第121話

NICHOLAS 価値観
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2026/06/09 12:52 更新







その冬、ニコラスには大きな挑戦が控えていた。

誰もが知る偉大な先輩のカバー曲を、数人の選抜メンバーで披露する特別なステージ。ニコラスにとって、その舞台は絶対に失敗の許されない、自分のすべてを証明するための場所だった。

「……もう一回、音かけて」
夜、静まり返ったリハーサル室に、ニコラスの掠れた声が響く。

毎日、全体の練習が終わったあとも一人で居残り、鏡に向かってステップを踏み直す。それだけでは足りないと、毎朝誰よりも早く起きてジムへ通い、筋トレと過酷な有酸素運動を自分に課していた。

リーダーであるEJは、そんなニコラスの姿を、いつもリハ室の隅から静かに見つめていた。
ニコラスの歩幅がいつもよりほんの少し重いこと、水分を摂る回数が異常に少ないこと。ウィジュの持つ「ニコラス専用のセンサー」は、とっくに彼が限界を迎えていることを察知していた。

「ニコ、もう遅いよ。今日のご飯、何が食べたい?」
ウィジュができるだけいつも通りの柔らかい日本語で声をかけても、ニコラスは鏡から目を離さないまま、ぶっきらぼうに首を振るだけだった。

「いらない。お前、先に帰ってて」
その頑固な瞳に、ウィジュはそれ以上言葉を重ねることができなかった。ニコラスにとってこのステージがどれほど大切か、誰よりも理解していたからだ。



しかし、運命の本番当日。
神様は、彼に試練というにはあまりにも残酷な現実を突きつけた。

ステージの魔物。あるいは、連日の過労による一瞬の肉体のタイムラグ。
パフォーマンスの終盤、最も難易度の高いアクロバティックな技の着地で、ニコラスの軸がほんの数センチ、わずかにブレた。一般の観客には気づかれないほどの、本当に小さなミス。けれど、完璧を求めて自分を追い詰めてきたニコラスにとっては、それは世界のすべてが崩壊するに等しい「失敗」だった。



ステージの幕が降りた瞬間、ニコラスは誰の言葉も拒絶するように、衣装のまま楽屋の隅へと引きこもった。

ハルアやマキが心配そうに視線を送るなか、ウィジュがそっと近づき、「ニコ、かっこよかったよ」と声をかけた。
だが、ニコラスは熱を帯びた、酷く冷たい瞳でウィジュを睨みつけた。

「かっこよくない。……俺、最低だった」
その日を境に、ニコラスのストイックさは、周囲が恐怖を覚えるほどの「強迫観念」へと姿を変えた。


















































ツアーが進むにつれて、ニコラスのストイックさは「熱意」という言葉では片付けられないほど、危険な領域へと突入していった。

課題の残ったあのカバー曲のステージ以降、彼の頭の中は『完璧』という二文字だけに支配されていた。自分の納得のいかない部分をすべて肉体的な怠慢のせいだと思い込み、自分を罰するように追い詰めていく。

「ニコラス、もうそのへんにしとけって。顔色ヤバいよ」
楽屋でフウマがプロテインのシェイカーを片手に声をかけても、ニコラスは聞こえていないかのように、ただ鏡を睨みつけていた。

過度な食事制限のせいで、彼の食事はいつしか味のしない鶏胸肉とブロッコリー、それから何錠ものサプリメントだけになっていた。頬の肉は目に見えて削げ、いつも野生動物のように鋭かった瞳の周りには、どす黒いクマが張り付いている。

それなのに、どれだけスケジュールが過密であっても、深夜2時に宿舎へ帰ってからジムへ向かう生活をやめなかった。



「……は、……っ、は、……っ」
リハーサル室でのニコラスの息遣いは、いつからか喉の奥がヒューヒューと鳴る、痛々しいものに変わっていた。
ステップを踏むたびに、床に大粒の汗がボタボタと滴る。ターンをした瞬間、一瞬だけ視線が泳ぎ、壁に手をつく回数が増えていく。

メンバーの誰もが「ニコラスが壊れていく」ことに気づいていた。
だけど、彼のあの、話しかけたら噛み付かれそうなほど張り詰めたオーラと、ステージにかける狂気のようなプライドを前に、誰も「休め」と強制することができなかった。みんな、腫れ物に触るように遠くから見守るしかなくて、それが余計にニコラスを「もっとやらなきゃいけない」という孤独な強迫観念へと追い込んでいく。

ウィジュは、そんなニコラスの崩壊を、一番近くで、誰よりも冷めた、そして誰よりも傷ついた目で見つめていた。

(なんで、そこまでするの。そんなの、ただの自己満足じゃん)

ウィジュの知っているプロ意識は、自分の身体を大切にして、長く、安定してファンに姿を見せることだ。だから、自分の命を前借りするみたいにガリガリと削りながら踊るニコラスのやり方が、どうしても理解できなかった。気持ちが分からない。


「ニコ、水飲んで。……もう、今日の練習は終わりにしてよ」
ウィジュが最低限のトーンで声をかけても、ニコラスは熱で濁った目を向け、低く吐き捨てるだけだった。

「終わらない。俺が納得するまで、終わらない。……ウィジュには関係ない。ほっといて」
「関係ない」と言われた瞬間、ウィジュの胸の奥で、何かがパチンと冷たく凍りついた。

分かりたくもない。そんなに死に急ぎたいなら、勝手にボロボロになればいい。


そうやって心に無理やり境界線を引いて、ニコラスから目を逸らそうとする。だけど、そうすればそうするほど、ウィジュの心臓は、ニコラスが本当に目の前から消えてしまいそうな強烈な恐怖で、壊れそうにバクバクと鳴り響くのだ。





















その最悪の瞬間は、あまりにも唐突に、そしてあまりに完璧な偽装のあとに訪れた。



「ありがとうございました!!」
アンコールが終わり、鳴り響く大歓声のなかを、ニコラスはいつも通り胸を張り、カメラに向かってハキハキと力強い足取りで歩いていた。その姿からは、身体が壊れかけていることなんて1ミリも感じられなかった。完璧なアイドルの、完璧な歩行。

だが、ステージの袖を通り抜け、観客の視線が完全に遮断された、まさにその歩目だった。



ドサッ。




生々しい、重い衝撃音が通路に響いた。
ニコラスの身体が、前触れもなく床へ叩きつけられていた。

「ニコ、……?」
一番近くを歩いていたウィジュの視界のなかで、世界がスローモーションになる。

床に頽れたニコラスは、顔から完全に血の気が引き、まるで生きている人間とは思えないほど真っ白だった。なのに、衣服の上からでも分かるほど、その身体からは陽炎のような恐ろしい熱気が立ち上っている。白目を剥きかけ、喉を「ひゅー、ひゅー」と鳴らすだけの肉塊。

その相反する「白さ」と「熱さ」が、ウィジュの脳に強烈な恐怖を植え付けた。


(死んじゃう。ニコが、燃え尽きて死んじゃう――)


「ニコ!! ニコ、しっかりして、ニコ!!」
次の瞬間、ウィジュは叫んでいた。

普段の冷静なリーダーの姿なんて、一瞬でどこかへ吹き飛んでいた。一番にニコラスの身体に駆け寄り、その熱い肩を激しく揺さぶる。だけど、ニコラスの首は力なくぐにゃりと傾くだけで、視線は完全に虚空を彷徨ったままだ。名前を呼んでも、叩いても、なんの反応もない。

「매니저님!! 빨리, 빨리요!! 의사 선생님 좀 불러주세요!!! (マネージャーさん!!早く、早く!!お医者さん呼んでください!!!)」
楽屋通路に、ウィジュの悲痛な韓国語の絶叫が響き渡った。

あまりの剣幕と、普段なら絶対に声を荒らげないウィジュの変貌ぶりに、弟たち、周囲のスタッフたちも完全に凍りついた。こんなにも取り乱したウィジュを、メンバーの誰も見たことがなかった。



「ウィジュ、一回離れろ! 息ができない、下がれ!」
血相を変えてすっ飛んできたKが、ニコラスを抱き起こしながら、パニックに陥っているウィジュの細い身体を後ろから力ずくで引き離した。

「嫌だ!! 離して、ケイヒョン離して!!」

ウィジュは暴れた。引き離されてもなお、ニコラスの方へ手を伸ばし、狂ったように首を振る。涙がボロボロと溢れ、視界をぐしゃぐしゃに濡らしていく。
止められなかった。自分がもっと強く言っていれば、こんなことにならなかったのに。大切な人が、大好きな人が、このまま自分の目の前から永遠に消えてしまうかもしれない。その圧倒的な恐怖が、ウィジュの心を完全に破壊していた。


「니콜라스 안 죽죠?! 케이형, 어떡해요, ( ニコラス死なないよね?!ケイヒョン、どうしよう、)
니콜라스 죽으면 안 돼요, 어떡해...!! (ニコラス死んだらダメ、どうしよう...!!)」


ウィジュは自分を抱きしめて止めるKのシャツの胸元を、ちぎれんばかりの力で掴み、激しく詰め寄った。口から出るのは、もう日本語ですらなく、感情の決壊とともに溢れ出した母語の韓国語だけだった。

「ウィジュ! 落ち着け! 死なねぇから、ニコラスは死なない! 俺を見ろ、大丈夫だから!」

Kはウィジュの細い肩をがっしりと掴み、そのパニックを起こした瞳を正面から真っ直ぐに見つめた。最年長の、絶対的な安心感を含んだ叫び。

「フウマが今、医者連れてくる。ニコラスは生きてる、息してるだろ! お前が倒れたら誰がニコラスの横にいるんだよ。……な? 落ち着け、ウィジュ」
Kに何度も名前を呼ばれ、その強い力で抱きしめられて、ウィジュはハッと息を呑んだ。

ハァハァと激しい過呼吸のなかで、ようやく周囲の景色が視界に戻ってくる。隣で真っ青な顔をして自分たちを見つめている弟たちの怯えた顔。そして、簡易ベッドに運ばれていく、真っ白で熱いニコラスの身体。

「……う、……ぅ、あ……っ、」
ウィジュはKの胸に顔をうずめ、声をあげて泣いた。
冷静でいることなんて、もう限界だった。生き方の美学なんてどうでもいい。ただ、あの熱くて白い身体が、もう一度自分を呼んでくれることだけを、ウィジュは祈るように願い続けていた。





















ピーポー、ピーポーと遠ざかっていく救急車のサイレンが、夜のドームの駐車場に虚しく響いていた。

ニコラスはそのまま病院へと搬送され、残されたメンバーたちは、重苦しい沈黙を乗せた送迎車で宿舎へと向かうことになった。

車内は、まるでお通夜のようだった。
いつもなら誰かしらが今日のステージの反省や他愛のない世間話を始めるはずなのに、誰も口を開こうとしない。何より、助手席の窓の外をじっと見つめているウィジュの横顔が、メンバーたちの言葉を完全に奪っていた。


宿舎に着いてからも、その静寂は続いた。
「ウィジュくん、上着、片付けるよ」

ハルアが気遣わしげに声をかけても、ウィジュは「ありがとう」とも言わず、ただ小さく頷くだけだった。
怒っているのか、悲しいのか、あるいは恐怖で心が麻痺してしまっているのか。


ハルアには、今のウィジュの無表情の裏にある感情が、何一つ読み取れなかった。ただ、いつも柔らかな光を宿しているその瞳が、今はガラス玉のように冷たく濁っていることだけが、底知れぬ怖さを物語っていた。





深夜2時を回った頃。

ガチャリと玄関の鍵が開き、マネージャーの肩に完全に体重を預けたニコラスが帰ってきた。


「……あ、ハルア。起きててくれたんだね」
マネージャーの囁き声に、リビングのソファで待機していたハルアが飛び起きる。

ニコラスの顔は相変わらず土気色で、帽子を目深に被っているものの、漏れ出る息が信じられないほど荒い。病院で点滴を受け、なんとか意識は戻ったものの、自立して歩くことすらままならない状態だった。


「ニコラスくん、大丈夫……?」
ハルアが駆け寄ると、マネージャーが沈痛な面持ちで診察結果を告げた。


「ひどい過労と栄養不足からくる高熱だそうだ。それから……元々気管支が少し弱いところに、この過酷なスケジュールと乾燥が重なって、肺の機能もかなり落ちているらしい。お医者さんには『よくこの状態で舞台に立てていたね』って呆れられたよ。まだ熱も39度近くあるから、数日は自宅で絶対安静。スケジュールは全部バラしたから」

「そんなに悪かったんだ……」
ハルアが息を呑む。



その話を、リビングの暗闇に佇むウィジュが、じっと見つめていた。

一歩も近づこうとせず、ただ腕を組んで、壁のシミでも見るかのような冷徹な視線をニコラスへ向けている。

(何故、そこまで自分を追い詰めるの?)
(何故、命を削ってまで舞台に立とうとするの?)

ウィジュの頭の中には、ニコラスへの理解できないという「拒絶」が、黒い澱のように渦巻いていた。

命よりも大切なものなんて、この世にないはずだ。自分を大切にできない人間に、良い舞台なんて作れるわけがない。ずっとそう思ってきた。

だが――それと同時に、そこまで命を削ってニコラスが作り上げたあのカバー曲のステージが、完璧そのもので、数万人の観客を本気で魅了していたことも事実だった。
それが、余計にウィジュを苛立たせる。


何よりも、自分の命を、そして僕の心をこれほどまでに蔑ろにして、勝手に壊れていくニコラスのことが、今のウィジュには激しく「憎かった」。

「ニコラスくん、とりあえずベッドに行こう。僕、支えるから」
ハルアがニコラスの細くなった腰に手を回し、ゆっくりと寝室へ連れていく。



その様子を冷ややかに見送ったあと、ウィジュは自室へと向かい、ドアを思い切り閉めた。
ハルアがニコラスの枕元にポカリや氷嚢を届けている間も、ウィジュはその冷たい部屋に引きこもったまま、二度と出てこなかった。































「……ん、……っ、あ、」


ニコラスが次に目を覚ましたとき、視界に飛び込んできたのは、病院の白い天井ではなく、見慣れた宿舎の自室の天井だった。

身体が重い。まるで頭の中に鉛を詰め込まれたように、1ミリも動かすことができない。喉の奥がカラカラに乾いていて、呼吸をするたびに肺の奥がゼーゼーと痛んだ。

(あーー、俺、倒れたんだ……)

ステージからハケた瞬間の、あの世界の上下が分からなくなった感覚。ウィジュが泣き叫んでいたような、掠れた記憶。それらが、熱で濁った脳内に断片的に蘇ってくる。
コンコン、とドアが開き、ハルアが静かに入ってきた。

「あ、ニコラスくん、気がついた?」
「……ハルア。俺……どれくらい、寝てた?」
「丸一日だよ。病院から帰ってきて、ずっと起きなかった。お医者さんからね、過労と栄養不足、それに気管支もボロボロだから、数日は絶対にベッドから出ちゃダメって言われてるよ」

ハルアが心配そうにおでこの冷えピタを替えてくれる。
ニコラスはその冷たさに小さく息を吐きながら、どうしても気になっていた名前を口にした。

「……ウィジュ、は」
「……」
ハルアの手が一瞬、ピタリと止まった。気まずそうに視線を泳がせたあと、小さな声で答える。

「……すごい怒ってる。昨日から、本当にひと言も喋ってくれないし、口も聞いてくれないよ」

やっぱり、そうか。
ニコラスは目を閉じ、ズキズキと痛む頭を枕に沈めた。自分が約束を破って、身体を壊して倒れたことに、ウィジュは心底怒っているのだ。大好きなウィジュに拒絶されているという事実が、高熱の痛みよりも何倍もニコラスの胸を締め付けた。








その日の夜。

カチャ、と玄関が開く音が、静まり返った宿舎に響いた。ウィジュが今日のスケジュールを終えて帰ってきたのだ。
そのかすかな音で、ニコラスはハッと目を覚ました。

まだ熱は39度近くあり、視界はぐらぐらと回っている。起き上がるだけでも吐き気がするような状態だった。けれど、

(話さなきゃ。今、ウィジュと話さなきゃダメだ)
その焦燥感だけで、ニコラスは無理やり掛け布団を跳ね除けた。

「っ、が、……」

ベッドに足を下ろした瞬間、激しい目眩で床に膝をつきそうになる。壁に手を突き、ゼーゼーと鳴る呼吸を必死に抑えながら、フラフラとした足取りで一歩ずつ進む。冷や汗がポタボトと床に落ちた。

ウィジュの部屋の前に立ち、震える手でドアをノックする。
「……ウィジュ。俺だけど」

返事はない。静まり返っている。
拒絶されているのは分かっていたが、ニコラスは無理やりドアノブを回して、部屋の中へと入った。

部屋着のパジャマに着替えたばかりのウィジュが、部屋の真ん中に立っていた。

ニコラスが入ってきたというのに、ウィジュは視線すら合わせようとせず、ただ冷ややかなオーラを纏って佇んでいる。

「……何の用? 部屋で寝ててって、ハルアから言われなかった?」

ウィジュの声は、低く、刃物のように鋭かった。

「ウィジュ、……ごめん」
ニコラスは壁に背中を預け、なんとか立っている状態だった。肩が激しく上下している。

「俺、また、お前に心配、かけた。……でも、ステージは、どうしても、完璧に、」


「完璧ってなに!?」
ウィジュがパチンと弾けたように、ニコラスの言葉を遮った。
いつも穏やかなはずのウィジュの瞳が、激しい怒りと、ギラギラとした拒絶の光でニコラスを睨みつける。


「倒れて、死にそうになって、周りにあんなに迷惑をかけて、僕にあの最悪な景色を見せることが、ニコの言う完璧なの!? 僕は、そんな生き方、大嫌いだし、1ミリも気持ちが分からない!!」


「……ウィジュ、お前には、分からないよ」

ニコラスも、熱で朦朧とする意識のなかで、一歩も引かずに言い返した。呼吸が苦しくて、日本語の単語が途切れ途切れになる。

「あのカバー曲、……俺にとって、本当に、大事だった。100%じゃなきゃ、舞台に立つ意味ない。明日、動けなくなっても、その一瞬、完璧なら、俺はいい……っ」

「よくないよ!!」
ウィジュが一歩踏み出し、ニコラスの胸元を突き放すように叫んだ。


「命より大切なものなんてない! 自分を大切にできないやつが、良い舞台なんか作れるわけないじゃん! ニコのやってることは、ただの自己満足だよ! 自分の身体を雑に使って、ボロボロになって……そんなニコ、見たくない! 大嫌い、本当に憎い……っ!」

「大嫌い」という言葉が、激しい怒りとともにウィジュの口から投げつけられる。


部屋の空気は限界まで張り詰め、二人の荒い息遣いだけが響いていた。
ニコラスは壁に背中を預けたまま、ぐらりと頭を揺らした。熱のせいで視界は二重、三重にブレている。立っているだけで内臓がひっくり返りそうなほどの悪寒が襲っていた。

だが、ニコラスはウィジュのその怒りに満ちた顔を見つめながら、ずっと頭の奥にこびりついて離れなかった「あの瞬間」の違和感を、どうしても確かめずにはいられなかった。


ニコラスは一歩、フラフラと前に踏み出す。
「……ウィジュ」

「何。もう部屋に――」

「お前、……俺が倒れたとき、泣いてた?」

「……っ、」
ウィジュの言葉が、一瞬で凍りついたように止まった。

「俺、……ステージの裏で、目が見えなくなって、倒れたとき。……だれかが、すごく、大きな声で叫んでるの、聞こえた」

ニコラスは熱で赤くなった目を限界まで見開き、真っ直ぐにウィジュを見つめる。
呼吸が苦しくて、日本語の単語が途切れ途切れになる。それでも、その瞳の奥にある光だけは驚くほど鋭かった。

「……聞いたことない、すごい声。……あれ、お前だろ。俺の名前、何度も、叫んで……。日本語じゃない、韓国語で、……俺が死ぬって、泣いてたでしょ」

「……、……違う」
ウィジュはパッと目を逸らした。

だけど、その白い頬が、怒りとは違う感情でみるみるうちに赤くなっていく。掴んだ拳が、隠しようもないほどガタガタと震え出していた。

「違わない。俺、……ちゃんと聞こえた」
ニコラスはもう一歩、ふらつく足で距離を詰める。

「お前はいつも、リーダーだからって、冷静な顔ばっかりする。俺がどれだけ無茶しても、勝手にすればって、冷たい目で見てたじゃん。……なのに、なんでそんなに、取り乱して、泣いてたんだよ」

「……うるさい」
「ウィジュ、答えろよ……っ」
「うるさいって言ってるじゃん!!!」

ウィジュが再び叫んだ。今度は、完全に感情が決壊した叫びだった。

逸らしていた瞳をニコラスへと向けた瞬間、ウィジュの綺麗な目から、堰を切ったように大粒の涙がボロボロと溢れ出した。

「そうだよ!! 僕が叫んだんだよ!! 悪かった!?」
ウィジュはニコラスの胸元を、小さな拳で思い切り突き放すように叩いた。

「ニコが、生きている人間とは思えないくらい真っ白な顔をして、なのに身体は触ったら火傷しそうなくらい熱くて……っ。名前を呼んでも、叩いても、全然目を覚まさないんだもん!
ケイヒョンに引き離されても、僕、頭がおかしくなって……ニコが本当に死んじゃうんじゃないかって、怖くて、怖くてたまらなかったんだよ……っ!!」

涙でぐしゃぐしゃになった顔で、初めて自分の「一番醜くて、一番必死だった姿」を認めたウィジュ。

冷静なリーダーの仮面を完全に叩き割って、一人の人間として、ニコラスを失う恐怖に泣き叫んでいた自分を。

「……、……やっぱり」

その答えを聞いた瞬間、ニコラスの身体から、張り詰めていた最後の力がふっと抜けた。

「――っ、が、……」
限界だった。ニコラスの大きな身体が、精神的な安堵と高熱の重みに耐えかねて、ぐらりと大きく前方へと崩れ落ちる。

「ニコ……っ!」
ウィジュは叫びながら、条件反射的にその細い腕を伸ばし、倒れ込んでくるニコラスの熱い身体を必死に受け止めた。
ドサッ、と、二人の身体がウィジュのベッドの縁へと崩れ落ちる。


ニコラスはウィジュの肩に顔をうずめたまま、ハァハァと荒い息を吐き、震える手でウィジュのパジャマの胸元をぎゅっと、引きちぎらんばかりの強さで掴んだ。

「……ウィジュ、……おねがいだから、もう怒らないで……」

ニコラスの瞳からも、熱い涙が溢れてウィジュの首元を濡らしていく。

「俺、お前に怒られるの、いちばん、こわい。嫌われるの、本当に嫌だ……。お前がそんなに、俺のために泣いてくれるなら……俺、お前のために、俺の身体、大切にする。お前をこんなに泣かせるなら、完璧なステージなんて、いらない……っ」

熱のせいで、いつもよりずっと子供みたいで、不器用な日本語。
でも、その言葉に嘘なんて1ミリもなかった。
ウィジュはニコラスの熱い背中に腕を回し、今度は自分から、壊れ物を扱うようにぎゅっと抱きしめ返した。首元に触れるニコラスの吐息が、まだ信じられないほど熱い。


「……バカ。本当にバカだよ、ニコは……」


涙を流しながら、ウィジュは心の中で静かに思った。
生き方の美学なんて、やっぱりまだ分からない。明日になっても理解できないかもしれない。

だけど、自分をこんなにも大切に思って、自分の涙のために「自分を大切にする」と誓ってくれるこの人のことが、たまらなく愛おしかった。


「自分を大切にしてくれる人のことを、僕も、ニコも、一番大切にしなきゃダメなんだよ……」

「うん。約束する……。ウィジュのこと、いちばん大切にする……」










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