第112話

TAKI 紅の痛み rq
1,206
2025/11/25 13:27 更新













夜の練習を終えて、宿舎に戻ったのはもう日付が変わる少し前だった。
リビングにはまだ何人かのメンバーがいて、それぞれイヤホンをつけて動画を見ていたり、トレーニング後のストレッチをしていたりする。

「おつかれー」
軽く手を振って自分の部屋へと戻り、シャワーを浴びた。
タオルで髪を拭きながらベッドに腰を下ろすと、ふいに胃の奥がずしんと重くなる。

「ん……?」

変な感覚。ムカムカするというよりは、鉛のように胃の中に何かが沈んでいる感じ。
でも食べすぎたわけじゃない。夕食だってみんなと同じ量を食べたはずだ。

「まあ、疲れてるんだろうな」

そう口に出して、ひとり納得する。
練習の疲れが溜まっているだけだ、寝れば治る。そう思えば心配する必要もない。

けれど横になってスマホを見ていると、体の奥からまたじわりと違和感が押し寄せてきて、思わず眉をひそめる。
うつ伏せになって枕に顔を押し付ければ、ほんの少し紛れる気がしてそうした。

天井を見上げれば、これまでの忙しかったスケジュールが頭をよぎる。撮影にリハーサルに収録に……。
スケジュール表は真っ黒で、自分の休みなんてほとんどなかった。

「でも、俺らならできるって思ってるし……」

そう呟いて自分に言い聞かせる。
苦しいのは当然。ここで弱音を吐いたら、自分らしくない。
昔から「太陽」みたいに笑っているのが自分の役割だと思ってきた。

だから、胃が少し重いくらい大丈夫。
誰かに言うほどじゃない。

ベッドに転がって毛布を引き寄せると、外の街灯の光がカーテン越しにぼんやりと差し込んでいた。
その明かりの中で、違和感はまだそこにあったけど、目を閉じてやり過ごすことにした。

「明日は元気に起きなきゃ」

そう思いながら、眠りに落ちる瞬間まで、胃の奥の重さは消えなかった。



















翌朝。
リビングに一番乗りしていたのは、珍しくTAKIではなかった。

普段なら誰よりも早く起きて、まだ眠そうなメンバーに「おはよー!」と声をかけながらトーストをかじっているはずの彼が、今日は姿を見せない。
代わりに、まだ寝ぼけ眼のMAKIがキッチンで水を飲んでいた。

「タキ、まだ寝てんのかな?」
「珍しいな。いつも俺より早いのに」

HARUAがぼそりと呟き、ソファに倒れ込む。
そのやりとりを聞きながらも、誰も大げさに心配することはなかった。
昨日も遅くまで練習していたし、たまには寝坊する日もあるだろう――そう思うのが自然だったからだ。

しばらくして、ようやく足音が廊下に響いた。
パジャマのまま、ぐしゃぐしゃの髪で現れたTAKIは、いつもの元気な笑顔を浮かべようとしていたが、その笑みはどこかぎこちない。

「おはよ〜」

声はかすれて低く、覇気がない。
その様子にHARUAが振り返って目を細める。

「大丈夫? 寝起きだから声おかしいだけ?」

「ん、大丈夫大丈夫!」

TAKIは手を振ってみせるが、その動作は普段よりもずっとゆっくりで、椅子に腰を下ろすとすぐに俯いた。
パンがテーブルに置かれているのに、手を伸ばす様子もない。

「食べないの?」とMAKIが問うと、
「後で食べる。今はあんまりお腹空いてなくて」
と、曖昧に答えるだけだった。

――本当は、胃の重さが朝になっても消えず、パンの匂いを嗅ぐだけで吐き気が込み上げてきていた。
けれど、それを言う勇気は出なかった。
みんなを不安にさせるだけだし、昨日の疲れで胃が重たいだけ。そう思い込もうとした。

その横で、FUMAがふと彼の顔を覗き込む。
「顔色悪いな。寝不足?」

その言葉にTAKIは、慌てて口角を上げた。
「いやいや、全然! ちょっとまだ寝ぼけてるだけ」

笑顔を作るが、その目の奥に力はなく、視線も落ち着かない。
FUMAは一瞬言葉を飲み込んだが、それ以上は追及しなかった。

リーダーのEJがリビングに現れると、自然とその場がざわつき出し、今日のスケジュールの話題になった。
TAKIはその間も会話に加わろうとせず、ただ曖昧に相槌を打っていた。

「……ほんとに、どうしたんだろ」
HARUAは小声で呟き、ソファの背に体を預けた。

けれど、誰もそれ以上は聞けなかった。
TAKIは笑って「大丈夫」と言った。
だから、信じるしかなかった。

ただその笑顔の奥にある「無理している色」に、気づいたメンバーは少なかった。




















スタジオの鏡張りの壁に、自分と仲間たちの姿が映っている。
スピーカーから流れるビートは容赦なく体を突き動かし、振り付けは何度も繰り返されていた。

「5、6、7、8!」

カウントが響くたびに、体が反射的に動く。
表情はいつものように笑顔――そう見えるように必死に作っていた。
でも、その裏で胃の奥がずっと重く、痛みは踊るたびに鋭く波のように押し寄せてくる。

――ごまかせ、まだ大丈夫。

胸の中で繰り返し自分に言い聞かせる。
けれどターンの瞬間、視界がグラッと揺れ、鏡に映る自分の顔がほんの一瞬霞んだ。
吐き気が喉の奥までこみ上げる。慌てて歯を食いしばり、表情を崩さないように無理やり笑う。

横にいたMAKIが小さな声でつぶやいた。
「…TAKI?」

一瞬、心臓が跳ねた。
バレたかもしれない。
だがすぐに口角を上げ、軽く手を振って返す。

「平気!全然いける!」

声は明るく。
でも、呼吸はすでに乱れていて、胸の奥で心臓が痛いくらいに早く脈打っている。

音楽が止まり、全員が水を取りに散っていく。
TAKIも水を手に取るふりをしたが、喉に何かを入れる気にはどうしてもなれなかった。
口に触れた瞬間に戻してしまいそうで。

「TAKI、飲まないの?」
またもMAKIの声。
慌ててペットボトルを傾け、水が唇をかすめただけで飲み込まずに笑ってごまかす。

――頼むから、心配しないで。

再び音が流れ出し、振り付けが始まる。
体を動かすたびに胃の中がかき回され、何も入っていないはずなのに込み上げる感覚が襲ってきた。
腕を上げると指先に力が入らず、手のひらに冷たい汗が滲む。

「もっと表情出して!」と振付師の声が飛ぶ。

「はい!」と元気に返事する。
その声だけはいつもより大きく。
笑顔も崩さずに。

でも、鏡に映った自分の唇はうっすら青白く、頬の赤みも熱からきていることを自分だけが知っていた。

最後の振りが終わった瞬間、体が膝から崩れそうになる。
必死に耐えて立ち続け、深呼吸を装って前屈みになる。
しかし実際は、吐き気と痛みで膝に置いた手が震えていた。

――まだだ。まだ倒れちゃいけない。

胸の奥でそう繰り返しながら、また次のカウントが始まるのを待った。



















スピーカーの低音が床から脛に上がってくる。
「5、6、7、8!」——体はカウントに合わせて跳ねるのに、胃の奥だけが逆方向に沈んでいった。

最初の違和感は、金属を舐めたみたいな味だった。
唾が急に増えて、喉の奥がぎゅっと縮む。ヤバい——そう思った瞬間、視界のふちがじわっと白く曇り、胃の底から何かが一気にせり上がってきた。

「…ト、トイレ」

誰にともなく言い捨て、音の壁をかいくぐってスタジオを飛び出す。
蛍光灯の廊下がやけに長い。扉に手をかける指が震えて、鍵がうまく回らない。ガチャン、と内鍵がかかった音に合わせて膝が折れ、そのまま個室の床に手をつく。

次の瞬間、喉が勝手に跳ねた。
込み上げる波に抵抗できず、便器に身を乗り出す。
酸の強い匂いが鼻を抜け、胃の中のものが音を立てて逆流する。

——赤い。

一瞬、そう見えた。いや、照明のせいだ。白い便器に落ちた水の反射だ。
自分に言い聞かせるけれど、二度目の痙攣で飛び散ったそれは、はっきりと赤を混ぜていた。細い糸みたいに、ところどころ鮮やかな色が渦に混ざる。

「…っ、ちが…う」

声がかすれて空気に溶ける。
手探りでレバーを押すと水が勢いよく流れ、赤い筋を攫っていく。音をごまかすみたいに、片手で洗面の水も全開にする。水の轟音に、自分の荒い呼吸が紛れた。

もう一度、襲ってくる。
今度は喉の奥が焼けるように痛くて、涙が勝手に滲む。口の端からこぼれたものが手首を伝い、冷たくなった汗と混ざった。鉄みたいな味が口いっぱいに残る。

落ち着け。落ち着け。
深く吸って、ゆっくり吐く——できない。息を入れようとするたびに、胃が反射で跳ね返す。指先が痺れて、時計の秒針の音まで大きく聞こえる。

ノックが一つ、扉を震わせた。

「タキ? 大丈夫?」
MAKIの声だ。まっすぐで、近い。

「…うん! 平気、すぐ行く!」
思っていたより明るい声が出た。自分でも驚くくらい、いつもの調子を演じられた。
水をもう一段階強くして、紙をたくさん引き抜く。便器の縁、床、手首——赤の気配を拭き取って、何枚も丸めては流す。流しすぎだ。目立つ。少し間をあけて、また流す。

鏡を見る。
顔色が悪い。唇の色が薄い灰色に寄ってる。頬の赤みは熱か、無理に動いたせいか。
口をすすぐ。何度も。鉄の味が薄くなるまで。冷たい水を頬に叩き、目の下を撫でる。目頭にこもった熱を、指の腹で押し流す。

もう一度ノック。

「タキ?」
今度はKの低い声。逃げ道がなくなる感覚に、胸がひゅっと縮む。

「すぐ行きます!」
日本語が少し硬くなる。息を整えて、口角を上げたままカギを外す。
扉を開けた瞬間、洗面の水音を止める。静けさが戻ると同時に、心臓の音がやけに大きい。

「顔、白いぞ」Kが眉を寄せる。
「ほんとに平気?」MAKIの目が揺れる。

「水、飲みすぎただけ。ほら、行こ。」
笑って肩をすくめる。歩き出すふりをして、壁から体を離す。膝がわずかに笑うのを、つま先に力を込めて誤魔化した。

スタジオのドアを押すと、また音の塊がぶつかってくる。
鏡の中の自分に向かって、口角をもう一段階引き上げる。
「5、6、7、8!」

胸を開く振りで、浅い呼吸を早い呼吸に見せかける。
ステップを踏むたび、胃の内側が擦れるみたいに痛い。腕を振るごとに、手首の内側に残った赤いシミを思い出す。指で擦って薄くしたそれは、もう誰にも見えないはずだ。

休憩。
みんなが水を飲む。ボトルのキャップを開ける音が一斉に重なる。
自分もキャップをひねり、唇に触れさせるだけで戻す。喉を濡らすふり。
視線を感じて顔を上げると、FUMAがこちらを見ていた。目が合った瞬間、彼は何も言わず、ただ顎を一度だけ小さく上げた。——大丈夫か? そう聞こえた。

「いけるよ」
声に出さず、口の形だけで返す。FUMAはそれ以上踏み込まなかった。
有難くて、少し怖い。

再開。
ターン、ドロップ、キック。
視界の端が暗くなって、音が遠い。カウントだけがやけにくっきり耳の中に残る。
1、2、3、4——5のところで、腹の底が再び波打った。喉の奥に熱が走る。

ダメだ。今は、ダメ。

奥歯を噛んで、腹筋に全力で力を入れる。
波が引くのを待つ間、笑顔だけは崩さない。
腰を切る角度をほんの少し浅くして、振りを誤魔化す。誰も気づかないくらい、ほんのわずかに。

曲が終わった。
息を吸う。入ってこない。肺の奥が、何かを拒んでいる。
吐く。吐ききれない。喉の奥に、さっき洗い流したはずの鉄の味がまたじわっと戻ってくる。

「タキ、次もう一回頭からいくぞ」
振付師の声。
「はい!」
反射で返事が出る。体はまだ動く。動ける。動け——。

足元がふっと軽くなる。
床と自分の距離が、一瞬だけ遠くなる。
膝が笑って、手すりを探すみたいに空を掴む。

「…っ」

壁に右肩を預けた。誰にも見えない角度で、静かに。
深呼吸。できない。
喉の奥で、形にならないものがうずく。
目を閉じて、数える。3つ数えたら平気になる。5つ数えたら戻れる。7つ——。

「タキー?」
MAKIの声が、いつもより近かった。
開いた目の先で、KとFUMAもこちらに向かって半歩だけ近づいている。
踏み込みすぎない距離。逃げ道を奪わない距離。
その配慮が、逆に胸に刺さる。

「…大丈夫。行ける。」
言葉にして、形だけ笑う。
今、ここで止まれない。止まったら、何かが決壊する。

背中をそっと離し、センターに戻る。
足裏で床を掴み直す。
鏡の中の自分は、まだ“いける顔”をしていた。

——あと一回。
——あと一曲。
——あと少しだけ。

そうやって、限界のラインをまたほんの少し、先へと蹴り上げた。




















曲が切り替わった瞬間だった。
大きなミラーの中で、全員の動きが揃うはずのフォーメーション。その中央で、タキの体がわずかに遅れた。振りの一つひとつを必死に追いかけるように動いていたが、顔は真っ青で、唇に血の気がなかった。

「タキ、もう一回!気合い入れて!」振付師の声が飛ぶ。
タキは小さく頷き、もう一度足を踏み出す。だが次のカウントで、腹の奥から鋭い痙攣が走った。

「…ッ!」
胸を押さえる間もなく、口元から赤黒い液が飛び散った。床に点々と落ちるその色に、スタジオ中の空気が一瞬止まる。

「タキ!?!?」
誰かの叫び声が反響する。

次の瞬間、タキの膝が崩れた。床に手をつこうとしたが力が入らず、そのまま倒れ込む。衝撃と同時に、苦しげな呼吸音が響いた。

「やばい!血っ…!」
「誰か、タオル持ってきて!」

真っ先に駆け寄ったのはKだった。最年長の反射だった。タキの肩を抱き起こし、頭を自分の胸に支えるようにして背を擦る。
「タキ!しっかりしろ!」
低い声が震えていた。

FUMAもすぐに横に膝をつき、手元のタオルを掴んでタキの口元を拭おうとする。だが拭っても拭っても赤がにじむ。
「これ…どうする、救急車呼んだ方がいい!」

EJが振り返ってスタッフに叫ぶ。振付師も顔色を変えて「すぐに!」と指示を飛ばした。

タキの瞼は重く、焦点が合わない。胸が上下するたびに苦しげな声が漏れる。
「Kヒョン…」掠れた声で呼ぶその響きに、Kの胸が締めつけられる。

「大丈夫だ、俺がいる。絶対に離さないからな」
必死に言葉をかけながら、Kはタキの背をゆっくり叩く。

MAKIは泣きそうな顔で固まっていた。JOとHARUAも信じられないというように立ち尽くしている。ユウマが慌てて水を持ってきたが、Kが首を振る。「今は飲ませるな、むせる」冷静に見えて、声は掠れていた。

FUMAがタオルで手際よく床を覆い隠す。弟たちが動揺しないように、視界から赤を隠そうとするその姿に、全員の胸がさらに詰まった。

やがてスタッフが駆け込んできて、担架を用意し始める。
「タキ、もうすぐだからな」Kは何度も繰り返す。まるで自分に言い聞かせるように。

スタジオの中はざわめきでいっぱいだった。けれど、タキを支えるKの腕の中だけは、必死の温もりと心臓の鼓動が伝わる世界だった。




















スタジオの空気は完全に凍りついていた。
吐血し、床に倒れ込んだタキの体は、Kの腕の中で小さく震えている。真っ青な顔色、掠れた呼吸――その一つひとつが「ただ事ではない」ことを突きつけていた。

「救急車!早く!」
EJが怒鳴るように叫び、スタッフが慌ただしく電話に走る。

「タキ、大丈夫、大丈夫だからな」
Kはタキの頭を自分の胸に預け、揺れないようにしっかり抱きとめていた。体は熱を帯び、汗で湿っているのに、その唇は乾いて震えている。

「Kヒョン…」
蚊の鳴くような声で呼ばれた名に、Kは「ここにいる」と何度も応える。

FUMAは床に散った赤をタオルで拭いながら、必死に弟たちを落ち着かせようとしていた。だがJOもHARUAも目を真っ赤にし、MAKIは「タキ…」と泣きそうに名を呼んでいた。ユウマは黙ったまま拳を握りしめ、視線を逸らすことができずにいる。

サイレンの音が近づいてくると同時に、救急隊員が駆け込んできた。
「意識は?」
「あります、でも反応が弱いです」Kが短く答える。声は低く、しかし震えていた。

隊員たちは手際よく担架を広げ、タキを移そうとする。だがタキは微かに動いて、「いやだ」と掠れ声を漏らした。
「タキ、行こう。大丈夫だよ、俺が一緒にいる」Kが優しく囁く。震える手を握りしめ、落ち着かせるように。

担架に横たえられたタキの体は軽すぎて、揺れが心配になるほどだった。ベルトで固定されると、弟たちが口々に声をかける。
「タキ、頑張れ!」
「すぐ良くなるから!」
「戻ってこいよ!」

しかしタキは答えられず、目を閉じたまま呼吸を荒げていた。

救急隊員に続き、KとFUMAが同乗を申し出る。
「俺も行きます」Kの言葉に隊員が頷き、FUMAも「ヒョンだけじゃ無理だろ」と当然のように隣に立った。

弟たちは残され、祈るようにその背を見送るしかなかった。
泣き出しそうなHARUAの肩を、EJが静かに抱く。ユウマは奥歯を噛み締めて前を見据え、MAKIはただ震える手を握り合わせていた。

サイレンが再び鳴り、タキを乗せた救急車は夜の街へと消えていく。
胸に焼きついた赤と、倒れる瞬間の衝撃。残された誰もが声を出せず、ただその場に立ち尽くしていた。




















サイレンが止まり、救急車の扉が開く。
夜の冷たい空気が流れ込むが、それでもタキの体は熱に浮かされたまま。担架を押す救急隊員の横で、Kはその手を握りしめて離さなかった。

「すぐ診ますので、こちらへ!」
白い壁の廊下に、足音と機材の音が響く。点滴の準備、血圧計、体温計――矢継ぎ早に並べられる医療器具。

担架からベッドへ移されると同時に、医師が短く問う。
「いつからこの症状が?」
「急に吐血して…熱も高いです。呼吸が荒くて、力も入ってないです」
Kの声は冷静に保たれていたが、握る手は白くなるほど強く力が入っていた。

「ご家族の方ですか?」
「いえ、同じグループで…兄みたいなもんです」
迷いなく答えるKに、FUMAも横から「俺も一緒です。説明は二人にお願いします」と言葉を添えた。

体温計がピッと鳴る。
「39.6度。高熱です」看護師の声に、FUMAの眉が僅かに動いた。
点滴の針がタキの腕に刺さると、微かに「ん…」と声を漏らすが、目は開かない。

「意識は反応あるけど、弱いですね」医師が呟く。
血圧計が巻かれ、心電図の波がモニターに現れる。その一つひとつが、Kの胸を締め付けていく。

「吐血の量は?」
「床に…そこまで多くはなかったです。でも、はっきり赤かった」
答えるKの声はかすれていた。

医師は短く頷き、カルテに走り書きをする。
「胃潰瘍、あるいは胃炎の悪化の可能性があります。まずは安静と点滴で様子を見ますが、検査も必要です」

「検査…?」
「内視鏡で確認しないと原因は断定できません」

その言葉に、Kの視線がタキに落ちる。まだ意識が戻らない顔。細い手。呼吸に合わせて上下する胸。
「…タキに、負担は?」
「眠らせて行います。痛みはありません」

説明を受けてもなお、Kは離さない。まるで離したらこの小さな弟が消えてしまうかのように。
FUMAが横でその背を軽く叩いた。
「ヒョン、大丈夫。今は預けよう」

その声に、Kはようやくタキの手を布団の上に戻した。
「…頼みます」

医師と看護師たちが動き出し、タキのベッドは奥の処置室へと運ばれていく。
白い扉が閉まる瞬間まで、Kは視線を逸らさなかった。

残された廊下、静寂の中でFUMAが小さく息を吐いた。
「ヒョン、顔が真っ青だよ」
「…怖いんだよ。俺がそばにいたのに、守れなかったらどうしようって」
Kの言葉は低く、掠れて震えていた。

FUMAは肩を叩き直し、静かに返す。
「守ってたよ。ヒョンが抱えてなかったら、もっと危なかったかもしれない。今は医者に任せよう」

Kは黙ったまま頷いた。
ただ、心臓を掴まれたような不安は、収まることなく胸の奥で渦巻いていた。



















白い扉が開く音がして、KとFUMAは一斉に顔を上げた。
「処置は終わりました。出血は止まっています」
医師の言葉に、二人の肩から一瞬にして力が抜ける。

「原因は?」
FUMAが低く問うと、医師はカルテをめくりながら答えた。
「胃粘膜が荒れていました。強いストレスや不規則な生活が重なったせいでしょう。潰瘍まではいっていませんが、このまま放置すれば悪化していた可能性が高いです」

Kは深く息を吸い、握りしめていた拳を解いた。
「…助かったんですね」
「ええ。高熱もありますので点滴で水分と解熱剤を入れています。しばらく休ませれば落ち着くでしょう」

処置室の中に案内されると、ベッドに横たわるタキが見えた。
点滴の管が腕から伸び、額には冷却シート。頬は赤く火照っているのに、唇は白い。
それでも、規則的に上下する胸を見た瞬間、Kの膝から力が抜けそうになった。

「…よかった…」
掠れた声がこぼれる。

ベッド脇の椅子に腰を下ろしたKは、そっとタキの手を取った。
冷たくもなく、熱すぎるわけでもない。少し汗ばんでいて、そこに確かに生きている温度があった。
FUMAも反対側に座り、タキの額に浮かんだ汗をタオルで拭う。
「本当に、限界まで我慢してたんだな」
その呟きに、Kは強く頷く。

数時間後。
点滴の滴る音だけが響く部屋で、タキのまぶたが僅かに揺れた。
「……ん…」
小さな声にKが反応する。
「タキ? わかるか?」

重たそうに目を開けたタキが、ぼんやりと天井を見つめたあと、ゆっくりと視線を動かす。
「……Kヒョン…?」
掠れた声が、確かにKの名前を呼んだ。

「ここは病院だよ。大丈夫、出血は止まった」
Kの言葉に、タキの瞳が揺れる。
「…病院……いや、俺…迷惑…かけて…」

FUMAがすぐに首を振った。
「迷惑なんかじゃない。むしろ、もっと早く言ってくれればよかった」
「そうだ。お前が無理してたの、俺たち気づいてやれなかった。ごめんな」
Kの声は震えていたが、穏やかで優しい。

タキは小さく首を振る。
「…俺、平気だって…思ってた。でも、気づいたら…」
言葉はそこで途切れ、また目を閉じる。

Kはその手をぎゅっと握りしめた。
「大丈夫だ。俺もFUMAもここにいる。もう一人で我慢するな」

FUMAも肩を叩き、静かに言葉を添える。
「タキ、お前の強さは知ってる。でも強いからこそ、俺たちに頼っていいんだよ」

タキのまぶたはまた閉じられた。
けれどもその表情は、さっきよりも安らかだった。

白い光に包まれた静かな病室。
KとFUMAは眠りについた弟のそばで、交代することなく座り続けていた。



















病院の自動ドアが開き、夜風が差し込む。
KとFUMAに挟まれるように歩くタキの足取りはまだ重く、背中も小さく見えた。
それでも「自分で歩いて帰る」と言い張ったその姿には、弱さと一緒にかすかな誇りも滲んでいた。

車で宿舎に戻ると、すでにリビングの灯りが点いていた。
「……おかえり」
HARUAが最初に声をあげる。
普段より少し震えた声に、どれだけ心配していたのかがにじむ。

続けてJOが立ち上がる。
「大丈夫? すごく熱あったって……」
珍しく早口になる姿に、みんな同じ気持ちを抱えていたことが伝わる。

NICHOLASは言葉を探すようにして、ようやく絞り出した。
「何も言わないからさ……ほんとに怖かったんだよ」
拳を膝に押しつけるのは、怒りより悔しさの証だった。

EJは黙ってタキの顔を覗き込み、そっと肩に手を置く。
「無理したら、もう全部ばれるんだよ」
その声は優しいけれど、どこか自分を責めているようでもあった。

YUMAは口を結び、数秒見つめたあとため息をつく。
「ほんまアホやな……」
それだけ言って冷蔵庫から水を取り出し、テーブルに置く。
不器用な仕草が逆に温かかった。

そして、MAKI。
彼はタキの顔を見るなり、目を潤ませて走り寄った。
「タキ……っ」
子犬のようにすがる声に、リビングの空気が少し揺れる。
「しんどいなら、言ってよ。俺、何でもするから……!」
普段は大きな体で無邪気に笑うMAKIが、今は小さな弟みたいにタキの手を握りしめる。

タキは立ち尽くし、視線を泳がせた。
謝りたい、でも謝ればまた心配をかける。
その葛藤に、FUMAが背中を押す。
「言わなくてもいい。顔を見せただけで、もう十分だから」

Kも隣で頷く。
「ただ、これからは一人で抱え込むな。それだけ約束してくれたらいい」

タキは唇を噛み、堪えていたものが溢れ出す。
「……ただいま」
震える声だったけれど、確かに届いた。

「おかえり!」
弟たちの声が重なり、リビングに広がる。
HARUAの肩をJOが抱き、NICHOLASは水を差し出す。
EJは「大丈夫」と何度も頷き、YUMAは無言でクッションを差し出す。
MAKIはまだ手を離さず、じっとタキを見上げていた。

その全部が、タキにとって帰るべき場所の証だった。





















翌朝の宿舎。
まだ外は薄暗く、廊下に差し込む明かりも頼りない。タキの部屋のドアがそっと開くと、まず顔を覗かせたのはYUMAだった。

「……起きてる?」
ベッドに横になるタキは、かすかにまぶたを持ち上げた。熱はまだ残っていて頬は赤い。けれど昨日のように苦しげではなく、ぼんやりとした視線の奥に少し落ち着きが見える。

「水……飲めた?」
小さな声で問いかけると、タキはコクリと頷いた。ベッドの横には、昨夜Kが置いたペットボトルと、FUMAが用意した冷えたタオルが並んでいる。

「薬は?」
次に入ってきたFUMAが確認する。
「……飲んだよ」タキの声は弱々しいけれど、笑みを浮かべる余裕があった。

Kは最後に姿を現した。特別な言葉をかけるでもなく、静かにタキの足元に腰を下ろす。その存在感だけで、部屋の空気が和らぐ。

タキは布団の中で深呼吸をした。昨日まで自分の体に気づけず、無理を続けた。気づいたときには血を吐くほどまで追い込まれていた。
けれど今は違う。――もう一人じゃない。
自分の弱さを抱えたままでも、こうして誰かが隣にいてくれる。

「……ありがとう」
小さく零れたその言葉に、FUMAがふっと笑い、YUMAが優しく頷き、Kは黙ってタキの額に手を伸ばした。まだ熱いけれど、その体温は確かに生きている証で、守られている安心だった。

タキの瞼は再び静かに落ちていく。
無理をしなくてもいい、休んでもいい――そんな空気に包まれながら、彼はゆっくりと眠りに還っていった。








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