朝の空気が、少しだけ重たい。
窓の外は曇り。光のない空を見上げながら、ニコラスは喉の奥に残る違和感を何度も飲み込んだ。
「……大丈夫。」
いつものように、そう呟く。
鏡の前で髪を整えながらマスクをつける。
顔は少し赤い。目の奥が熱をもっていて、寝不足のせいだと自分に言い聞かせた。
熱を測ろうか一瞬迷ったけれど、数字を見ると余計に気持ちが落ちる気がして――やめた。
「行かなきゃ。」
声に出した瞬間、喉の奥が焼けるように痛む。
それでもスマホと財布をポケットに入れて、玄関を出た。
外の空気は冷たくて、首元に刺さるようだった。
⸻
タクシーの窓に額を預けると、ひんやりした感触に少しだけ息が落ち着く。
信号待ちのたびに、ワイパーが濡れた音を立ててフロントガラスをなぞる。
「雨……か。」
低い声で呟く。
音が遠くに感じる。車のエンジンの震えが、頭の奥に鈍く響いていた。
SNSの通知を開く指先は、いつもより遅い。
文字が霞んで、焦点が合わない。
少しでも気を逸らそうと、イヤホンを耳に入れて、
未完成のボーカルラインを小さく再生する。
いつもなら頭の中で自然とテンポを取れるのに、今日はうまく乗れなかった。
⸻
「お客さん、着きましたよ。」
運転手の声に軽く会釈して、マスクの上から微笑む。
車を降りた瞬間、冷たい空気に体がびくりと反応した。
足が少しふらつく。
撮影スタジオの自動ドアをくぐると、暖房の風が頬にあたって一気に頭がぼうっとした。
スタッフに軽く会釈しながら、
「おはようございます」
といつも通り言ったけれど、自分でも驚くほど声が掠れている。
⸻
控え室のドアを開けると、
すでにウィジュとタキの笑い声が聞こえてきた。
「ニコラスおはよ〜!ひさしぶり!」
「お、やっと来たね。おはよう!」
明るい声に、少しだけ胸が緩む。
久しぶりの全員集合。
それだけで、ああ、帰ってきたなって思う。
「おはよう。元気?」
そう返した自分の声は、少し掠れていたけれど、
二人は気づかずに笑ってくれた。
ソファに腰を下ろして上着を脱ぐ。
ふと視線を落とすと、手の甲がほんのり赤い。
熱のせいか、血が巡りすぎている気がする。
「……平気、平気。」
小さく呟いて、深呼吸をひとつ。
今日も乗り切るしかない。
少なくとも、誰にも心配をかけたくはなかった。
⸻
でも、あのときから――
ほんの少しずつ、世界が霞んで見え始めていた。
スタジオの照明は、朝から容赦なく眩しかった。
目を細めた瞬間、視界が一瞬ぐらりと揺れる。
でも誰にも気づかれないように、ニコラスはいつも通りの笑顔を作った。
「じゃあ、次のカット入りまーす!」
スタッフの声が響く。
「はい、お願いします!」
メンバー全員の声が重なった。
その瞬間、ニコラスは無意識に深呼吸をした。
胸の奥まで空気が入ってこない。喉の奥は焼けつくように痛む。
それでも、カメラの前ではそんなそぶりを見せないように――。
いつも通り、少し明るめのテンションで笑う。
横にいるウィジュが振り返って小さく手を上げた。
「ニコラス、顔赤くない?」
「ん?照明のせいだよ。」
笑ってそう言う。けど、声が少しかすれていた。
照明の熱で、背中が汗ばんでくる。
ハンカチをポケットから取り出そうとして、指先が少し震えた。
いつもなら気にならない小さなことが、今日はやけに重たく感じる。
⸻
休憩中。
ソファに腰を下ろすと、
Kが隣からペットボトルを差し出した。
「飲めよ。顔、ちょっとしんどそう。」
「え、俺?全然平気。」
ニコラスは笑ってキャップを開ける。
けど、水を一口飲み込んだ瞬間、喉の奥がひりついて、思わず眉を寄せた。
その様子を見ていたKは、じっと彼を見つめた。
「……まあ、無理すんなよ。」
「分かってるよ、Kヒョン。」
笑いながら言って、
ソファの背もたれに体を預けた。
⸻
午後。
撮影の後半に入ると、照明の熱と人の気配で空気がこもる。
スタジオの中のざわめきが、だんだん遠くなっていくような感覚。
「ニコラスさん、もう少し右で〜」
「はい」
反射的に返事をしたけど、立ち位置を少し間違えてスタッフに直される。
ウィジュがさりげなくそのフォローをして、
「大丈夫?」と小声で聞いてくれた。
ニコラスは、ほんの一瞬だけ視線を合わせて、
「大丈夫」って口だけで笑う。
でも、その笑顔の下で、
意識の奥がふわりと浮いていた。
⸻
撮影が終わると、
スタッフの「お疲れさまでしたー!」の声に続いて拍手が起こる。
メンバーたちは軽くハイタッチを交わして、笑い合った。
ニコラスも笑った。
けれど、その笑みの奥で――
体の芯が、静かに悲鳴を上げていた。
⸻
控え室までの廊下を歩く足音が、自分のものじゃないみたいに響く。
息が浅くて、肺に入る空気はシンと冷たい。
ウィジュとタキの笑い声が少し遠くに聞こえる。
扉を開けて控え室に入った瞬間、
安心したようにふわっと膝が緩んだ。
「……やばいな。」
小さく呟いた声は、自分でも聞き取れないくらい掠れていた。
撮影がすべて終わったころには、
スタジオの外はすっかり暗くなっていた。
照明の白い光が消えた瞬間、張りつめていた糸がぷつりと切れる。
スタッフが片づけを始める横で、
メンバーたちは「おつかれ〜!」と声を掛け合っていた。
笑い声が飛び交う中、ニコラスはゆっくりと椅子に腰を下ろす。
「ニコラス〜、ちゃんとご飯食べた?」
ウィジュの柔らかい声。
「うん、あとで食べる。」
いつもの軽いやり取りのはずなのに、
言葉が妙に遠くから響いて聞こえる。
呼吸を整えようとするけど、空気が浅くしか入ってこない。
――目の前が少し、ぼやける。
⸻
「……おい、ニコラス?」
ふいにKの声が近くから聞こえた。
ハッとして顔を上げると、Kとフウマが覗き込んでいた。
「顔、真っ赤だぞ。大丈夫か?」
「なんかさっきから様子おかしいよ。」
「大丈夫だよ。ほんとに。」
笑って見せようとするけど、頬が引きつっているのが自分でも分かる。
体を起こした拍子にふらっとよろめき、
近くにいたタキがあわてて支えた。
「うわ、ニコラス熱い!」
その一言で、空気が一気に変わった。
ウィジュがすぐに駆け寄って、額に手を当てる。
「これ、やばい。完全に熱あるよ!」
ニコラスは苦笑いを浮かべた。
「そんなことないって。俺、ただちょっと……疲れただけ。」
「疲れただけでここまで熱くなんないよ。」
フウマが低い声で言って、
マネージャーにタオルと水を頼みに出ていく。
⸻
控え室の端では、ハルアとジョウ、マキが心配そうに顔を覗かせていた。
「ニコラス、熱?」
「マジか……」
ジョウが眉をひそめて呟く。
「昼からあんまり喋ってなかったもんね。」
マキが小さく頷くと、
ウィジュが「タオルお願い」と声を掛け、
ハルアが急いで冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
⸻
「冷たいの、ここ当てて。」
タキがそっと首筋にペットボトルを押し当てる。
「ん……ありがとう。」
少し息が漏れた。
冷たさが一瞬だけ心地よくて、
思わずそのまま目を閉じる。
「寝ちゃいそう……」
かすれた声に、タキが苦笑した。
「いいよ、寝て。ちゃんと見てるから。」
⸻
「なんで言わなかったんだよ。」
静かに、Kが言った。
少し怒ったようで、でもそれよりも声が震えていた。
「朝から顔、赤かったの知ってるんだぞ。」
「……だって、久しぶりにみんな揃ったじゃん。」
ニコラスの声はかすれていた。
「会ったら、ちゃんと笑ってたいなって……。」
Kが息を詰まらせる。
フウマは手にした毛布をそっとかけながら、
「ほんと、お前はさ。優しすぎるんだよ。」と小さく呟いた。
⸻
そのまましばらくの間、
控え室にはエアコンの音と、
誰かの小さな息づかいだけが響いていた。
ジョウが照明を少し落とし、
ハルアが水のボトルを持って隣に座る。
ウィジュは壁際に寄りかかって、
その隣で眠りそうなニコラスを静かに見つめていた。
「ニコラス、ちゃんと休んで。」
マキの声に、
「うん……」と答えたきり、ニコラスは動かなくなった。
その穏やかな寝顔を見て、
誰も何も言わず、
ただ「おかえり」と心の中で呟いた。
空調の風が静かに流れる控え室。
さっきまで笑い声であふれていたはずの場所は、いまや嘘みたいに静まり返っていた。
中央のソファには、顔を少し赤くして毛布にくるまるニコラス。
その隣に座るマキは、心配そうに眉を寄せていた。
「……熱、高いよ。」
手の甲を軽く額に当てて、マキが呟く。
「うん、でも平気。」
「平気じゃないでしょ!」
思わず声が少し大きくなった。
マキの声に驚いたように、ニコラスが薄く目を開ける。
「病院、行こ。ニコ、顔真っ赤だよ。」
「……行かない。」
「なんで!?」
「行ったって、どうせ“風邪です”って言われて終わりだよ。」
ニコラスの声は掠れていて、それでもどこか落ち着いているように聞こえた。
「でも、それで安心できるなら行った方がいいじゃん。放っといたら悪化するって!」
「マキ、ほんとに大丈夫。行かなくていい。」
「大丈夫大丈夫って、それもう大丈夫な人の顔じゃないよ!」
言葉の温度が少しずつ上がっていく。
周りの空気がピリッと張り詰めた。
Kが一度止めようとしたけど、
フウマが小さく首を横に振って制した。
「言わせてやれ。たぶん、マキも限界だ。」
⸻
「……マキ、心配してくれてるのは分かるけど。」
ニコラスがゆっくりと視線を上げた。
少し潤んだ目で、真っ直ぐにマキを見る。
「俺、病院ってあんまり得意じゃないんだよ。」
「……得意じゃない?」
「小さい頃、何回も通ってた。
入院もしたことあるし、あの匂いも音も、思い出すだけで気持ち悪くなる。」
淡々とした口調。
けれど、握った拳が小さく震えていた。
「だから行きたくないの。今日は……寝れば治るから。」
「……でも、それで倒れたらどうすんの?」
「倒れないよ。」
「そうやって強がるの、もうやめようよ!」
マキの声が、控え室に響いた。
ハルアとジョウが顔を上げ、
タキが不安そうに2人を見つめる。
「……マキ。」
「俺だってさ、ニコラスが無理してるの分かってた。
今日だってずっと変だったじゃん。
なのに“平気”ばっか言うから、心配するしかないでしょ!」
マキの目が潤んでいた。
ニコラスは一瞬、言葉を失う。
「……ごめん。でも、ほんとに行かなくていい。
みんなの時間、無駄にしたくないから。」
「そういうとこだよ!」
マキは声を詰まらせて、唇を噛む。
「誰も無駄だなんて思ってないのに……。
ニコラスが自分で自分を追い込んでるだけじゃん。」
⸻
数秒の沈黙。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いた。
ニコラスがそっと立ち上がる。
体を動かした途端、少しよろめいたけど、
すぐに笑って誤魔化した。
「悪い、俺……帰る。」
「帰るって、ひとりで?」
ウィジュが立ち上がろうとしたが、ニコラスは小さく手を振った。
「大丈夫。少し休めば平気だから。
みんなも今日はもう疲れたでしょ。」
毛布をたたみ、鞄を肩にかけてマスクをつける。
ふうっと息をついて微笑むけど、その目はどこか遠かった。
⸻
タクシーのドアが閉まる音が、
控え室の外の静けさに溶けていく。
窓の外の街灯が、滲んで見えた。
額を冷たいガラスに押し当てて、
心の奥で誰かの声が響く。
――ほんとは、分かってる。
マキは悪くない。
俺が、ちゃんと甘えられないだけ。
小さく笑って目を閉じた。
「……明日、ちゃんと謝ろう。」
そう呟いた声は、
車のエンジン音にかき消された。
ドアが静かに閉まったあと、
控え室には一瞬だけ何の音もしなかった。
「……行っちゃったね。」
タキの小さな声が、沈黙を破った。
ソファの上、マキは俯いたまま拳を握っていた。
指先が真っ白になるほど力が入っている。
彼の隣で、ウィジュが心配そうに様子を見守っていた。
Kは深く息を吐き、
「ちょっと、落ち着こっか。」と静かに言ってマキの肩をぽん、と叩いた。
マキは唇を噛みしめたまま、震える声で呟いた。
「……俺、言いすぎたかな。」
「言いすぎてない。」
即座に返したのはフウマだった。
「お前は、ニコラスのこと思って言っただけだろ。
優しさをぶつけただけだ。」
「でも、あの顔……。俺、怒らせた気がして。」
マキの声が震える。
視線を落としたまま、目尻が少し赤くなっていた。
「怒ってなんかないよ。」
Kが柔らかく言った。
「たぶん、自分でも分かってるんだ。
マキが心配してくれたことも、正しかったことも。」
⸻
その言葉に、マキは顔を上げた。
Kの表情はいつものように穏やかだけど、
その目の奥には小さな苛立ちが見えた。
「ほんと、あいつ……。なんで全部抱え込むかな。」
「ニコちゃんって、昔からそうだよね。」
ハルアが呟いた。
「体調悪くても“気のせい”とか言って笑うし。」
ジョウも小さく頷く。
「優しいんだよ。みんなに迷惑かけたくないって、
そればっか考えるタイプ。」
「でも、それで倒れたら意味ないじゃん。」
マキが小さく吐き捨てた。
⸻
その瞬間、Kがソファの背にもたれかかりながら小さく笑った。
「……ほんとに“優しい”って、厄介だな。」
フウマがそれに頷く。
「そうだな。でも、今回はちゃんと俺らが支えないと。
あのまま一人で帰したのは、少し心配だし。」
「行く?」とウィジュが聞くと、
Kは首を横に振った。
「たぶん、今はそっとしておいた方がいい。
少し休ませて、落ち着いたら俺が連絡する。」
その言葉に、みんなが静かに頷いた。
⸻
マキはようやく少し顔を上げた。
「……ごめんなさい、俺、ヒョンたちが止めてくれたのに。」
「謝ることないよ。」
Kが笑う。
「お前がちゃんと“本気で言ってくれる弟”だからこそ、
ニコラスもあそこまで真面目に聞いてたんだ。
本気の言い合いなんて、嫌われてたらできないよ。」
マキの頬が少し緩んだ。
「……そうかな。」
「そうだよ。」
フウマが笑って、マキの頭をぐしゃっと撫でる。
「あとでちゃんと仲直りしろよ、ゴールデンレトリバー。」
「もー……。」
そう言いながらも、マキの目尻が少し赤くなっていた。
⸻
控え室の明かりが少し落とされる。
みんなが片づけをしながら、それぞれ静かに思っていた。
“ちゃんと、ニコラスヒョンのそばにいよう。”
Kは荷物をまとめながら小さく呟く。
「……明日、顔見たら怒る前に抱きしめてやろう。」
「ヒョン、それ絶対びっくりしますよ。」
ハルアが笑うと、Kも肩をすくめた。
「いいんだよ。びっくりしても、もう離さない。」
そう言って笑ったKの声は、
どこか寂しさを含んでいた。
宿舎に着くころには、夜の空気がすっかり冷たくなっていた。
タクシーのドアを閉めると、車のランプが遠ざかっていく。
あたりは静かで、足音だけが乾いた廊下に響いた。
エレベーターの鏡に映る自分の顔が、
思った以上に赤くて、思わず苦笑いする。
「……やば。こりゃ完全に熱あるな。」
独り言を呟いても、返事はない。
ただ、静寂が体に沁みてくる。
部屋に入って明かりを点けると、
空気が少しだけ重く感じた。
鞄を床に置いて、マスクを外して、
そのままベッドに倒れ込む。
体が鉛みたいに重い。
でも、頭の中はぐるぐると回っていた。
――マキ、怒ってたな。
いや、違う。怒ってたっていうより、悲しそうだった。
目を閉じると、さっきの控え室が浮かぶ。
マキの泣きそうな顔、
Kとフウマの沈んだ目。
「……ごめんな。」
小さく呟いた声が、枕に吸い込まれて消えた。
⸻
どれくらい時間が経っただろう。
ぼんやりと熱で滲む視界の中で、
ドアのノック音が聞こえた。
「……ニコラス?」
ウィジュの声だった。
「入ってもいい?」
「うん。」
声が自分でも驚くほど掠れていた。
ドアが静かに開いて、ウィジュが部屋に入ってくる。
手には小さな保冷剤と水のペットボトル。
「フウマヒョンが、気にしてた。
たぶん熱、まだ下がってないでしょ。」
「……平気だよ。」
枕から顔を上げずに答える。
「またそれ。」
ウィジュが苦笑しながらベッドの端に腰を下ろす。
「“平気”って言葉、今日何回目?」
「……三回目、くらい?」
少し笑おうとしたけど、喉の奥がひゅっと鳴って咳が出た。
ウィジュは何も言わず、
タオルでそっと額の汗を拭いた。
「冷たいの、当てときな。」
「……ありがと。」
少し間が空いた。
ふたりの間に漂う沈黙は、不思議と心地よい。
⸻
「マキ、気にしてたよ。」
ウィジュが、ぽつりと言う。
「“言いすぎたかも”って。」
「……俺のほうこそ。」
ニコラスは天井を見つめたまま、
乾いた息を吐いた。
「マキは、優しいよ。
まっすぐで、嘘つけない。
だからこそ俺の強がりが許せなかったんだと思う。」
「うん。あいつ、そういうとこあるね。」
ウィジュが微笑む。
「でも、それがニコラスを一番心配してる証拠だよ。」
「分かってるけど……」
ニコラスは目を閉じた。
「心配されるの、まだ慣れなくてさ。」
「慣れなくていいよ。」
ウィジュの声は静かだった。
「俺たちはニコラスの兄弟なんだから。
心配させるのが当たり前。」
「……兄弟、か。」
「そう。家族。
遠慮するな。熱あるときくらい、弱くていいの。」
⸻
その言葉に、喉の奥が少し詰まった。
何か言おうとしたけど、声にならなかった。
ウィジュは立ち上がって、毛布を少し直した。
「明日、マキと仲直りな。
あいつ、ニコラスが“ありがとう”って言ったら絶対笑うよ。」
「……そうだね。」
かすれた声で答えると、ウィジュが少し笑って頷く。
「じゃあ、寝ろ。
寝ないと、ほんとに病院連れてくからな。」
「やだ、それだけは。」
「ふふ、分かってる。」
そう言ってウィジュが部屋を出ていく。
ドアが閉まる瞬間、
小さく「おやすみ」と聞こえた。
⸻
静まり返った部屋。
遠くの冷蔵庫の音と、自分の呼吸だけが響く。
ニコラスは目を閉じて、
ウィジュの言葉を何度も思い出していた。
――“心配させるのが当たり前。”
その優しい響きに、
ようやく少しだけ体の力が抜けて、
熱の中で静かに眠りに落ちていった。
カーテンのすき間から差し込む朝の光が、
白くシーツを照らしていた。
まぶしさに顔をしかめながら目を開けると、
喉がまだ少し痛い。
でも、夜よりはずいぶんと楽になっていた。
「……ん、朝か。」
ぼそっと呟いた声が部屋に響く。
枕元のスマホに目をやると、
未読のメッセージがいくつも並んでいた。
《大丈夫?》
《熱、下がった?》
《水飲んだ?》
送信者はみんなメンバー。
その中でもマキからのメッセージが一番多かった。
絵文字のついてない、真っすぐな短文ばかり。
「……心配性だなぁ。」
苦笑しながらスマホを置いた。
そのとき、コンコンとドアを叩く音。
「ニコ、起きてる?」
聞き慣れた声に顔を上げる。
「……マキ?」
「うん。入ってもいい?」
「いいよ。」
⸻
ドアが開くと、マキが半分寝ぐせのまま顔を出した。
手にはペットボトルの水と、小さな保冷剤。
「おはよう。熱、どう?
昨日より顔赤くないけど、下がった?
水分ちゃんと取った?
朝ごはん食べる?
今日のスケジュールは?行ける?」
開口一番、質問が洪水のようにあふれ出る。
ニコラスは思わず吹き出して、
枕に顔を埋めて笑った。
「ちょ、マキ……質問多いって。」
「だって気になって。」
「熱は……もうだいぶ下がったよ。
昨日ウィジュが冷やしてくれたから。」
「ほんとに?無理してない?」
「ほんと。」
笑いながら上体を起こす。
「ていうか、マキ……朝からテンション高いね。」
「心配してたんだから!」
真剣な顔で言われて、
ニコラスは少し照れくさそうに目をそらした。
⸻
マキはベッドの端に腰を下ろして、
軽く息をついた。
「昨日……ごめんなさい。」
「ううん、謝んなくていい。」
「でも、ニコラスが嫌な気持ちになったかもって思って。」
ニコラスは小さく首を振った。
「嫌どころか、嬉しかったよ。」
「え?」
「俺のこと、あんなに本気で心配してくれる人、
そうそういないから。」
その言葉にマキの表情がふっと緩んだ。
「……そっか。」
「うん。
昨日はちょっと余裕なくてごめん。
でもありがとう。ちゃんと伝えたくて。」
少しだけ頬を掻きながら笑うニコラス。
その穏やかな表情に、マキはようやく安心したように笑った。
⸻
「じゃあ、今日のスケジュールは?」
「それな。」
ニコラスが苦笑する。
「フウマヒョンに“まだ本調子じゃないなら無理すんな”って言われて、
午前は休みにしてもらった。」
「よかった……。」
マキはほっとしたように胸を撫で下ろす。
「午後からは出るけど、もう大丈夫。
これ以上心配かけたら、マキに怒られそうだし。」
「怒るよ!」
その即答に、ニコラスが声を出して笑う。
「ほら、やっぱり。」
笑い声が静かな部屋に広がって、
少し開いた窓から朝の風が入ってきた。
⸻
ふと、マキが真剣な目で言った。
「次からは“平気”じゃなくて“助けて”って言ってよ。」
ニコラスは少し間を置いて、
やわらかく笑った。
「……分かった。約束する。」
その笑顔を見て、マキはようやく安心したように立ち上がる。
「じゃあ、水冷やしとく!」
そう言って部屋を出ていくマキの背中を見送りながら、
ニコラスは小さく呟いた。
「ほんと、いい弟だな。」
その言葉は、
穏やかな朝の光に包まれて消えていった。











編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。