体に沁みてくる。

部屋に入って明かりを点けると、
空気が少しだけ重く感じた。
鞄を床に置いて、マスクを外して、
そのままベッドに倒れ込む。

体が鉛みたいに重い。
でも、頭の中はぐるぐると回っていた。

――マキ、怒ってたな。
いや、違う。怒ってたっていうより、悲しそうだった。

目を閉じると、さっきの控え室が浮かぶ。
マキの泣きそうな顔、
Kとフウマの沈んだ目。

「……ごめんな。」
小さく呟いた声が、枕に吸い込まれて消えた。



どれくらい時間が経っただろう。
ぼんやりと熱で滲む視界の中で、
ドアのノック音が聞こえた。

「……ニコラス?」

ウィジュの声だった。

「入ってもいい?」

「うん。」

声が自分でも驚くほど掠れていた。
ドアが静かに開いて、ウィジュが部屋に入ってくる。
手には小さな保冷剤と水のペットボトル。

「フウマヒョンが、気にしてた。
たぶん熱、まだ下がってないでしょ。」

「……平気だよ。」
枕から顔を上げずに答える。

「またそれ。」
ウィジュが苦笑しながらベッドの端に腰を下ろす。
「“平気”って言葉、今日何回目?」

「……三回目、くらい?」
少し笑おうとしたけど、喉の奥がひゅっと鳴って咳が出た。

ウィジュは何も言わず、
タオルでそっと額の汗を拭いた。

「冷たいの、当てときな。」

「……ありがと。」

少し間が空いた。
ふたりの間に漂う沈黙は、不思議と心地よい。



「マキ、気にしてたよ。」
ウィジュが、ぽつりと言う。
「“言いすぎたかも”って。」

「……俺のほうこそ。」
ニコラスは天井を見つめたまま、
乾いた息を吐いた。

「マキは、優しいよ。
まっすぐで、嘘つけない。
だからこそ俺の強がりが許せなかったんだと思う。」

「うん。あいつ、そういうとこあるね。」
ウィジュが微笑む。
「でも、それがニコラスを一番心配してる証拠だよ。」

「分かってるけど……」
ニコラスは目を閉じた。
「心配されるの、まだ慣れなくてさ。」

「慣れなくていいよ。」
ウィジュの声は静かだった。
「俺たちはニコラスの兄弟なんだから。
心配させるのが当たり前。」

「……兄弟、か。」

「そう。家族。
遠慮するな。熱あるときくらい、弱くていいの。」



その言葉に、喉の奥が少し詰まった。
何か言おうとしたけど、声にならなかった。
ウィジュは立ち上がって、毛布を少し直した。

「明日、マキと仲直りな。
あいつ、ニコラスが“ありがとう”って言ったら絶対笑うよ。」

「……そうだね。」
かすれた声で答えると、ウィジュが少し笑って頷く。

「じゃあ、寝ろ。
寝ないと、ほんとに病院連れてくからな。」

「やだ、それだけは。」

「ふふ、分かってる。」

そう言ってウィジュが部屋を出ていく。
ドアが閉まる瞬間、
小さく「おやすみ」と聞こえた。



静まり返った部屋。
遠くの冷蔵庫の音と、自分の呼吸だけが響く。

ニコラスは目を閉じて、
ウィジュの言葉を何度も思い出していた。

――“心配させるのが当たり前。”

その優しい響きに、
ようやく少しだけ体の力が抜けて、
熱の中で静かに眠りに落ちていった。












カーテンのすき間から差し込む朝の光が、
白くシーツを照らしていた。

まぶしさに顔をしかめながら目を開けると、
喉がまだ少し痛い。
でも、夜よりはずいぶんと楽になっていた。

「……ん、朝か。」

ぼそっと呟いた声が部屋に響く。
枕元のスマホに目をやると、
未読のメッセージがいくつも並んでいた。

《大丈夫?》
《熱、下がった?》
《水飲んだ?》

送信者はみんなメンバー。
その中でもマキからのメッセージが一番多かった。
絵文字のついてない、真っすぐな短文ばかり。

「……心配性だなぁ。」
苦笑しながらスマホを置いた。

そのとき、コンコンとドアを叩く音。

「ニコ、起きてる?」

聞き慣れた声に顔を上げる。
「……マキ?」

「うん。入ってもいい?」

「いいよ。」



ドアが開くと、マキが半分寝ぐせのまま顔を出した。
手にはペットボトルの水と、小さな保冷剤。

「おはよう。熱、どう?
昨日より顔赤くないけど、下がった?
水分ちゃんと取った?
朝ごはん食べる?
今日のスケジュールは?行ける?」

開口一番、質問が洪水のようにあふれ出る。
ニコラスは思わず吹き出して、
枕に顔を埋めて笑った。

「ちょ、マキ……質問多いって。」

「だって気になって。」

「熱は……もうだいぶ下がったよ。
昨日ウィジュが冷やしてくれたから。」

「ほんとに?無理してない?」

「ほんと。」
笑いながら上体を起こす。
「ていうか、マキ……朝からテンション高いね。」

「心配してたんだから!」
真剣な顔で言われて、
ニコラスは少し照れくさそうに目をそらした。



マキはベッドの端に腰を下ろして、
軽く息をついた。

「昨日……ごめんなさい。」

「ううん、謝んなくていい。」

「でも、ニコラスが嫌な気持ちになったかもって思って。」

ニコラスは小さく首を振った。
「嫌どころか、嬉しかったよ。」

「え?」

「俺のこと、あんなに本気で心配してくれる人、
そうそういないから。」

その言葉にマキの表情がふっと緩んだ。
「……そっか。」

「うん。
昨日はちょっと余裕なくてごめん。
でもありがとう。ちゃんと伝えたくて。」

少しだけ頬を掻きながら笑うニコラス。
その穏やかな表情に、マキはようやく安心したように笑った。



「じゃあ、今日のスケジュールは?」

「それな。」
ニコラスが苦笑する。
「フウマヒョンに“まだ本調子じゃないなら無理すんな”って言われて、
午前は休みにしてもらった。」

「よかった……。」
マキはほっとしたように胸を撫で下ろす。

「午後からは出るけど、もう大丈夫。
これ以上心配かけたら、マキに怒られそうだし。」

「怒るよ!」

その即答に、ニコラスが声を出して笑う。
「ほら、やっぱり。」

笑い声が静かな部屋に広がって、
少し開いた窓から朝の風が入ってきた。



ふと、マキが真剣な目で言った。

「次からは“平気”じゃなくて“助けて”って言ってよ。」

ニコラスは少し間を置いて、
やわらかく笑った。

「……分かった。約束する。」

その笑顔を見て、マキはようやく安心したように立ち上がる。

「じゃあ、水冷やしとく!」

そう言って部屋を出ていくマキの背中を見送りながら、
ニコラスは小さく呟いた。

「ほんと、いい弟だな。」

その言葉は、
穏やかな朝の光に包まれて消えていった。







プリ小説オーディオドラマ