前の話
一覧へ
次の話

第122話

NICHOLAS 雀色時
573
2026/08/16 13:41 更新













WeverseのDMは、俺にとってファンと一番素直な言葉でつながれる場所だった。
楽屋の待ち時間や、練習が終わって宿舎のベッドに転がり込んだ夜。かしこまった公式の文章じゃなく、友達にメッセージを送るような距離感で、その日思ったことを気ままに打ち込む。

その日も、なんてことない雑談のつもりだった。
最近の衣装や新しいヘアスタイルについて、ファンから届くさまざまな意見。中には「前の方がよかった」「この服は似合わない」といった直接的な言葉もあった。

ファッションは、俺の生き方そのものだ。

誰かに決められた型にハマるんじゃなく、自分が「かっこいい」と信じたものを身に纏う。それが俺のスタイルだし、アイドルとしても譲れないアイデンティティだった。

だから、一番自分の気持ちを正確に表現できる母国語で、軽い気持ちで文章を打ち込んだ。


我知道大家給了我很多建議, みんながたくさんアドバイスをくれるのは分かってるよ。
但我自己的衣服和髮型還是想自己決定, でも、自分の服や髪型はやっぱり自分で決めたいんだ。
就讓我自由地做吧自由にやらせてね


語尾に柔らかいニュアンスを込め、親しみを込めた「自分らしさ」の主張。
「これが俺のこだわりだから、楽しんで見守っててね」という、いつもの自分らしい意思表示のつもりだった。
送信ボタンを押して、画面を伏せる。その時は、何も間違っているなんて思っていなかった。


——けれど、その優しさを込めた母国語は、自動翻訳ツールというフィルターを通した瞬間に、まったく違う冷酷な刃へと化けていた。






「……ニコラス、ちょっといい?」
翌日の現場で、マネージャーに楽屋の隅へ呼び出された。差し出されたスマホの画面には、SNS上で日本語や英語に翻訳され、切り取られて拡散された俺のDMのスクリーンショットが映っていた。

『&TEAMニコラス、Weverse DMで「アドバイスは不要。全部自分で決めるから口を出すな」とファンを牽制?』
『ファンの意見を一蹴。アイドルとしてのプロ意識は?』
『せっかくアドバイスしてくれたファンに対して冷たすぎる』



「……え?」



思わず声が出た。

自動翻訳によって前後の柔らかい文脈が削ぎ落とされ、「アドバイスはいらない」「勝手にやる」という上から目線の乱暴な日本語に置き換えられて拡散されていたのだ。
服が好きだから。自分を表現したいから送った言葉なのに、「ファンにも意見を言う権利はあるだろ」「ファンの声なんてどうでもいいと思っているのか」と曲解され、火の粉が急速に広がっていた。

「一応、会社の方でも対応は考えるから。ニコラスはあんまりネット見ないようにね」
「……あ、はい。……すみません」

最初は、本当にすぐ収まると思っていた。
今までだって、ネット上のちょっとした誤訳や噂なんて、数日も経てば波が引くように消えていったから。本当のファンなら、俺の意図やいつもの言葉遣いを理解してくれているはずだ。

(……大丈夫。いつものことだ)

自分にそう言い聞かせて、スマホをポケットの奥に押し込んだ。
楽屋に戻ると、ウィジュが心配そうにこちらを見つめていた。


「……ニコラス、大丈夫……?」
「ん? なに? 全然だいじょうぶ。俺、こういうの気にしないから」
いつものように笑ってみせた。
ウィジュは「……そっか。なら、良かった」とほっとしたように胸を撫で下ろした。




……だが、今回の火は、いつもと違っていた。
1日経ち、3日経ち、1週間が過ぎても、タイムラインの燻ぶりは消えなかった。
それどころか、アンチのまとめ動画やSNSの拡散によって、炎上はどんどん一人歩きしていく。俺が何か新しい写真を投稿するたびに、「また翻訳で言い訳ですか?」「ファンのアドバイスを無視したスタイル(笑)」と、嫌味なコメントがぶら下がった。

(なんで……?)

頭の中で、問いがぐるぐると渦を巻き始める。

(俺、そんなに悪いこと言った……?)

母国語で送った自分の言葉が、翻訳という機械的な処理によって悪意の塊に書き換えられていく恐怖。
『意図はどうであれ、ファンを嫌な気持ちにさせたのは事実でしょ』『言い訳しないで謝れば?』という、善意を装った批判の言葉が、脳裏に鋭く刺さる。


(……俺の中国語が、分かりにくかったのかな)
(もっと違う言い方をすればよかった……? でも、これが俺だし。嘘ついて『みんなの言う通りにします』って言えばよかったの?)


答えの出ない思考が、脳内で何度も何度もループする。
母国語の中国語、翻訳された不自然な日本語、そして英語が、頭の中で激しく乱反射してごちゃごちゃになっていく。


(我真的錯了嗎?……Is it my fault?……俺、間違ってたのかな)


練習中、鏡に映る自分の衣装や髪型を見るたびに、胸の奥がぎゅっと冷たく絞めつけられるようになった。
大好きだったはずのファッションが、自分を表現するための言葉が、急に自分を傷つける恐ろしい「刃」に思えてくる。

(みんな、俺の服を見て……あいつファンを無視してるやつだ、って思ってんのかな)

最初は気にしていなかったはずの「ノイズ」が、少しずつ、確実に俺の思考を侵食し始めていた。











最初におかしくなったのは、お腹の減り具合だった。
いつもなら、激しいダンス練習が終わった瞬間から猛烈な空腹に襲われていた。楽屋に戻ると真っ先にお弁当の包みを解き、「今日のごはん何ー?」とメンバーと笑い合いながら、大盛りの白米を胃の中に放り込んでいたはずだった。
なのに、まったく箸が伸びない。

「ニコラス、ご飯食べないの? 今日ハンバーグだよ」

タキが嬉しそうに自分のお弁当を掲げて話しかけてくると、ニコラスは必死で口角を持ち上げた。

「ん〜、なんか今日はお腹すいてない。後で食べる」

そう言って自分の席に戻っていくタキの背中を見送りながら、ニコラスは膝の上に置かれたお弁当のプラスチック容器をただじっと見つめていた。フタを開けると広がるタレの匂いですら、今の彼には鼻につく嫌な異臭に感じられる。

一口口に運ぶと胃の奥がキュッと引き攣り、砂を噛んでいるような感覚に襲われる。二口ほど無理やり飲み込んで、静かにフタを閉めた。


そんな日が、2日、3日と続いた。
変化は、すぐに「見た目」となって表れ始めた。
ニコラスの趣味であり、日課でもあった毎日の筋トレ。空き時間さえあれば楽屋の隅で腕立て伏せをしたり、ダンベルを上げたりしていたはずの彼が、器具に一切触れなくなった。
代わりに増えたのは、ソファの端で丸くなり、ただじっと画面の暗いスマホを見つめている時間だった。
何を見るでもない。ただ、指先で画面をスワイプし、また伏せる。
頭の中は相変わらず、多言語の悪意のノイズで埋め尽くされていた。
エネルギーが脳にばかり吸い取られていき、身体を動かす意欲すら、底の抜けたバケツのようにどこかへ消えてしまっていた。



「……ニコラス、また衣装詰めるね。最近ちょっと痩せた?」

衣装合わせの時、スタイリストがメジャーを当てながら首をかしげた。
鏡の中に立っている自分を見て、ニコラス自身もハッとする。
胸板の厚みが削げ、腕の筋肉のラインが明らかに細くなっていた。骨張った肩、刺さりそうに尖った顎線。頬の肉が落ちたことで、目の下の暗い影がより一層目立っている。
「鍛えて引き締まった」のとは違う。明らかに身体の中から「何か」が抜け落ちて、萎んでいくような削られ方だった。




会話も、激減した。
「ニコラス、さっきの振り付けの確認いい?」
「……うん。いいよ」
「ニコラス、喉渇いた? お茶飲む?」
「……ううん。大丈夫」
声をかけられれば、ちゃんと答える。怒っているわけでも、無視をしているわけでもない。ただ、返ってくる声のトーンが酷く低く、静かだった。必要最小限の言葉しか発さず、答え終わるとまた静かに自分の殻の中へと潜ってしまう。




そして何より恐ろしかったのは、自分の「笑顔」だった。
音楽番組の生放送、カメラの赤いランプが点灯した瞬間。
プロとしてのスイッチが、カチッと音を立てて切り替わる。
練習してきた通りの、完璧なアイドルの笑顔。目を細め、口角を上げ、ファンに向けて手を振る。長年の訓練で身体に染みついた「アイドルとしての演技」は、心が死んでいても完璧にこなせた。


——けれど。
「はい、カット! お疲れ様でしたー!」
スタッフの声が響き、カメラのランプが消えた、その0.1秒後。
ふっと、ニコラスの顔からすべての感情が滑り落ちる。
張り付いていた笑顔が嘘みたいに消え去り、泥のように重い無表情に戻る。楽屋へと続く廊下を、俯いたまま無言で歩く。
カメラの前で嘘をついている自分への吐き気と、笑うことすら作業になってしまっている恐怖が、彼の胸を強く締め付けた。


そんなニコラスの変化に、メンバーたちが気づかないはずがなかった。
最初は「カムバの準備で疲れてるんだろう」「集中してるんだな」と思おうとしていた8人だった。
けれど、日に日に薄くなっていくニコラスの体躯。楽屋の隅で筋トレもせず、ぼーっとスマホを見つめ続ける姿。そして、カメラが切れた瞬間に絶望的なまでに消えてしまう笑顔。

宿舎のリビングの空気は、日を追うごとに異様な重みを増していった。
「……ニコラス、お風呂入らないの?」
Kが、いつもの強気なトーンを少し抑えた、慎重な声で話しかける。
「……あ、うん。ヒョン先に入って」
「……そっか。無理すんなよ」
それ以上、Kは何も言わなかった。



肉体の限界をさらに加速させたのは、崩壊していった「睡眠」だった。


夜、疲れ果ててベッドに入り、どれだけ目を閉じても脳の奥が嫌な熱を持って冴え渡ってしまう。必死の思いでようやく浅い眠りに落ちても、ほんの二、三時間でハッと目が覚めてしまうのだ。

一度目が覚めると、暗闇の中でまたあの悪意の言葉たちが頭を駆け巡る。そこから再び眠れたとしても、一時間おきに細切れに意識が途切れるだけの浅い睡眠。朝を迎える頃には、寝る前よりも全身が重く、泥のような疲労感だけが残っていた。


夜にまともに休めない身体は、悲鳴を上げていた。
そのしわ寄せが一番色濃く表れたのが、仕事の移動中だった。
移動のロケバスや車に乗り込み、シートに深々と身体を沈めた瞬間、気絶するように意識がブツンと切れてしまう。

「……ニコラス? 着いたよ」
「……っ!?」

車が目的地に到着し、隣に座るメンバーに肩を叩かれてハッと跳ね起きる。
口の中はカラカラに乾き、寝起きの頭は激しい頭痛と目眩に襲われていた。
これまでは、移動中の車内こそがメンバー同士で他愛もないお喋りを楽しんだり、くだらないゲームで盛り上がったりする大切な時間だった。

けれど今のニコラスは、車に乗れば即座に気を失ったように眠りこけ、目的地に着けばぼーっとした頭で降りるだけ。


(……また、寝ちゃってた……)


目を覚ますたび、楽しそうに話していたメンバーたちの会話の輪から自分だけが取り残されていることに気づく。
「さっきさ、練習のときタキが転んだやつマジでウケたよね」
「あはは、見た見た! 超おかしかった!」
楽屋でメンバーたちが楽しそうに車内の出来事や雑談で盛り上がっていても、その時の記憶が一切ないニコラスは、輪の後ろでただ黙って立っていることしかできない。
自分から「何の話?」と輪に入る気力も湧かない。
輪から外れ、会話が減り、みんなが笑い合っている輪の遠くからただ彼らを見つめる時間が増えていった。

(俺……みんなの邪魔になりたくないな……)

喋らない、笑えない、ご飯を食べられない、いつも車で死んだように寝ている。
そんなニコラスの姿に、メンバーたちも「体調が本当に悪いんだ」「そっとしておいた方がいいのかもしれない」と察し、次第に声をかけるのを躊躇うようになっていく。
















ニコラスの肉体と精神の磨耗が限界に達し始めた頃、ネットの空気は薄気味悪いほどの変貌を遂げていた。

きっかけは、あるファンがSNSに投稿した数秒の生放送切り抜き動画だった。

カメラが引いた一瞬、笑顔がすっと消え去り、骨張った頬と光の消えた目で佇むニコラスの姿。そして、衣装の隙間から覗くあまりにも細くなった手首。
『ねえ、ニコラス本当に大丈夫? 痩せすぎだし目死んでる』
『前はあんなに笑ってたのに……誰か助けてあげて』
『アンチのせいで追い詰められたんだ。可哀想すぎる』

かつて彼を「態度が悪い」「不誠実だ」と叩いていたタイムラインは、一夜にして過剰な同情と心配の声で溢れかえった。人々は手のひらを返したように被害者としての彼を扱い、運営やアンチへの批判を繰り返す。
けれど、当のニコラスにとって、その「善意の心配」は救いなどではなかった。
一度壊れてしまった心には、心配の声すらも重く冷たい鉛となってのしかかる。


何より耐えがたかったのは、その騒ぎが他のメンバーたちにまで飛び火したことだった。

「……ねえ、ニコラスのファンからWeverseのコメント欄に『ニコラスを助けてあげて』ってたくさん来てるんだけど……どう答えたらいいのかな」

楽屋の隅で、年下メンバーが困惑したようにスマホを見つめ、Kやフウマに相談している声が聞こえてきた。ヒョンたちも苦しそうな、どうしようもない顔で言葉を濁している。


(俺のせいで……またみんなを困らせてる)
(俺がこんなに弱くてダメだから……グループの雰囲気を壊してるんだ)


胸の奥がキュッと激しく縮こまり、急激に酸素が吸えなくなった。
喉の奥が狭まり、浅い呼吸が「ハッ、ハッ」と速くなる。過呼吸の前兆だった。

「……っ、……ぁ……っ」

メンバーに気づかれないよう、ニコラスは身をかがめて楽屋をすっと抜け出した。足元がおぼつかないまま廊下の突き当たりにあるトイレに駆け込み、個室の鍵を閉める。
便座の上に崩れ落ち、震える両手で口元を強く覆った。吸っても吸っても空気が入ってこない猛烈な窒息感と、手足の痺れ。一人で耐える恐怖の中、ただ必死に「息を吐く」ことだけに集中し、冷や汗を流しながら発作が収まるのを待つしかなかった。

実は少し前から、こうした過呼吸の症状が頻繁に彼を襲っていた。



そしてその日の夜。宿舎の自室。

暗闇の中、ニコラスはベッドの上ではなく、冷たい壁に背中を預けて床に直に座り込んでいた。
理由のない涙がボロボロと溢れ落ち、止まらない。浅く速い呼吸。喉の奥からヒューヒューと音が漏れ、溺れるような呼吸困難と激しいパニックの中で、ただ一人で耐えていた。

その時だった。
コンコン、と控えめなノック音が響き、ドアがすっと開いた。
「ニコ〜、明日の車6:30に変更だって」
明日のスケジュールの変更を伝えにやってきたウィジュだった。だが、入口からベッドを見ても人の気配がない。

「ニコ、あれ? どこ……?」
不思議そうに足を踏み入れたウィジュは、ドアを開けた死角になる壁の隙間に、小さく丸まっている影を見つけた。

「なにしてるの?」
「……なにも」

ウィジュの声を聞いた瞬間、ニコラスは全身の筋肉を硬直させ、喉の奥に溢れかえていた呼吸と涙を無理やり奥へと押し込んだ。必死で「平気なフリ」を作ろうとする。

けれど、廊下から差し込む細い光が、誤魔化しきれない現実を容赦なく照らし出していた。
光に濡れて光る目元。必死に止めているはずなのに、肩が浅く激しく上下していること。そして、膝を抱える指先がガタガタと震えていること。

ウィジュは息を飲んだ。
最近のニコラスが過呼吸を起こしていることにも、一人で耐えていることにも、ウィジュはずっと気づいていたのだ。今まさに、苦しみのピークで溺れかけていたことも。

「あ、」

小さく声を漏らしたウィジュだったが、「大丈夫?」とも「どうして泣いてるの?」とも言わなかった。問い詰めれば、ニコラスの残されたプライドも心も完全に崩壊してしまうと知っていたからだ。

ウィジュはすっと踵を返して一度部屋を出て行った。
数十秒後、戻ってきたウィジュの手には、キッチンから持ってきたタオル包みの保冷剤と、小さなチョコレートが1粒握られていた。
ウィジュは無言のまましゃがみ込むと、震えるニコラスの目元に保冷剤を「ぎゅっ」と押し当てた。

「……っ……」

ひんやりとした強烈な冷たさが、熱を持っていた目元を刺す。

「……明日浮腫むよ」

ぶっきらぼうとも取れる低い声。それからウィジュは、ニコラスの硬直した掌を開かせると、そこにぽんとチョコレートを1粒載せた。
少しでも甘いものを食べて、安心して眠れるようにという、ウィジュなりの不器用なおまじない。

「……おやすみ」

それだけ言い残すと、ウィジュは振り返り、静かにドアを閉めて出て行った。
静まり返った暗闇の中、目元に当たる保冷剤の冷たさと、手のひらに残された1粒のチョコの温かい重み。
「大丈夫」と聞かれなかったからこそ、ニコラスは壊れずに済んだ。
(……ウィジュ……)
手のひらのチョコを固く握りしめ、ニコラスは壁に頭を預けてゆっくりと息を吐き出した。














あの保冷剤と1粒のチョコの夜から、さらに少しの時間が流れた。


だからと言って、ニコラスの状況が劇的に良くなったわけではない。
相変わらず彼は、気配を消すように楽屋を抜け出しては、トイレの個室で激しい過呼吸に耐え、ガタガタと震える自分の手を必死で隠しながら何事もなかったかのような顔で戻ってくる。移動の車内では、相変わらず気絶するように意識を飛ばして眠りこけていた。

限界を超えたまま、騙し騙し走り続ける日常。
そんな中、多忙なスケジュールの合間に、奇跡のようにポンっと1日だけの「オフ」ができたのだった。


その前夜も、ニコラスは激しい過呼吸の反動で意識を失うようにして泥のような眠りへと落ちていた。
どれくらい時間が経っただろうか。

「……ニコル! 起きて! 今から出かけるよ!」

早朝の静寂を破り、勢いよくカーテンが開け放たれた。
眩しい太陽の光が一気に部屋へ差し込み、ベッドの上で丸くなっていたニコラスは、重い腕で思わず目を覆った。

「……ん……っ……」

薄っすらと目を開けると、そこには私服を着て、小さめのリュックを背負ったウィジュが立っていた。
頭が割れるように痛み、全身が鉛のように重い。今日はせっかくできた待望の休みのはずだった。

「……なに……? 今日……休み、でしょ……」

掠れた声で尋ねるニコラスに、ウィジュは「そうだよ! だから出かけるの!」と、迷いのないハッキリとした声で答えた。いつものふわふわとした雰囲気はなく、どこか決定事項だとでも言いたげな、不思議な凛とした表情を浮かべている。
あのチョコの夜からずっとニコラスの限界を見守り続けてきたウィジュが、「もう限界だ」と判断して決行した決意の朝だった。

「……どこ行くの……俺、無理……体調、あんまり……」
「大丈夫、歩くだけだから。はい、服着替えて。帽子とマスクも持ってね」

いつもの優しいウィジュなら、「そっか、体調悪いなら休んでてね」と心配そうにベッドの端を撫でて去っていくはずだった。

けれど今日のウィジュは、ニコラスが発した小さな拒絶の言葉をまるで最初から聞こえなかったかのように完全にスルーし、クローゼットから勝手に上着を取り出してきた。
拒否する気力すら、今のニコラスには残っていなかった。
頭が回らないまま、訓練された身体は言われた通りに最低限の身支度を整えてしまう。パスケースと携帯をポケットに突っ込み、帽子を深く被る。
理由も行き先も告げられないまま、ニコラスはウィジュに腕を引かれるようにして、静まり返る早朝の宿舎を後にした。


東京の港から船に乗り、揺られることおよそ3時間。
白波を立てて進む船の客席で、ふたりは並んで座っていた。
何か深い話をするわけでも、熱っぽく慰め合うわけでもない。窓の外に広がる果てしない青い海を、ただ静かに眺めているだけだった。

「……酔ってない? 大丈夫?」
途中で、ウィジュがふと思い出したように隣を向いて声をかけてきた。
「……うん。大丈夫」
「飴あげる」

ウィジュはポケットをごそごそと探ると、小さなフルーツフレーバーの飴玉を1つ、ニコラスの掌にぽんと載せた。あの日渡してくれたチョコと同じ、ウィジュなりの気負わせない気遣い。

「……ありがとう」

口の中に放り込むと、優しい甘さが広がり、強張っていた舌の力が少しだけ抜けた。それ以上の会話はなかったが、気まずい沈黙ではなかった。何も喋らなくていいという安心感が、船の心地よい揺れとともにニコラスの体から毒を抜いていく。



船が静かに船着き場へと滑り込み、小さな離島へ到着した。
平日の午前中ということもあって、港に観光客の姿はほとんど見当たらない。ウミネコの鳴き声と、波が岸壁を洗う静かな音だけが空間を満たしていた。

「……ここ……どこ……?」

潮風に吹かれながら、ニコラスがぼーっと周囲を見渡して呟く。

「東京の島。……本当はね、台湾まで連れて帰ってあげたかったんだけど……日帰りだと、さすがに厳しかったからさ」

ウィジュがふふっと優しく笑いながら言った。
(……台湾……)
その言葉が、ニコラスの胸の奥に小さく引っかかった。
自分が故郷を思い、言葉の壁やネットの悪意に傷つき、追い詰められていたことを、この同い年のリーダーはずっと知っていたのだと悟る。
けれどウィジュは、それ以上ニコラスの状況やネットの炎上、急激に痩せてしまった身体、頻繁に起きる過呼吸について何も触れてこなかった。
「最近どう?」とも、「なんでご飯食べないの?」とも聞かない。
ただ、静かに隣に並んで歩くだけだった。


潮の匂いが鼻腔をくすぐる。
都会のコンクリートの匂いとも、楽屋の消毒液やメイクの匂いとも違う、潮風と自然の匂い。
しばらく並んで歩いていると、港から少し離れた路地に、古びた小さなラーメン屋を見つけた。
「お腹すいたね」とウィジュに袖を引っ張られ、断る間もなく店内に入る。

注文されたシンプルな醤油ラーメンが運ばれてくる。ここ最近、固形物をほとんど喉に通していなかったニコラスだったが、レンゲでスープをひとくち口に含んだ瞬間、冷え切っていた胃の奥へじんわりと温かさと旨味が広がっていくのが分かった。

「……おいしい」

ぽつりと漏れたその声に、ウィジュは「でしょ? 良かった」と嬉しそうに微笑み、自分のお椀から勢いよく麺をすすった。
説教も、慰めも、探るような視線もない。
ただ、目の前で普通にご飯を食べている同い年の友達がいるだけ。
それだけのことが、過剰に研ぎ澄まされ張り詰めていたニコラスの神経を、少しずつ、少しずつ解きほぐしていった。














ラーメン屋を出ると、冬の海風がヒュッと頬を撫でた。

ダウンジャケットの上からでも伝わってくる厳しい寒さ。けれど、その冷たさが、熱を持って浮ついていた頭をすっきりと冷ましてくれるようで、ニコラスには不思議と心地よかった。

途中の道で見つけた古い自動販売機で、ウィジュが「温かいお茶」のペットボトルを2本買ってきた。一本をぽんと渡され、両手でぎゅっと包み込む。手のひらからじんわりと伝わってくる熱が、かじかんだ指先に染み渡っていく。
二人はそのまま港の防波堤まで歩き、誰もいないコンクリートの上に並んで座った。


目の前に広がる、果てしない冬の海。
灰色の雲と青い波が交ざり合う水平線を、ただ黙ってぼーっと見つめる。
何を喋るでもない。スマホの通知音も、カメラのシャッター音も、誰かの視線もない。

ただ静かに温かいペットボトルを握りしめ、冷たい潮風に吹かれていると、ニコラスの頭の中にずっと溜まっていたドロドロとした暗い霧が、少しずつ、少しずつ晴れていくような気がした。






今まで誰にも渡せなかった言葉が、喉の奥からぽろぽろと零れ落ち始める。
「……みんなに……迷惑、かけてる気がする」

ポツリと漏れた、短く不器用な日本語。
隣のウィジュは何も言わず、ただ海を見つめたまま「うん」と優しく相槌を打った。
一度開きかけた言葉の栓は、もう止められなかった。単語のように短く切り刻まれた言葉で、ニコラスは自分の中に閉じ込めていた苦しみを吐き出していく。

「ご飯が……食べられない。……何食べても、味がしない」
「……楽しいことが……わからない。前みたいに……笑うのが、どうやるか、忘れた」
「……息が……できなくなる。夜……理由がないのに、涙が……止まらない」

ひとつ言葉を口にするたびに、自分の壊れてしまった現実が突きつけられ、胸の奥がぎゅーっと冷たく締め付けられていく。温かいペットボトルを両手で握りしめているはずなのに、ニコラスの手はガタガタと激しく震え始めていた。


その震える手に、温かいぬくもりがそっと重なった。
ウィジュが黙って、自分の手でニコラスの手を上から優しく包み込んでくれたのだ。

「……SNSが、こわい」

ニコラスは無自覚のまま、すがるように、しがみつくようにウィジュの手をぎゅっと強く握り返した。爪が食い込むくらいの力で、恐怖に耐えるように。

「……心配されることも……服のことも……。俺が……母国語で言った言葉が、ちがう意味になって……」

言葉が詰まる。喉の奥がヒューヒューと鳴り始め、呼吸が浅く速くなりかけた。過呼吸の波が押し寄せてくる。
するとウィジュは、握っていた手とは逆の手をそっとニコラスの背中に回し、トントンと、大きなストロークでゆっくり背中を撫で始めた。

(大丈夫。ここにいるよ)

声には出さないメッセージが、背中をなぞる手のひらから伝わってくる。その安心感に背中を押され、ニコラスは涙で視界を滲ませながら、最後の苦しみを絞り出した。

「……自分の……全部を……否定された気持ちになった。……俺が……俺でいるのが、全部……悪いことみたいで……っ」

ぽろぽろと、大きな涙の粒が溢れ落ち、冬の防波堤の上に落ちて染みを作っていく。
あのWeverseのDMから始まった誤解。大好きなファッションへのこだわり。自分らしさを守りたかっただけなのに、ネットの悪意によって自分の存在すべてを否定されたような惨めさと絶望。


全部、言えた。


上手な日本語じゃなかったけれど、支離滅裂だったけれど、ニコラスは自分の胸の中にある泥を、すべてウィジュの前に吐き出すことができた。

ウィジュは、一度も彼の言葉を遮らなかった。
「そんなことないよ」とも「気にしなくていい」とも、「こうすれば解決する」というアドバイスすらも言わなかった。

話を聞いて解決するためではなく、ただニコラスにすべてを吐き出させ、彼自身に自分の気持ちを整理させてあげるために。

「……ふぅ……っ、……ひっ……っ」

すべてを吐き出し、泣きじゃくりながら浅い息を繰り返すニコラスを、ウィジュは静かに、両腕でぎゅっと強く抱きしめた。
潮風の冷たさを遮るように。ニコラスの痩せた身体を丸ごと包み込むように。


「……うん。……うん」


そのまま、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
実は、過呼吸と激しい感情の吐き出しの途中で、ニコラスはウィジュの腕の中で少しだけ意識を飛ばしてしまっていた。極限状態だった身体が、耐えきれずにショートを起こしたのだ。
けれどウィジュは無理に起こすでもなく、動揺するでもなく、ただニコラスの意識が戻るまで静かに抱きしめ続け、背中を優しく撫で続けてくれていた。

ふと目が覚め、自分がウィジュの胸の中で倒れ込んでいたことに気づいたニコラスは、慌てるように自分から身体を離した。
気がつけば、あれほど眩しかった冬の空はすっかり薄暗くなり始めていた。

前を向き、暮れていく空と海を見つめながら、ニコラスの口からぽつりと本音が零れ落ちる。

「……夜が、怖い」

絞り出すような小さな声。

「……寝れない夜が……涙が止まらない夜が、怖い」

一人で暗闇の中で耐える時間の恐怖。それを聞いたウィジュは、少しだけトーンを上げた明るい声で返した。

「じゃあ、一緒に映画見よ」
「……お前、すぐ寝ちゃうじゃん」

反射的に口から出たツッコミ。
いつものように呆れたトーンで返したニコラスの言葉に、ウィジュの心が小さく跳ねた。

(……あ、いつものニコラスだ)

久しぶりに聞いた、本当のニコラスらしい言葉。ウィジュは泣きそうになるのを堪えながら、まっすぐな声で言った。

「寝ないよ。……ニコラスがしんどい時は、ずっと隣にいる」

その言葉に、ニコラスは黙り込んでしまった。
今まで一人で耐えるのが当たり前だと思っていた。だけど、誰かが隣にいてくれることの温もりと安心感を、今の自分はもう知ってしまっていたから。
静かな間が空いた後、ニコラスは小さく首を縦に振った。

「……うん」

それからしばらく、二人はただ並んで静かに海を眺めた。



「……そろそろ、船行こうか」
ウィジュのその言葉を合図に、二人は腰を上げ、港に向かってゆっくりと歩き出した。
波の音だけが聞こえる帰り道、ウィジュが思い出したように何気なく口を開いた。

「この空……『雀色時(すずめいろどき)』って言うんだって」
「……すずめ?」
「うん。なんで雀なんだろうね。……フウマくんが前に教えてくれたの」

あたたかくて、どこか懐かしい日本の言葉。
ニコラスは何も答えず、ただ黙ってその言葉を聞いていた。
いつもなら憂鬱でたまらなかった夕暮れ時。でも、なぜだろう。
ウィジュの温かい手と、この静かな島の空気と、「雀色時」という不思議な響きのせいか、今日のニコラスは不思議と、夜が来るのが怖くなかったのだった。



























プリ小説オーディオドラマ