スタジオの照明が落ちて、スタッフが片づけを始める。
そのタイミングで、ようやくニコラスはヘッドセットを外した。
肩から力が抜けた瞬間、どっと重たさが体の奥からせり上がってくる。
喉がヒリヒリしていて、呼吸するたびに熱がこもるような感じがする。
「……んん」
咳を一度、押し殺した。
ここ数日、スケジュールが詰まりすぎていた。
ボイトレ、振り入れ、収録、そして個人コンテンツの撮影。
睡眠時間はいつも4時間もない。
でも、文句を言う気はなかった。
(忙しいのは、悪いことじゃない。俺たちが必要とされてる証拠だろ)
そう自分に言い聞かせて、
水のボトルを傾ける。冷たい水が喉を通るたび、わずかに痛みが走る。
「ニコ〜、帰るよ〜」
フウマの声が廊下から響く。
「おー、今行きます!」
そう答えて立ち上がるけれど、
視界の端が一瞬だけ白くぼやけた。
(やばいな……)
小さく息を吸って、すぐに笑顔をつくる。
鏡の前で髪を整えながら、何でもない風を装う。
メンバーに心配されるのが、いちばん苦手だった。
宿舎に戻ったのは23時過ぎ。
リビングにはもう誰もいない。
夜食用に置かれたコンビニのおにぎりを見つめるが、
食欲がまるでわかない。
「……寝よ。」
自室に戻って、パソコンを開く。
音楽ファイルの編集をしようとするが、
画面の明るさが妙にまぶしく感じる。
手のひらがじんわりと熱い。
時計を見ると、もう0時半。
ぼんやりした頭でイヤホンを外すと、廊下から静かな足音が聞こえた。
「……ウィジュ?」
そう呟いたが、返事はない。
(たぶん水飲みに来ただけだろ)
画面を閉じ、布団に潜る。
けれど、目を閉じても体が火照っているせいで眠れない。
薄暗い天井を見つめながら、心のどこかで理解していた。
――明日の朝、きっと熱が上がってる。
そう思いながらも、誰にも言わずに目を閉じた。
「大丈夫」って言葉だけを、いつも通り心の中で繰り返しながら。
夜中の2時。
リビングの時計の針が「コッ」と鳴る音が響く。
ウィジュは温かいお茶を淹れていた。
眠れない夜はもう慣れっこだ。
疲れているはずなのに、なぜか眠れない──デビューしてから、そんな夜が増えた。
ぼんやり湯気を眺めていると、
廊下の奥から“ペタ、ペタ”とスリッパの音が聞こえた。
(……誰だ? この時間に?)
声をかけようとした瞬間、
暗がりの中にふらついたシルエットが浮かび上がる。
「……ニコラス?」
Tシャツ一枚。
目は焦点が合っておらず、唇の色が悪い。
ゆらゆらと歩いて、リビングに足を踏み入れる。
「ニコラス、どうしたの? ……寝れない?」
「……ウィジュ。」
かすれた声。
それだけ言って、ニコラスは立ち止まった。
呼吸が浅く、頬が赤い。
「顔、真っ赤じゃん。大丈夫?」
ウィジュが駆け寄ると、ニコラスは突然ぽつりと呟いた。
「……台湾、帰らなきゃ。」
「え……?」
「帰らなきゃ。……でも、帰りたくない。」
ウィジュの動きが止まる。
「……帰りたくない?」
「うん。……帰ったら、みんな、いない気がする。」
震える声だった。
笑って誤魔化すこともできないほど、
本気で怯えているような、迷子の子どもみたいな声。
ウィジュは思わず息をのむ。
そのままニコラスの額に手を当てた。
掌の下で感じるのは、異常な熱。
「……っ、すごい熱あるじゃん。」
「……ウィジュ、ここにいて。」
ニコラスが小さく手を伸ばしてきて、
ウィジュの手首をぎゅっと掴んだ。
「やだ……どこも行かないで。」
「行かないよ。俺、ここにいるから。」
ウィジュは静かに座って、
そっとニコラスの体を支えるように自分の肩に寄せる。
「……帰らなくていい。今はここでいい。」
「……でも、怒られる。」
「誰に?」
「……この前の撮影の監督……“外国人はいらない”って言ってた。」
ウィジュの胸がきゅっと縮む。
その言葉の痛みは、ウィジュ自身も知っていた。
“気にするな”と何度も自分に言い聞かせてきた言葉だ。
「……気にしなくていい。俺がいる。ここにいる。」
そう言いながら、ウィジュは彼の背中を軽くさすった。
ニコラスは少し呼吸を整えるようにして、
そのままウィジュの肩に頭を預ける。
「……ウィジュ。」
「うん。」
「……俺、また夢、見てる?」
「夢かもな。でも、悪い夢じゃないよ。」
「……ウィジュがいる夢なら、悪くない。」
そのまま、ニコラスの声がだんだん小さくなっていく。
熱で真っ赤な頬、汗で濡れた前髪。
その全部が、いつもの強い彼とは別人みたいに見えた。
ウィジュは冷えピタを貼り、水を口元に運びながら、
何度も「大丈夫だよ」と繰り返した。
夜明け前、ソファに寄り添う2人の姿が、
街灯の光の中でぼんやりと照らされていた。
「……にこ、俺が守るから。」
その小さな誓いを、
眠る彼には届かない声で呟いた。
リビングのカーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいた。
壁に映る影がゆっくりと形を変え、夜が終わりに近づいていくのを知らせている。
ソファの上。
ニコラスはまだ寝ていた。
頭はウィジュの肩に乗ったまま、微かに眉を寄せている。
頬には熱の名残で赤みが差していて、
寝息と一緒に“あつい息”が小さく漏れる。
ウィジュは、目を覚ましてからもう一時間以上、
そのままの体勢で動けずにいた。
(……重いけど、動かせないな)
腕の中の体温があたたかくて、
少しでも動いたら壊れてしまいそうで。
夜のうち、何度か熱を測った。
39度を超えていた時もあった。
冷えピタは何枚目かもう覚えていない。
それでも、眠ってくれたことが一番の安心だった。
「……ニコ。おーい。」
呼びかけても反応はない。
寝ぼけたみたいに口を少し開けて、
ウィジュのパーカーの袖を無意識に掴んでいる。
「おいおい、なにそれ。子どもかよ……」
思わず笑いがこぼれる。
普段なら絶対に見せない顔。
強くて、余裕があって、冗談を言う時は声が大きくて──
そんなニコラスのイメージが、
いま目の前で崩れていく。
(……あぁ、やばい。かわいいとか思っちゃってるじゃん俺)
自分にツッコミを入れつつ、
額の髪をそっと指で払う。
熱のせいで少し汗ばんでいて、
指先に触れる感触がやけに柔らかい。
ニコラスが小さく身じろぎをした。
「……うぃじゅ……」
「え、起きた?」
「……ここ、どこ……?」
「宿舎。リビング。昨日ふらふらで出てきたんだよ。」
「……ふうん。」
まだ半分夢の中みたいな声。
そのままウィジュの服を掴んだ手を離そうとしない。
「……ここ、あったかい。」
「……お前、ほんとに酔ってんのかってくらい熱あるよ。」
「……うぃじゅの匂いする。」
「は!?なに言ってんの!」
ウィジュの顔が一気に真っ赤になる。
けれどニコラスは悪びれもせず、
そのまま彼の肩に顔を埋めて小さく笑った。
「……落ち着く、なんか。」
「……寝ぼけてるうちにそんなこと言うなよ。」
「……寝ぼけてるから言えるんだよ。」
その言葉が不意に心の奥に刺さる。
まるでニコラスの“素”が漏れ出してしまったようで、
ウィジュの胸が少しだけ痛くなった。
(普段は絶対にこんなこと言わないくせに……)
手が自然に動いて、
彼の頭をやさしく撫でる。
「……熱、まだ高いな。」
「……ん。」
短い返事。
その声がやけに近くて、ウィジュの喉が詰まる。
(やめろ、これ以上距離近いとなんか変な気分になる……!)
そう思いながらも、
彼の体重を預けられていることが、
嫌じゃないどころか、少しだけ誇らしい。
「……ウィジュ。」
「ん?」
「ありがと。」
「……どういたしまして。」
「ほんとに、ありがと。」
「いいって。寝ろ。」
「……ん。ウィジュは?」
「俺? たぶん今日徹夜かな。」
「バカだな……」
そう呟いて、ニコラスは再び眠りに落ちた。
⸻
リビングの照明が朝の光に溶けていく。
静かな息遣い。
その隣で、ウィジュは思った。
(……ニコが弱ってる姿、誰にも見せたくねぇな。)
少し照れくさそうに笑って、
もう一度彼の髪をくしゃっと撫でた。
カーテンの隙間から、
柔らかな朝の光がゆっくりと差し込む。
リビングのソファには、
ブランケットをかけられたニコラスが寄りかかるようにして眠っていた。
その肩には、ウィジュの腕がそっとまわされている。
まるで、守るように。
そして──寄り添うように。
ウィジュの目は半分閉じかけていて、
徹夜で看ていたことがわかる。
時々、彼の頭がコトンとニコラスの肩に落ちるたび、
静かな寝息が混ざり合った。
そんな穏やかな空気の中、
廊下からKがあくびを噛み殺しながら現れた。
「……おはよ……って、え、なにこの絵面?」
後ろからフウマも顔を出す。
「え、どうしたの? ……うわ、これ……撮るしかないやつ。」
彼はスマホを取り出して小声で囁いた。
「しーっ。起こすなよ?」
パシャ。
カメラのシャッター音が小さく鳴る。
続いてタキ、ハルア、マキもぞろぞろとリビングへ。
寝ぼけ眼でソファを見るなり、全員の動きがピタリと止まった。
「……え、え? ウィジュヒョン、ニコラスと……くっついて寝てる?」
「まって、カップル感すごい……!」
「いや、これ普通に写真集の1ページいけるんじゃない?」
笑いを堪える声。
でも誰も、壊すような声は出さなかった。
みんな知っている。
ウィジュがどれだけ優しくて、
そしてニコラスがどれだけ繊細な人間かを。
「……いや〜、でもウィジュヒョン、いい彼氏してんな……」
「やめろよマキ、声デカいって」
Kが苦笑して注意するけど、
フウマは隣で「ほんとに映画みたいだな……」と呟く。
そんな中、ニコラスが小さく身じろぎした。
ウィジュの肩に頭を預けたまま、
「……ん……」と小さな声を漏らす。
ウィジュも反応して、ぼんやりと目を開けた。
「……ん、あ……おはよ……」
「おはよ、ウィジュ。えっと……状況説明お願いしていい?」
Kが苦笑混じりに問いかける。
ウィジュは一瞬だけ思考をフリーズさせ、
「……あ、いや……ニコが、熱……あって……」と小さく答えた。
「熱!?」
今度は全員が一斉に声を上げた。
「ニコラス、熱あるの!?」
「昨日めっちゃ元気だったじゃん!」
「ちょっと触ってみていい?」
フウマがそっと額に手を当てる。
「……うわ、めっちゃ熱い。38度は超えてるなこれ。」
「うわ〜……だからウィジュヒョンに甘えてたのか〜」
マキが半分呆れたように笑う。
「え、甘えてた? そんな感じだった?」
「いやもう、完全にくっつき虫だったよね」
「かわいすぎた。ふたりの世界だった」
「……やめろよお前ら、本人まだ寝てるだろ」
Kが笑いながらも制止する。
ウィジュは頬を赤くしながら、
「いや、あの……甘えてたというか、混乱してて……」
と説明しようとするけど、
全員が「はいはいはい」と笑いを堪えるように頷く。
「まあまあ。ニコラスが熱出してるのも、
ウィジュが優しいのも分かった。
とりあえず今日は休み決定ね。」
「……ん……?」
そのタイミングで、ニコラスがうっすら目を開けた。
寝ぼけた顔のまま、
ウィジュの腕をつかんで「ウィジュ……」と呟く。
「ここにいるよ」
ウィジュが優しく返す。
その言葉を聞くと、
ニコラスは安心したようにまた目を閉じた。
静かなリビングに、
暖かい朝の光が満ちていく。
「……なんか」フウマがぽつりと呟く。
「こういうの見ると、家族って感じするなぁ。」
「だね」
Kが笑って頷いた。
そして、ソファの隣に毛布をもう一枚かける。
「ニコラス、ゆっくり寝ろ。
お前が帰る場所は、ちゃんとここだからな。」
ウィジュがその言葉に目を細めて、
小さく「……ありがとう」と呟いた。
リビングはそのまま、
穏やかで優しい朝に包まれていった。
昼過ぎ。
カーテン越しの光がリビングを柔らかく照らしていた。
ソファの上には、毛布に包まったままのニコラス。
少し寝汗をかいて髪が額に貼りついているけど、
朝よりは顔色がずっとよくなっていた。
テーブルの上にはウィジュが淹れた紅茶と、
Kが作ったおかゆ。
「……うるさくて寝れなかっただろ」
Kが笑いながら言うと、
ニコラスは小さく首を振って、
「ううん、静かだった。ありがとう。」とだけ答えた。
「へぇ〜、素直〜」
タキがニヤニヤしながら覗き込む。
「昨日の夜のニコラスも、めちゃくちゃ素直だったのかな、ね?」
「おい、タキ、それ言うな」
Kが止めようとするけど、
時すでに遅し。
「ねぇねぇ、ウィジュヒョンの肩にずっとくっついて寝てたんだよ!」
マキが両手で再現してみせる。
「こうやって、『ウィジュ〜』って!」
「ちょ、ちょっと待って……!」
ニコラスの耳まで一気に真っ赤になる。
「お前ら、ほんとに見てたのか?」
「見たどころか、写真あるよ?」
「消せ! 今すぐ消せ!!!」
ウィジュが慌てて笑いながら手を振る。
「はいはい、みんな。もうやめよう。
ニコラス恥ずかしがってるじゃん。」
「いや、ウィジュ、
お前が一番恥ずかしがれよ。
完全に“寄り添って寝る彼氏”ポジだったぞ?」
Kがからかうように言うと、
ウィジュも顔を覆って笑った。
「いや、違うの、ほんとに!
ただ心配で……」
「言い訳〜!」
弟たちの大合唱。
リビングは笑いに包まれた。
誰もが安心して笑える“いつもの空気”だった。
でも、笑い声が落ち着いたあとも、
ニコラスはウィジュの隣から離れなかった。
控えめに、でも確かに。
ソファの端に座って、
毛布を胸まで引き上げながら、
肩と肩が触れる距離に座っている。
ウィジュが紅茶を飲もうとすると、
ニコラスの視線がふとそっちに向く。
「……飲む?」
「うん、ちょっとだけ。」
差し出されたカップを受け取って、
一口飲んで、温かさに目を細めた。
「……ありがとう、ウィジュ。」
「どういたしまして。」
ウィジュが微笑む。
少し間があって、
ニコラスがぽつりと呟く。
「昨日のこと、あんまり覚えてないけど……
でも、夢の中でもずっとウィジュがいた気がする。」
「夢でも?」
「うん。……手、握ってくれてた。」
ウィジュは少し照れくさそうに笑って、
「本当に握ってたよ」と優しく返す。
「そっか……なら、夢じゃなくてよかった。」
その言葉に、ウィジュの胸がふわっと温かくなった。
照れ隠しのように頭をかいて、
「もう、ほんとに。次は熱出す前に言えよ?」と呟く。
「うん……でも、また出たら……」
「ん?」
「……また隣、座ってて。」
ウィジュは少し言葉を失ったあと、
ふっと笑って頷いた。
「しょうがないな。
そのかわり、次はアイス枕も持ってくる。」
ニコラスが小さく笑う。
頬がまだ赤いのは熱のせいか、
それとも照れのせいか分からない。
リビングにまた笑い声が戻る。
そのど真ん中で、
ウィジュの肩にもたれて目を閉じるニコラス。
Kがこっそりスマホを構えて、
「これだけは保存する」と小声で呟いたのは、
たぶん全員が気づいてた。











編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。