第110話

MAKI 子犬のままで
1,060
2025/11/16 15:02 更新






朝、まだ空気がひんやりしている時間にマキはリビングへ飛び出した。
「おはようございますっ!」
元気いっぱいの声を張るけれど、喉の奥が少しひりつく。夜中に咳が止まらなくて眠れなかったから、体は鉛みたいに重い。

テーブルに座ってコーヒーを飲んでいたFUMAが、目を細めてこちらを見た。
「マキ、朝から声デカいな」

「えへへ、元気っすよ!」
にかっと笑いながら、パンを一枚手に取る。けれど胃は受けつけず、ちぎって口に運ぶだけ。

「おいしい、これ!」
わざと明るく言う。

その横でYUMAが、猫みたいに冷ややかな目を向けてきた。
「でも全然食べてないよな?半分くらい残ってる」

「いや、もう時間やばいかなって思って!」
慌てて言い訳してパンを皿に戻す。

ゴールデンレトリバーの子犬が「平気平気!」と尻尾を振って見せるけど、実は足を怪我している…そんな姿に似ていた。

FUMAは黙って見ていたけれど、その視線の長さがいつもより少し長い気がして、マキは落ち着かなかった。



スタジオに入ると、気持ちを切り替えるように声を張った。
「お願いしますっ!」

音楽がかかると、全力で動く。
笑顔で飛び跳ねる姿はまさに子犬そのもの。

けれど、息が上がるのが早い。
胸が重くて、思わず咳が漏れる。

「マキ、大丈夫?」
すぐ近くでFUMAの声がした。

「大丈夫っ!余裕ですよ!」
笑って親指を立てる。

その笑顔の裏で、足は少しもつれていた。
――子犬の無邪気さに隠された、小さなSOS。



夜。宿舎のベッドに潜り込み、毛布をぎゅっと握った。
「大丈夫、大丈夫…俺、まだまだやれるっ」

声にしてみるけれど、不安で胸が苦しい。

本当は「大丈夫?」って誰かに頭を撫でてもらいたい。
でも、デビューしたばかりの自分が弱音を吐いたら…そう思うと我慢してしまう。

ただ、毛布をくわえそうな勢いで抱きしめて眠れぬ夜を過ごした。















朝からどこか変だった。
テーブルの向かいでパンをかじっていたマキは、やけに大げさな笑顔を浮かべて「おいしいっすよ!」って言っていたけど、半分以上残していた。
普段なら「俺、まだ食べていいっ?」って手を伸ばしてくるのに。

――食欲ないのか?

そう思ったけど、マキはすぐに立ち上がって「行きましょっす!」と尻尾を振る子犬みたいに玄関へ走っていった。
「ほら早く!遅刻しちゃいますよ!」
まるで自分が兄貴分みたいにせかすその背中に、FUMAは小さくため息をついた。



練習室。
音楽が鳴り始めると、マキは全力で踊る。
誰よりも大きな動きで、誰よりも楽しそうな笑顔を浮かべて。
――あぁ、やっぱりマキは子犬だな、と自然に思う。

けれど、曲が半分も進まないうちに肩で息をしていた。
背中が少し丸まって、顔が赤い。
一瞬、咳が漏れた。

「マキ、大丈夫?」
曲が終わるや否や声をかけると、マキはぱっと笑顔をつくった。

「大丈夫っ!全然余裕ですよ!」
親指を立てる。

その仕草があまりにも「俺は平気!」と訴えていて、逆に不安になる。
余裕があるときの笑顔じゃない。
無理に作った、張りぼてみたいな笑顔だった。



夜、宿舎のリビングに出ていくと、ソファの端にちょこんと座るマキが目に入った。
スマホをいじってるふりをしていたけど、指が止まっている。
「マキ」
声をかけると、ぱっと顔を上げて「なんすか?」とまた笑う。

笑ってる。
でも、目の奥はまったく笑っていなかった。

「お前さ、ちゃんと寝ろよ」
「寝てますって!」
軽い調子で返すけど、声が少し掠れていた。

FUMAはそれ以上追及しなかった。
追い詰めすぎると、この子はきっとさらに「大丈夫」って殻にこもってしまう。
だから、ソファの隣に静かに腰を下ろすだけにした。

数分後。
「…ふうまくん」
不意に名前を呼ばれて横を見ると、マキはスマホを握ったまま舟を漕いでいた。
子犬が電池切れを起こしたみたいに、すぐに寝落ちしてしまったのだ。

FUMAはその頭が横に傾いた瞬間、さりげなく自分の肩に受け止めた。
「まったく…」
小さく呟く。

本当に、心配させる天才だ。
この無防備さと人懐っこさに、こっちが振り回されてばかりだ。


その夜、マキの寝顔を見ながらFUMAは決めた。
――こいつが「大丈夫」って言っても、ちゃんと見抜ける兄でいなきゃな。















真夜中。
静まり返った宿舎の中で、天井をじっと見つめていた。

――眠れない。

目を閉じても、身体が重たいのに頭が冴えてしまって、呼吸は浅く、咳がこみ上げてくる。
「…っ、けほっ」
毛布に顔をうずめて音を消そうとするけど、胸の奥がずっとざわざわしていた。

練習で無理したせいかな。
でも、それくらいで寝れなくなるわけないし。
「大丈夫」って、ふうまくんにも言ったばっかりだ。
ここで弱音を吐いたら、心配かけて嘘ついたことになる。

それが何より嫌だった。



枕元には食べきれなかった夕飯のタッパーがそのまま置いてある。
いつもなら兄たちより先におかわりして、最後まで皿を綺麗にして笑われるのに。
今日はひと口ふた口で箸を置いた。
「マキ、調子悪い?」って聞かれたけど、すぐに「大丈夫っ!」って笑った。

…ほんとは、笑うのもしんどかった。



布団の中でごろりと寝返りを打つ。
窓の外には街灯の明かり。
カーテンの隙間から入る淡い光に照らされながら、無意識にスマホを握りしめていた。
SNSを開きかけて、すぐに消す。
もし何か書かれていたら、今の心には耐えられない。

「…っすぅ…」
喉の奥で苦しく息を吸う。
胸が締め付けられるみたいに痛くて、布団を抱きしめた。



助けを求めたい。
ふうまくんのところに行って「しんどいです」って言えば、きっと何も言わずに頭を撫でてくれるのはわかってる。
でも、そうしたらきっと練習のことや体調のこと、もっと見張られる。
それが子ども扱いされてるみたいで、なんとなく嫌で。

「俺…もう子どもじゃないのに…」
そう呟いたら、胸がまた痛んだ。

どんどん弱くなっていくみたいで、余計に眠れなくなる。
目の奥が熱くなって、気づいたら涙がつーっと流れていた。



夜明け前。
ふっと意識が途切れるように眠りに落ちた時には、もう身体が熱を帯びていた。
ぼんやりとした夢の中で、誰かの温かい手が頭を撫でている気がして――
マキは小さな声で、寝言みたいにこぼした。

「ふうまくん……」















リビングに最初に現れたのはYUMAだった。
寝癖をつけたまま冷蔵庫を開けて、無造作に水を取り出して飲む。
まだ静かな朝。
そこに小さな声が重なる。

「……おはようございます」

振り返ると、マキがふらりと立っていた。



YUMAは眉をひそめた。
マキの頬は妙に赤く、目は腫れぼったい。
「おはよう」とは言わなかった。
代わりに、黙ってマキの方に近づいていく。

マキは冷蔵庫から水を取ろうとするが、手元が震えてキャップをうまく開けられない。
その様子を見て、YUMAはため息をひとつ。
何も言わずにペットボトルを取り上げ、キャップを軽く回して戻す。

「……あ、ありがとうございます」

気まずそうに受け取って、一口飲むマキ。
けれど飲み終えた瞬間、ふっと身体が揺れた。
YUMAは無言のまま腕を伸ばして支える。

マキは慌てて笑顔を作った。
「だ、大丈夫だから」

その声が、逆に弱々しかった。



少しして、ふうまがリビングにやってきた。
「おはよー……ん? マキ?」

マキの様子にすぐ気づき、表情が変わる。

「お前、顔色悪いじゃん。どうした?」

「なんでもないですよ! 元気!」
無理に笑いながら、敬語で答えるマキ。

ふうまは一歩近づいて、その頭を軽くポンと撫でた。
「元気そうに見えないんだけどな」

「……ほんとに、大丈夫だもん」

笑おうとするけれど、目は潤んでいる。
子犬が尻尾を振りながら必死に耐えているように見えた。



ふうまは隣に腰を下ろし、静かな声で言った。
「無理しなくてもいいよ。俺の前だったら、甘えていい」

その瞬間、マキの頬がゆるむ。
敬語のまま、小さな声で「……ありがとうございます、ふうまくん」と返した。
けれど次の瞬間には、ふうまの肩に頭を預けていた。

「大丈夫って言ってたのに、もう甘えてんじゃん」
からかうように笑うふうま。

「……だって、ふうまくんの前だと……安心するから」

その一言に、ふうまは目を細めて頭を優しく撫でた。
その様子を、YUMAは黙って見守っていた。
言葉をかけることはない。
けれどその沈黙自体が、弟を支える彼なりのやさしさだった。













朝のリビング。
湯気が立つようにほんのり頬を赤くしたマキが、リュックを抱えて立っていた。

「ふうまくん……今日、レッスン行きます」

声は小さいが、言葉だけはしっかりしている。
けれどその姿は、まるで熱でホカホカになった子犬が無理やり散歩に出ようとしているみたいだった。



「は? お前、その顔で?」
ふうまは眉をひそめて、マキに近づいた。
額に手を当てれば、熱が掌にすぐ伝わってくる。

「……うわ。やっぱ高いじゃん」

「だ、大丈夫! 汗かいたら下がると思うんで……!」
必死に笑って見せるマキ。

その様子に、ふうまは思わず苦笑した。
「子犬かよ、お前。熱でホカホカになってんのに、尻尾振って外行こうとしてる」

マキは拗ねたように視線を落とした。
「……だって、休んだら迷惑かけるし……。俺、がんばらなきゃって……」



ふうまはリュックを取り上げ、ソファに置いた。
そしてマキの肩をつかみ、自分の方へ軽く引き寄せる。

「なぁ。お前さ、がんばるのはいいけど……倒れたらもっと迷惑かけんだぞ」

「……でも」

「でもじゃない」
ふうまは少し強めに言った。けれどその声には優しさがにじんでいた。

「俺の前じゃ、大丈夫なフリしなくていいんだよ。わかった?」



その言葉に、マキの表情がふっと崩れた。
「……ふうまくん……」

次の瞬間、マキは肩に頭をこつんと預けてきた。
まるでホカホカの子犬が甘えるように。

「ほんとは……体、しんどい」

「知ってるよ。見りゃわかる」
ふうまは笑いながら、その頭を撫でた。

子犬みたいに熱で火照った髪の毛が、掌に柔らかくまとわりつく。
マキは安心したのか、小さく鼻をすする音を漏らした。



「……ふうまくんがいると……なんか、安心する」

その声は、眠気と熱に溶けたようにあたたかかった。
ふうまは胸の奥がじんと熱くなるのを感じながら、もう一度撫でた。

「じゃあ今日は休みな。お前が安心できる場所、俺が作ってやるから」

マキは小さく「……はい」と返して、肩に寄りかかったまま目を閉じた。
ふうまの腕の中で、ホカホカの子犬はようやく静かに眠り始めた。
















玄関に並ぶ靴。
出かける準備を整えたふうまが、最後にこちらを振り返った。

「マキ。今日は絶対、家から出んなよ」

「……でも、俺も行けるよ」
マキはソファに座りながら、まだ言い張る。
熱で少しぼんやりした声は、強がりを装っているけれど弱々しい。

ふうまはしゃがんで目線を合わせ、額に手を伸ばした。
「ほら、やっぱ熱あるだろ。仕事は俺らに任せとけ」

「……でも、みんなと一緒がいい」

「熱出してるお前を無理やり連れ出す方が心配だっつの」
そう言って、ふうまは笑った。



その笑顔に反論できず、マキは唇を噛む。
「……俺、ほんとに大丈夫なのに」

「大丈夫なのは、俺が帰ってきた時に元気な顔見せること」
ふうまはそう言って、マキの頭を撫でた。
掌に触れるマキの髪はまだ熱でホカホカしている。

「だから今日は、ちゃんと留守番してろ。な?」

「……はい」
小さな声で答えると、ふうまは少し安心したようにうなずき、靴を履いた。



玄関のドアが閉まる音。
リビングに静けさが戻ると、マキはソファに丸くなった。
体はだるいのに、どこか寂しさの方が勝って胸がきゅっとなる。

「ふうまくん……はやく帰ってこないかな」

小さくつぶやいた声は誰にも届かない。
毛布をぎゅっと握りしめる姿は、まるでお留守番を言い渡された子犬そのものだった。



マキはそのまま、ふうまが置いていってくれた水のペットボトルを見つめながら、ゆっくり毛布に潜り込んだ。
安心と寂しさが入り混じったまま、熱に浮かされた体を横たえる。

「……お留守番、がんばるよ」

その声はかすかに震えていたが、頬にはふうまが撫でてくれた温もりがまだ残っていた。
子犬のようなマキは、少し鼻をすすりながら、静かに目を閉じた。














夜、玄関のドアが静かに開いた。
「ただいまー」
ふうまの声が宿舎に響く。

その瞬間、ソファで毛布にくるまっていたマキの耳がぴくんと動いた。
半日以上ぶりに聞く大好きなお兄ちゃんの声。
次の瞬間、ふらつきながらも立ち上がり、玄関に小走りで駆け寄った。

「ふ、ふうまくん……!」

まだ熱で顔は赤いのに、まるで子犬が尻尾を振るみたいに嬉しさ全開で飛びついてくる。
だが、抱きついた瞬間に力が抜け、ずるずるとふうまの胸に凭れかかった。

「おいおい……走んなって言っただろ」
ふうまは笑いながらも、その体の熱さにぎゅっと眉を寄せた。



「熱、下がってねぇじゃんか」
額に手を当てると、やっぱりまだ38度近い。

「……待ってたもん。ずっと」
マキは熱に滲んだ声でぽつりと言う。

「だから、帰ってきたらすぐ会いたくて」

その素直な言葉にふうまはため息をつき、だけど優しく頭を撫でる。
「……ほんと、子犬かよ。仕方ねぇな」



「ほら、もうソファ戻ろ。歩ける?」
「ん……一緒なら」

情けなく笑いながらそう答えるマキを支え、ふうまはリビングに戻った。
毛布を掛け直し、水を取って手渡すと、マキは子犬のように素直に受け取り、こくりと少しだけ飲む。

「ふうまくん……明日も仕事?」
「うん。でも、お前はまだ休み。」

「……でも行きたいな」
「ダメ。今のお前じゃ、またすぐへたばる」

言葉はきっぱりしてるのに、ふうまの手は優しくマキの髪を撫で続けていた。



「……お留守番、ちゃんとできた?」
ふうまが聞くと、マキは小さくうなずいて毛布に潜り込む。

「はい。……でも、さみしかった」

その一言で、ふうまの胸の奥がじんと温かくなる。
「じゃあ今日は、そばにいてやるよ」

照れ隠しみたいにそう言って、ふうまも隣に腰を下ろした。
毛布から覗いたマキの目は、安心した子犬のように細くなっていて、やがて眠気に落ちていった。














リビングの灯りが静かに揺れる夜。
玄関のドアが開く音がして、YUMAが帰宅した。

「ただいま」
小さな声で言うが、返事はなく、部屋には規則正しい寝息だけが響いている。

ソファに目をやると、毛布に包まれて眠っているマキの姿があった。
その横でFUMAが腰を下ろし、スマホをいじりながらもときどき弟を覗き込んでいる。



「……マキ、もう寝ちゃったんですか?」
YUMAが声を落として尋ねると、FUMAは頷いた。

「俺が帰ったときは元気そうに話してたけど、すぐ電池切れたみたいだな」

近づいたYUMAは、マキの頬の赤みと、熱のせいで浅い呼吸をしている様子に気づいて眉を寄せる。
「……無理してたんですね。マキらしい」

そう言いながら、そっと手を伸ばし、マキの髪を撫でた。



ふわりと触れると、マキが寝ぼけたように眉を動かす。
「ん……ふうまくん……?」
掠れた声に、YUMAは苦笑をこぼす。

「俺だよ。ふうまくんじゃない」
「……ゆうま、くん……?」
「そう。……お留守番、よく頑張ったな」

返事はなく、マキは安心したようにまた眠りへ戻っていった。



「ゆうま、お前……ツンツンしてるのに結局甘やかすよな」
FUMAが小さく笑う。

「……放っておけないだけです」
短く返しながらも、YUMAの手は止まらない。髪を梳くように撫でるその仕草は、まるで猫が寄り添うようで柔らかかった。



ソファには、熱に浮かされながら眠る子犬と、
その隣で静かに見守る二人の兄。

リビングは不思議な安心感に包まれていた。














翌朝。
マキの額に触れたFUMAの手が、少しだけ止まった。

「……37.8℃。微熱っていうか、まだしっかり熱あるな」

「でも、行けますよ」
マキは笑顔を作りながら、勢いよく布団から身を起こした。
髪は寝癖だらけ、顔色もまだ白い。けれど本人はやる気満々で、着替えに手を伸ばす。

「マキ、数字見ろよ。微熱って言える数字じゃない」
FUMAが低めの声で言うと、マキは少しだけ口を尖らせる。

「……でも、休めないじゃないですか。僕、大丈夫ですって」

そのやりとりを黙って聞いていたYUMAも目を細めた。
「……“大丈夫”って何回言った?体調悪い人の口癖やで」

言葉は冷静だが、表情は明らかに心配そう。



結局、強引に止められることなく、マキは一緒にスケジュールへ向かうことになった。
移動の車の中でも「眠くないです」「元気です」なんて言いながら背筋を伸ばすが、降りるころには目はとろんと重たくなっている。

撮影が始まっても、シャッターの合間に額に浮かぶ汗は熱のせいだとすぐに分かった。
声もかすれて、立ち位置に戻る足取りはどこか重たい。



集合撮影が終わるころには、マキの熱はさらに上がっていた。
控え室のソファにぐったりともたれかかり、ペットボトルを持つ手さえ震えている。

「……やっぱり無理だったな」
FUMAが小さく息を吐く。
「ほら言っただろ。行けるとか言わずに休んでればよかったのに」

返事をする気力もないのか、マキはただFUMAの袖を握った。
「ふうまくん……」
弱々しく名前を呼ぶ声に、兄の心は一瞬でほどける。

「……ったく。しょうがねぇな」



午前の撮影が終わり控え室に戻ると、みんな一斉に弁当を開けはじめた。
けれどマキは、弁当のふたを開けただけで箸を進めない。

「食べないの?」
FUMAが声をかけても、「ちょっとお腹減ってないだけです」と苦笑い。
無理して笑っているのは誰が見てもわかった。

やがて弁当を片づけると、マキはそのままソファに体を横たえる。
目を閉じた瞬間から、もう夢の中へ吸い込まれていくように寝息を立て始めた。



「……顔色悪いな」
控えめに言ったのはKだった。腕を組んだままマキを見下ろし、眉を寄せる。

「昨日から声もちょっと低いし」
YUMAも小さくつぶやき、ペットボトルの水をそっとマキの手元に置いた。

HARUAはチラチラと視線を送っていたが、声はかけられない。
「機嫌悪いんじゃなくて、体調悪いんだよね……」と小声で呟く。

メンバーみんながなんとなく心配しているのに、直接口に出すのは少しだけためらっていた。



やがて時間が来て、着替えや準備を始める。
マキも半分寝たまま体を起こすが、視線はぼんやりと宙をさまよっている。

「マキ」
FUMAが横にしゃがみ込み、手を差し伸べた。
「行くぞ」

その手を見つけた瞬間、マキの表情が少しだけ緩んだ。
「ふうまくん……」と掠れた声で名前を呼ぶと、自然にFUMAの袖を掴む。

「……子犬かお前は」
呆れたように言いながらも、FUMAの声はどこか優しい。



その後も、休憩のたびにマキはFUMAの隣を離れなかった。
ソファに座れば当然のように横に滑り込み、肩に頭を預ける。
立ち上がれば、数歩遅れて後ろをちょこちょこと追いかける。

「ったく……俺の影かよ」
そう言いながらも、FUMAは振り払うことはしない。

その様子を見ていたYUMAは、腕を組んでため息をついた。
「……結局、甘えん坊モードですね」
言葉は淡々としているが、差し出す毛布の動きはさりげなく優しい。



マキの頬はまだ熱に赤く、額には汗がにじんでいた。
それでもFUMAの袖を離さない横顔は、安心に満ちていて——
まるで、まだ大きくなりきれていない子犬のようだった。













その日のスケジュールは朝から夜までびっしりだった。
歌って、踊って、また撮影して——そんな一日を終えた頃、マキの体は限界に近づいていた。

楽屋に戻ると、すぐに衣装を脱ぎ着替えだけを済ませてソファに倒れ込む。
その額は真っ赤に火照り、熱を測るまでもなく高熱だとわかる。

「マキ、大丈夫か?」
誰かが声をかけると、かすかに目を開け「はい……」と答える。

けれど時間が経つにつれて、その返事すら途切れていった。
「マキ、飲み物は?」「少し横になれ」
声をかけても、ただ目を閉じたまま、小さく息をするだけ。



迎えの車が来たときには、すっかり寝息を立ててしまっていた。
メンバーが顔を見合わせていると、FUMAが「仕方ないな」と小さく息をついた。

「おい、重いぞ……」
苦笑いを浮かべながら、ソファに横たわるマキをそっと背中に担ぎ上げる。

身長も体格もだんだんと大きくなってきたマキ。
それなのに、ぐったりと熱で力を失い、首をFUMAの肩に預けて眠る姿は——
まるで子どものようだった。

「……ほんと、お前は」
重みを感じながらも、FUMAの声には温かさが滲む。



車に揺られても、マキは目を覚まさなかった。
赤く染まった頬、額ににじむ汗、荒い寝息。
そのすべてが「無理をして今日を乗り切った」証のようで、FUMAの胸を締めつける。

けれど同時に。
大きくなりつつあるマンネが、こうして安心しきった顔で眠っていることが、たまらなく愛おしかった。

「……やっぱり、子犬だな」
誰にも聞こえないほどの声で、FUMAは呟いた。

腕の中で眠る重たい存在が、愛しくて仕方なかった。













夜の街を抜け、ようやく宿舎へと帰り着いた。
エレベーターの中でも、マキは一度も目を覚まさなかった。
背中に預けられた体は、重たくて、熱くて、でもそのぶんだけ「守らなきゃ」という思いを強くさせた。

「よし、着いたぞ」
FUMAはそっと部屋のベッドにマキを寝かせる。
熱に浮かされているのか、マキは小さく呻きながら額に汗を滲ませていた。

「……やっぱ高いな、熱」
YUMAがそばに来て、心配そうに覗き込む。
普段ならからかったりツンとしたりするYUMAも、今は眉を寄せてただ弟を見守っている。

FUMAはタオルで汗を拭き取り、冷えピタを新しく貼り直した。
その動作ひとつひとつに、優しさが滲み出ていた。

「……ふうまくん……」
夢の中で誰かを探すように、マキが寝言を漏らす。
その声にFUMAの手がぴたりと止まった。

「……ったく、俺の名前呼ぶなよ。余計に心配になるじゃんか」
小さく呟きながらも、FUMAの口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。



「なあ、ふうまくん」
ベッドの端に腰を下ろしたYUMAが、声を潜めて言う。
「マキ、ほんとに無理してたんやね」

「……うん。頑張り屋さんだからね」
FUMAは短く答え、マキの髪を指先で整える。
「でも、無理しすぎるとこうやってすぐ体に出る。まだ子どもなんやな、結局」

その言葉にYUMAは小さく笑った。
「子犬だな。……でっかいけど」

二人の視線の先で、マキは小さな寝息を立てている。
重たいはずの存在が、こうして布団の中で静かに眠っていると、まるで何よりも守りたい小さな存在に見えてしまう。



「大丈夫、明日には少しは下がる」
FUMAはそう言って、そっとマキの額に手を当てた。
温かいままのその体温に、胸がぎゅっと痛む。

「でもさ……」
YUMAがぽつりと呟いた。
「マキ、ほんとは甘えたかったんじゃない?俺たちに」

FUMAは一瞬だけ黙り込んだ。
そして視線を落とす。
「……甘えさせてやれなかった俺たちの責任だな」



静かな部屋に、マキの寝息と二人の小さな声だけが響いていた。
布団の中の子犬のような弟は、まだ熱に浮かされて眠り続けている。

でも、FUMAとYUMAの視線と温もりがそこにある限り。
その夜は、少なくとも孤独ではなかった。













カーテンの隙間から差し込む朝の光が、少し蒸し暑い部屋を照らす。
目覚ましも鳴っていないのに、FUMAはいつも通りの時間に目を覚ました。

「……はぁ」
深く息を吐いて隣のベッドに視線を移す。
布団の中には、まだぐっすりと眠るマキの姿。
昨日よりも顔色はよく見えるが、汗をかいた額はまだ赤みを帯びている。



リビングから戻ってきたYUMAが、静かに声を落として話しかける。
「おかゆ作っときました。ちょっと冷ましてから持ってくる」

「ありがと」
FUMAは短く返事し、再びマキを見下ろした。

そのとき、小さく布団が動く。
「……ふうまくん……?」
まだ眠たげな声で名前を呼ばれ、FUMAの胸が少しだけきゅっとなる。

「お、起きたか。大丈夫か?」
布団をめくると、トロンとした目のマキがこちらを見上げていた。



「……熱、ある……?」
「まだちょっとあるけど、昨日よりはマシそうだな」
FUMAは手を額に当てる。
少し熱いけれど、昨夜のような心配はなさそうだった。

「昨日……迷惑かけてすみません……」
か細い声でそう言うマキに、FUMAはわざと肩をすくめる。

「謝るなよ。……むしろもっと甘えとけ」

その言葉にマキは目を瞬かせた。
けれどすぐに、布団から手を伸ばしてFUMAの腕にぎゅっとしがみつく。
大きくなったはずの体が、この瞬間はまるで子犬のように小さく感じられた。



「お、起きた?」
お盆を持って戻ってきたYUMAが、少し驚いた顔で二人を見た。
「なんやその顔、めっちゃ子どもやん」

「……子どもじゃないです……」
布団の中から小さく反論するマキ。
でも、腕を放す気配はない。

YUMAは苦笑しながらテーブルにおかゆを置くと、マキの頭をくしゃっと撫でた。
「無理して強がるより、今はそれでええねん」



ふたりのお兄ちゃんに囲まれて、ようやくマキは安心したように目を細める。
熱はまだ残っている。
でも、布団の中の空気はどこか温かく、優しいものに変わっていた。

子犬みたいに甘えても、受け止めてくれる人がいる。
その安心感の中で、マキはゆっくりと朝を迎えていった。







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