『先輩!』
高い声が廊下に響き渡る。彼女だ、と思う間もなく背中に軽い衝撃。
『また背中丸まってるっすよ、ほら、背筋ピーンっす!』
『…ナツ』
小学生の頃よく目にしたランドセルのCMを模した言い方に笑う。懐かしいな、と。ハックが笑うと、ナツもつられて笑う。2人は自然と笑顔になる。ハックはその関係が──────ナツの笑顔が大好きだ。
大好き、だから。
「笑ってくれよ…ナツ……」
口をきゅっと引き結び、涙をボロボロと零すナツの頬に無理やり腕を上げて触れながらそう言った。
「2年前くらいに、ここの近くの十字路で事故に遭った男の子が悪霊になって事故を起こしているらしいっすよ」
「それはもう俺たちの活動の域超してないか?」
「え?」
いつも通り、ハックとナツは話していた。夏が本格的に始まる少し前。梅雨の時期、束の間の晴れ日だった。
「でも成仏出来ずに無念を晴らすためにいるって思うと胸が痛むっすよね」
「そうだなぁ…でも住職さんに頼むしかないよな。俺たちはただの高校生だし」
「…そうなんすかね?」
窓に目を向ける。遠くの空に分厚い鈍色の雲が広がっているのが見えた。そろそろ雨が降り出しそうだ。
「頭痛いな…」
「低血圧のせいっすね!」
「低気圧な」
「あれっ」
何ら変わったことのない会話。普通の会話で幸せを感じると同時に、何かが変わったらなぁとナツは思う。例えば関係性。先輩後輩ではなく──────
─────彼氏彼女、とか。
「ナツ顔赤いぞ?暑いのか?」
「付き合いたいとか思ってないっすよ!!」
「は?付き合う?」
「うわあぁなんでもないっす!」
怪訝な顔をするハックにあははと誤魔化す。誤魔化せているか怪しいが。
チラリと窓の外を眺め、頬杖をつく。何か──────取り分け、ハックとナツを説明する言葉が変わってくれればいいのに。一度『仲のいい兄妹ね~』と言われたことがあった。確かに高校生にしては少々……随分頭が足りていない自覚はあるが、妹に見られることなんて今まで無かったのに。
「ナツ?」
「はい?」
自分を呼ぶ声に顔をあげると、ハックがカバンを肩にかけながらこちらを見ている。帰るようだ。
「そろそろ雨降りそうだから帰ろうぜ」
「一緒にっすか?」
「…嫌か?」
小さく頬を膨らませるハックに内心盛大に吐血しながら「嫌なわけないっす!帰りましょうっす!」と返事をする。顔のニヤケが止まらない。気持ち悪いと思われなければいいが。
ちらりと横を見ると、ハックも嬉しそうに口元を緩めていた。最近、表情の変化が分かるようになってきたと言ったらハックはなんと言うだろう。
先輩可愛いな。笑った顔、珍しいな。
そんな珍しい顔を独り占めできる嬉しさと一緒に帰れる嬉しさで余計ににやにやが止まらず、「何笑ってんだよ」と言われてしまった。
✩.*˚
「十字路ってここだよな」
分かってた。分かってたけど、ここは予想を裏切って欲しかった。
学校を出て自宅方面へ歩き出さなかったハックを見て淡い期待を抱いたナツは数秒後に気づいた。
これ、例の十字路に向かっているんじゃないか。
いや、流石のハックでもそれは無いだろう。だってナツと言えどJKだ。2人きりの帰宅だ。ただの寄り道の可能性の方が高いだろう。いくら変わり者のハックだとはいえ、こんな全男子高生が望むシチュエーションを無駄にするわけない。いくらハックだとはいえ。
…ハックはどこまでもハックだった。十字路へ行く道中もずっとオカルトの話。まあそれはナツも好きだからいい。でも、ナツが道路側を歩いていたときさり気なく譲ってくれたと思ったら放った言葉が「先輩だからな」だ。こういう時くらい女の子扱いしてくれてもいいじゃないか。
…なんて文句を言っても「は?」と言われるだけなので心の中に留めておいた。
「そうっすねぇ…」
「…ガードレール」
すっと目線をずらしたハックが目を細めて言う。目線を追いかけると、原型を留めていないひしゃげたガードレールが見えた。ガードレールの足元には供え物であろう花束がいくつも置いてある。
「…罰当たりだな、俺」
霊仏と化した男の子に逢えるかもしれないという不順もいいところな理由でこの十字路に訪れたハックが呟く。ナツはフォローすることも咎めることも出来ずに、「…献花、忘れちゃったっすね」と言った。
「ああ」
「何かあるかな……あっ」
ぐっちゃぐちゃのプリントをかき分けて硬い何かに指が当たる。そのまま握り引き上げると、チョコポールだった。昨日コンビニで買ったものだ。
「これでも大丈夫っすかね?」
「子供なら喜ぶんじゃないか」
「そうっすね」
ガードレールに近づき、そっとチョコポールを置く。そのまま手を合わせた。横で人が動く気配がしたので、ハックも手を合わせているのだろう。
………──────苦しかったっすよね。痛かったっすよね。きっとまだ───生きたかったっすよね。
事故に遭った子は6歳の男の子らしい。小学一年生で、下校中の事故だったらしい。今のような梅雨の時期で、視界が悪い中信号無視した車が突っ込んできたらしい。挙句、救急車を呼ばずに逃げた。所謂当て逃げだ。そのせいで病院に運ばれた頃にはもう手遅れになってしまった。…それは悪霊になりたくもなる。ナツだってなるだろう。そしてその運転手を呪い殺すだろう。
君も…そうなんすかね。
手を下ろす。生ぬるい風がナツの栗色の髪を揺らした。ぶるりと身体が震える。
「帰ろう」
ハックが言う。「はいっす」と言いながらハックの隣に並んだ。
「…先輩、顔色悪いっすよ?大丈夫っすか?」
横に並んでようやく気づいたが、ハックの顔が青白い。いかにも体調が悪そうだ。
「だ…大丈夫だから」
「でも」
「平気だ。道、こっちであってるか?」
はっくが指したのはナツの通学路だ。首を振ってハックの家の方向を指さす。「こっちっす」
「家の方向一緒だったっけ」
「…そうっすよ!」
死人のような顔色で笑うハックが痛々しくて前を向く。急にどうしたのだろう。十字路に何かいた?
もしかして、男の子の悪霊が見えたのだろうか。
「お寺行くっすか?」
「なんで?」
「え…なんでって……」
視線を泳がせるナツの頭をぽんと撫でて「大丈夫だよ」と言うハックにそれ以上追及できず、ハックの家の前で別れた。不服そうなハックに「早く家入ってくださいっす!」と声をかけると、渋々と言ったように家に入っていった。ナツの姿が見えなくなるまで見送る気だったらしい。顔色見て驚くだろうな、と思った。
…それにしても、胸騒ぎがする。なんだかとても悪いことが起こる予感が。──────考えすぎだといいが。
後ろ髪引かれる思いで、ようやくハックの家の前から動き出した。
次の日。いつも通り友達と別れ、部室でハックを待っていた。
「遅いっすね…掃除当番っすかね?」
朝からザーザーと大粒の雨が降っている窓の外を眺めながら呟く。10分、20分……遅い。20分も来ないということは掃除当番では絶対にない。帰った?何曜が活動日なんて話はしたことがない。お互いが何となく部室に吸い寄せられて活動が始まるのが常だった。こんなことなら決めておけば良かった。
さすがに待ちきれなくなり、カバンを引っ掴んで学校を出る。傘をさしても意味が無いほど強い雨。
…なんだか、嫌な予感が昨日よりも強い。
ドクドクと脈打つ心臓を落ち着けたくて──────何故だか分からないが、例の十字路に向かっていた。
十字路に着くと、昨日はなかった人だかりができているのが見えた。もしかして、もしかして、もしかして。
「あのっ、何かあったんすか?!」
「あ、ああ…数十分前にここで交通事故が遭ってね。ここは交通事故が多いところだから嫌だねえって」
「事故に遭った人の特徴って分かるっすか!?もしかしたら知り合いかもしれなくてっ」
「えぇっと、確か近所の高校の詰襟を着ていたって話だったよ」
目の前が一瞬真っ暗になって、くらりと目眩がする。視界の端で傘がひらりと落ちるのが見えた。「大丈夫かい?」と体を支えられたが、それどころではない。
「他に特徴はっ」
「詳しくは知らないんだけど…黒い髪だったってことしか」
ハックだ。きっと交通事故に遭ったのはハックだ。
「お嬢ちゃん大丈夫かい?少し休んだ方が」
「多分、私の大切な人っす…!どこの病院に行ったか分かるっすか!?」
「いやそこまでは…多分だけど、ここからなら車で20分の総合病院だと思うよ」
「ありがとうございますっす!」
「行くのかい?」
「当たり前っすよ!」
おじさんが何かを叫んでいるようだが、聞こえない。申し訳ないが無視させてもらう。今はただ、ハックの安否を知りたい。
やっぱり、昨日あのまま帰さない方が良かったのだ。無理やりにでも聞くべきだった。事故に遭ったのはナツのせいでもあるのだ。
「先輩…せんぱいっ…!」
お願い、死なないで。病院までの道を、心臓がはち切れてしまうのではないかと思うほど走り続けた。
✩.*˚
「すみませんっ、ハックって患者はいますか!」
息をめちゃくちゃに切らして、全身滝行でもしたかのようにびしょ濡れで問うナツに看護師は何度も聞き返してきた。5度目でやっと聞き取ってくれた。
「ご家族の方ですか?」
「…恋人っす!」
ごめんなさい。今だけはこんな嘘を吐くことを許してください。こちらへどうぞと案内してくれる看護師について行く。廊下を進むほど背中にじんわりと嫌な汗が広がっていく。せめて、とできる限りタオルで拭いた。
質問は『ご家族』だった。『遺族』と聞かれなかったということは、ハックはまだ生きている。大丈夫、大丈夫…自分に言い聞かせながら永遠にも思えるほど長く感じる廊下を歩く。
病室に着いたところで案内してくれた看護師は別の看護師に呼ばれて去っていった。そちらの方が有難い。
震える指でドアをノックする。「…どうぞ」と、消え入りそうな声で返事が聞こえたので「失礼します」と答えてからドアを開けた。
ベッドの隣に顔色悪く腰掛ける婦女。ハックの母だろう。やつれた顔でナツを見ると、「どちら様?」と立ち上がりながら問う。怪訝な顔はナツがびしょびしょだからか。
「あっ、私、後輩のナツと言いますっ…。いつもお世話になっております!」
「そう…後輩……。ありがとうね、お見舞いに来てくれて…ハックも喜ぶと思うわ」
「いえいえ、ハック先輩にはいつも迷惑おかけしているのでこれくらい…」
言わなくていいことを言ってしまい、静かに口を閉じた。ハックの母はハックの頬に触れ、「ほら、後輩ちゃんが来てくれたわよ…早く起きなさいよ……」と呟いている。ハックは包帯やらガーゼやらに覆われた顔でスースーと寝息を立てている。痛ましさに眉をひそめた。
「事故…とお伺いしたのですが」
聞くか否か迷ったが、結局聞いた。我ながらデリカシーのない質問だ。でも、もしかしたら件の男の子が関わっているかもしれないと思うと聞かずにいられなかった。
「えぇ…高校の近くに十字路ってあるでしょう?」
「ありますね」
「そこで事故に遭ったみたいなの…雨で見通しが悪い中、スピードを出した車が突っ込んできたみたい」
「そ…うなんですね……」
聞けば聞くほど男の子と同じ状況だ。無関係だとは思えない。何より十字路での事故だ。
「あぁ…なんでこんなことに……」
ナツのせいだ。ナツがあんな…十字路の男の子の話なんてしなければ、ハックは男の子の存在も十字路に再び行くこともなかった。事故に遭ったのはナツのせいだ。
「…ごめんなさい」
無意識のうちに呟いた謝罪は、顔を覆ってすすり泣くハックの母には聞こえなかったようだ。
「大丈夫ですか?少し休んだ方がいいですよ」
徐々に泣き声が小さくなってきた頃そう言うと、ハックの母は申し訳なさそうに笑って「でも…」と言う。「先輩のそばには私がいますから」と言うと、少し迷った後に「お言葉に甘えさせてもらうわね」と言って、ハンカチを目にあてながら退出していった。
「…どうして何も言ってくれなかったんすか」
こんなことが言いたいわけじゃないのに。口から出てくるのは詰る言葉ばかりだ。
「どうしてひとりで行っちゃうんすか。どうして部活に来てくれなかったんすか。…一緒に帰れるの、楽しみにしてたんすよ……」
ハックの手を握りながら声をひねりだす。手にぽたぽたと水滴が落ちる。雨の残骸か、否。これは…涙か。何を泣いているんだ。人殺しの分際で。自分だって大切な人がいる人を殺してきたくせに。
自分の大切な人は奪って欲しくないとは何事か。
「せんぱぁい…おきてくださいっすよぉ……」
強く、手を握った。不意に、指がぴくりと動いた。
「先輩っ!?」
ガバッと立ち上がり顔を覗き込む。…その両目は固く閉じたまま。
「…また、沢山話したいっすよ……先輩…」
握ったハックの手にキスをして、ベッドにそっと置く。椅子に座ってハックの寝顔を見ていたら、ハックの母が帰ってきた。
「ありがとうね、ナツちゃん…ご迷惑じゃなければ、このあと少し時間貰えるかしら?」
「私は全然…!」
「良かった」と微笑むハックの母。ズキンと胸が痛む。ハックの母は耳元で「じゃあ今日は帰るから…また明日ね」と言ってから「行きましょう」と歩き出す。罪悪感で押し潰されそうだった。
✩.*˚
連れ立って来たのは病院の近くのファミレスだ。雨なだけあって、人が少ない店内は不気味なほど静かだった。
「本当に服、いいの?風邪ひいちゃうんじゃない?」
「いえ、全然!帰ったらお風呂入りますし!」
「じゃあせめてタオル使ってちょうだい」
差し出されたタオルにお礼を言いながら首周りにかける。ずっと髪から水滴が垂れていて気になっていたのだ。
「…こんなこと言ったらバチが当たりそうなんだけど……あなたが来てくれて良かった」
「そんな…」
「あの子、学校での話全くしてくれないの。小学校の頃は帰ってくるなり話し出すほど明るい子だったんだけど…中学2年生くらいからピタリと止まっちゃって。こっちから聞いても答えてくれなくなって…」
思春期特有のだとか男の子だからと言うより、別に原因がありそうだ。主に人間関係で。
「そんな子が最近、帰ってきたら表情が和らいでるの。いつも無表情で話しかけるなってオーラを出している子が。嬉しくって聞いたのよ。『何かあったの?』って。そしたら『面白い後輩がいるんだ』って話してくれたのよ。あなたの事ね」
「先輩が…」
ハックが自分のことをそんな風に言ってくれているなんて考えもしなかった。何より…自分の話を身内にしてくれたのだと思うと嬉しい。少しだけでもハックの内側に入り込めたようで。
「ハックも私もあなたに助けられたの。恩人よ。…ありがとうね、ナツちゃん」
「どういたしまして……でいいんですかね」
なんて言えばいいか分からず、頬をかきながらそう言うとハックの母も目尻にシワを作って笑った。
「ご迷惑じゃなければ、これからもハックと仲良くしてあげてくれる?」
「迷惑なんてそんな!むしろ私の方が仲良くしていただきたいです」
「ありがとう」
ハックの母と話しながら、ハックの身を案ずる。病室で寝ていたハック。生きている唯一の証は呼吸音だった。もとより白い肌はさらに白く、青く。巻かれた包帯による痛々しさ。目を逸らしてしまいたいほど傷ついた体。自分と、そんなふうに傷つけた犯人を絶対に許さないと誓った。
…動かなきゃ。
「今日は本当にありがとう。またいらしてね」
「こちらこそありがとうございました!またお伺いします!」
次はちゃんと見舞いの品を持っていこうと決めてレジに向かうと「私が払うわよ」と押し切られ、渋々財布をしまった。冷静に考えなくてもマトモな大人ならそうするだろうが。お辞儀してお別れし、傘をささずに走って帰った。ハックが起きるまでにやるべきことがある。
✩.*˚
場所はあの十字路。増えた花束はハックの事故分か。…まだ死んでないのに。
ナツも男の子用に買った献花を供え、手を合わせた。相変わらず降る雨が手を合わせるナツの邪魔をする。顔を上げ、すっと立ち上がった。
「ねえ、いるんすよね?」
ナツが呼びかける相手は勿論あの男の子だ。霊感がある訳では無いので、どこにいるか分からないし現れても見えるかどうか。
「君が先輩を連れて行こうとしてるんすよね?」
淀んだ風がナツの頬を撫でる。気持ち的には最悪だが、ナツは頬を緩めた。
「…見つけた」
カーブミラーの下に、佇む男の子ひとり在り。
「君、名前は?」
注意深く左右を確認してからカーブミラーへ近づく。男の子は動かなかったので、そのまま声をかけた。
「……」
答えない。まあ、想定内だ。
「名前ないんすか?」
スカートを履いてきたので迷いなく濡れた地面に膝をつけた。すると、今までなんのリアクションもなかった男の子の目が開き…驚いているのが伝わった。
「膝…」
「だって、人とお話する時は目を合わせなきゃいけないでしょう?」
相手は大人じゃない。小学一年生の男の子だ。見下さない目の合わせ方は心に入り込むのに丁度いい行為だ。…下心しかなくて若干胸が痛いが。
「君の名前を教えて欲しいっす」
都市伝説をまとめる掲示板には彼の名前は『カケル』と書かれていた。車を引っ掛ける、と言う意味じゃないかとネットは盛り上がっていた。不謹慎極まりない。
「…ゆたか」
「ゆたかくんっすか。漢字は豊?」
「…わからない」
「一年生っすもんね」
ゆたかは不満そうな顔でナツを見る。バカにすんなとでも言いたげの顔で。
「やさしいってどんな字?」
「優しい?えっと」
スマホを取り出し、優しいと打ち込む。「これっすよ」と見せると、「これでゆたか」と言った。優くんか。
「それで…たんとーちょくにゅーに聞くっすよ。ここで起こった事故は君の仕業っすか?」
「…やりたくてやったわけじゃないの」
「無意識ってことっすか?」
「……みんな、雨が降ってる中でもすごくスピード出してるの。だから危ないって思って手をのばしたらみんな引かれちゃうの」
伸ばした手が被害者を引き寄せてしまうのか。悪霊的な力か、はたまた偶然の積み重ねか。優の頭をもう一度撫でる。
「死んじゃったり傷ついてるすがたを見るのは嫌だよ。でもね……ボクもやっぱり寂しくて」
ぎゅっと服を握る優を見てナツはようやく気がついた。服が泥だらけで、体も異常なほど細い。全体的に清潔感がない格好だ。頭だけは最期に雨で流されたのか、汚れが目立たない。
「おねーちゃん、前にここに来たでしょ?あの時、おねーちゃんと一緒に逝ってもらおうと思ったんだ」
あの時の身体の震えは優がナツを連れて行こうとしたために生じたものだったようだ。でも、失敗した。ハックがナツを連れて帰ったから。
「また独りになっちゃうって思ったらすごく悲しくて泣いてたの。そしたらね、今度はハックおにーちゃんが一人で来たの」
「先輩が?」
「うん。それでね、ハックおにーちゃんが言ったの。「俺を連れて行け」って」
「…どうして……?」
「おねーちゃんに死んで欲しくないって言ってた」
「…」
「おねーちゃんが死んだら悲しむ人はいっぱいいるけど、自分は死んでも誰も悲しまないからって。おねーちゃんが死んだら自分も悲しいからって。それなら自分がいなくなるっていってたよ」
「……っ、ばか」
悲しむに決まってるだろうが。呼吸音と機械音が響く病室で声を押し殺しながら泣いていたハックの母。彼女の悲しみはどうなる。…ナツだって。ハックがナツが死んだら悲しいと思うように、ナツだってハックが死んだら耐えられない。自分だけじゃないんだぞ。
「だからね、おねーちゃんの魂はとらないよ。代わりにハックおにーちゃんのをもらう予定だから」
「私のに変えるっすよ」
「無理だよ」
「どうして!?」
「約束したんだ」
指切りをしたらしい。子供がよくやる契り。目の前に少年に効果はてきめんだ。だが、今はその純真さが恨めしい。
「先輩が死ぬなら私も死ぬっすよ!」
「別に良いけど、一緒には逝けないよ」
「なんでっすか!死んだら逝く先は一緒でしょう!?」
「“約束”だからね」
優はハックと逝くと約束をした。だから、約束していないナツとは逝けない。至極シンプルな理由だ。
「せんぱいのばか」
ただそれしか言えなくて、水溜まりの上にへたり込む。膝が痛い。頭も痛い。寒い。もうこのまま死んで、誰にも邪魔されずハックといつまでも一緒にいられたらどれだけ幸せだろう。
「…あいされるっていいね」
「…?」
唐突に呟かれた言葉の意味が理解出来ず、ぼーっと優の顔を眺めた。
「死んじゃったら悲しんでくれるでしょ。泣いてくれるでしょ。…あったかいじゃん」
やっぱり、この子は。
「優くん」
「風邪ひいちゃうよ」
吹っ飛んでいった傘をナツにさす。「さわれ…るんすね……」と言うと、「すごく体力を消耗するけどね」と言われた。
「おねーちゃんはまだこっちに来ていい人じゃないよ。…じゃあね」
「あっ、ちょっと!」
手を伸ばすが、優は霧のように消えてしまった。伸ばした手が重くなって水溜まりにバシャンと不時着する。ズキズキと頭痛は強くなっていく。
もう、ハックを助けることは叶わないのだろうか。
来る日も来る日も病院へ通った。ハックは依然として目を覚まさない。それでも通い続けているうちに、ハックの母から「後遺症があるかもしれない」という話を聞いた。絶対では無いが、可能性はあると。
お見舞いに行くと、ハックの母は絶対に2人きりにさせてくれる。最初は申し訳ないと思っていたが、今や日課のようになっている。
「先輩…」
手を握る。これもいつも通り。ハックが事故に遭う前はできなかったこと。
「…なんで勝手に決めるんすか」
ハックはいつもそうだ。相談せずに一人で決めて、突っ走って、ナツが気づく頃にはボロボロになっている。傷つくハックを見たくないから「相談してくださいっす」と事ある毎に言うのに、ハックは黙ってナツから離れていく。
「元気でいてくれたらそれでいいのに。」
ハックの母が言いそうなことを、ナツも言った。……そろそろ戻ってくる頃だろう。
「無理しないで…ゆっくり休んでいいっすから……」
そう言いながら、手にキスをしてベッドに戻す。棺に入った白雪姫に王子がキスをしたように。白雪姫のように、キスで目覚めるなんてことはないが。
「でも…やっぱり早く起きてくださいっす」
ハックの母が戻ってきたので、今日は帰りますと言って家に帰った。明日でも明後日でもいいから、何か状況が変わりますようにと祈りながら。
一日、二日…何も変わらないまま一週間が経とうとしたその時。
「ナツちゃん!」
スライドドアの前で忙しなくウロウロしていたハックの母がナツを見つけると興奮気味に声をかけてきた。
「どっ、どうしたんすか?」
最初は気にしていたナツの口癖もこの頃は気にしなくなっていた。
「ハックが…!」
その言葉を聞いた瞬間、ハックの母の存在を忘れて病室まで全力疾走していた。
「院内は走らないでください!」
鋭い注意の声。うるさい、今それどころじゃないんだ。無視して走っていると、ナツの足音にもうひとつ重なった。追いかけられている。曲がり角を上手く使って逃げながら病室へ走る。
「先輩っ!!」
窓の方をぼーっと見ていたらしいハックがびくりと肩を震わせ、こっちを見る。吸い込まれそうなほど真っ黒な瞳がナツを捕まえて───
「…ナツ」
ナツの名前を呼んだ。
「せんぱ」
駆け寄ろうとしたところで足音が聞こえてきた。「ヤバ…!」わたわたと慌てていると、ハックがナツを呼ぶ。「隠れてろ」と押し込まれた先は。
「失礼します」
「…なんですか?」
相変わらず響く声の後に続く、ハックの気だるげな声。「こちらにお見舞いの方はいらしていませんか?」と聞く声に「来てないっすよ」と答える。「…失礼いたしました」スンとした声でそう言うのが聞こえた後、ドアがしめられる。
「…出てきていいぞ」
そう言われてガバッと毛布を退ける。酸素不足と混乱で口が魚のようにパクパクと意味無く開閉する。
「なんてところに隠れさせるんすか!」
「ここ以外ないだろ」
「ベッドの陰とかあるでしょ!?」
声が大きくなっていくナツにハックは指を唇に当てる。しーっと言われて手で口を抑える。
「…心配したんすよ」
小さな声で言うと、ハックは苦笑しながら「ごめん」と謝る。ふと、ナツを見つめるハックの表情が柔らかいことに気づいた。目を逸らしながら問い詰める。
「先輩に聞きたいことがいっぱいあるんすよ、付き合ってもらうっすからね!?」
「いいけど、母さん来るぞ?」
小学生か。ツッコミそうになるのを堪えて、胸を張りながら答える。
「先輩が寝てる間に先輩のお母さんとは仲良くなったんすよ。私が来たら2人きりにさせてくれるっすから、心配ないっす。驚いたっすか?」
「いや、知ってたよ」
「はぁ!?」
くすくすと笑うハックにまた唇に指を当てられる。すっと手を口に添えた。しばらく可笑しそうに笑ったハックが種明かしをする。
「お前に俺が目覚めたって教えたのは誰だ?」
「そりゃ勿論先輩の…あっ」
考えてみたら当たり前のことだ。連絡をしてもらって知った、と言うのも考えられる。だが、息子のいい知らせをあんなに喜んでナツに知らせた親が自分よりナツを先に会わせるはずがないだろう。
「知ってたのに言ったんすか?」
「母さんがそんな施ししてたことは知らなかったからな」
「施しって」
ふふと笑ったナツに「そんなに面白かったか?」とハック。先輩が冗談を言うなんて珍しいから、と滲んだ涙を拭う。「泣くほど…?」心の底から慌てたような声を出したハックにまた笑いと涙が溢れる。さらに慌てるハックに意を決して口を開く。今なら自然に聞ける気がした。
「先輩、優くんとなんて“約束”したんすか?」
自然体を心掛けたが、目に見えてハックは固まった。あぁもうどうでもいいやと開き直り。ハックは「優って誰だよ、俺は今まで寝てたんだぞ」としどろもどろ反撃する。
「優くん本人に聞いたっす。…私の代わりに自分を連れて行けって言ったって。どうして一人で全部決めるんすか。どうして言ってくれなかったんすか。私の命も関わってるのに、」
「お前に言ったら反対しただろ」
言い返そうにも、図星を突かれて何も言えない。静かに口を閉じる。ハックは今までと打って変わって、瞳に冷たい光だけを残してナツを睨むように見つめる。
「それに隠し事してるのは俺だけじゃないだろ。お前だって俺に言ってないことがあるだろ」
「……」
反駁できないのは、ハックに隠している『隠し事』が余りにも大きいからだ。非人道的で、非道徳的で、嫌われるだけで済む隠し事ではない。……でも、どうしてハックはナツが『隠し事』をしていることを知っている?
「た…しかにっ、先輩に隠していることはあるっす。でもどうして知っているんすか?知っててずっと先輩は、」
「優が教えてくれたんだ」
「……優くん、が…」
もう何も言えない。ナツは、人のことは責めるのに自分は隠し事をし続ける屑に成り下がった。苦し紛れのどうして知っているのかという問いも、自分を屑たらしめる証拠付けをなるばかりだ。
───それでも、ハックの前ではキレイなただの“女の子”でいたかった。ウソツキでも、後でナツを責める罪悪感に苛まれようと、ハックにはただの“女の子”だと思っていて欲しかった。
「…もう帰れよ」
「せんぱ」
顔を上げて、ハックがもうナツを見ていないことに気づいた。あぁ、もう何を言ってもハックは聞いてくれないんだ…。そんな腐った気持ちがナツの体を動かす。
「どうして分かってくれないんすか」
ついでに口も。くるりと回れ右をして、来た道を駆け戻る。どうして分かってくれないんすか、なんて。分かっていないのはナツなのに。大切な誰かを守りたいという気持ちも、そのためならなんでも出来る気持ちも分かる。ナツだってハックに対して何度も感じてきた。だからこそ、自分が『守られる』立場になった初めて歯痒さを知った。痛みを知った。
「今日は…誰……」
涙がとめどなく溢れる中、今日のターゲットを脳内で品定めする。大好きな人にバレてもなお抑えられないこの衝動は病的で、異常で、そして──────ナツがナツである証拠だ。
鞄の中に手を入れる。手を冷やす感覚だけが蟻ほどの理性を繋ぎ止める。失望された。気味悪がられた。もうダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ。
私は人ならざるものなのかもしれない。
以前、衝動のままに人を殺めたあと空に浮かぶ月を見つめながらぼんやりとそう思ったことを思い出す。絶対に届かないと分かっているはずの月に手を伸ばし思いを馳せる。『普通の女の子になりたい』、そう祈った。普通の女の子なら願わないこと。
ハックの前だけでもいい。普通の女の子として振る舞わせて欲しい。好きになって欲しいだなんて思わない。ただ、少しでも『可愛い』と思って欲しかった。
ただ、それだけだ。
「優くん…いるんすよね?」
ぽつぽつと大粒の雨。直に豪雨になるだろう。
「どうしたの、おねーちゃん」
相変わらずにこやかな笑みを浮かべる優にゆらりと近づく。
「私を連れていって」
優は答えない。自分の顔はそんなにぐちゃぐちゃなのだろうか。…そんなこと考える余裕もなかった。顔を流れる液体は涙か雨粒か。ただ気持ち悪いということしか。
「先輩より先に私が死ねば私を連れて行ってくれるっすか?」
「…おねーちゃんは死ねないよ」
優が駄々をこねる子供をあやす様な声を出した瞬間、カバンから包丁を取り出した
──────つもりだった。
「なんで……?」
「言ったでしょ。おにーちゃんとボクは“約束”したんだ。おねーちゃんはおにーちゃんが死ぬまで死ねないよ」
包丁はまるで紙のように折り曲げられていて、使い物にならなくなっていた。カシャンと音が鳴るのを確認すると同時に崩れ落ちた。ありとあらゆる形でナツに『絶望』が押し付けられる。
これがナツの罰だと言うのか。
「…ボクだって、本当はおねーちゃんといきたいよ」
優の声色が変わった。少なくとも、ナツを宥めるものではなく、年相応のワガママ盛りの声。
「おねーちゃん『も』、あいされない痛みを知っているから」
「…君は……やっぱり…」
汚れた服に身を包んだ少年は悲しそうに笑う。彼はネグレクトを受けてきたのだ。いつからかは定かでは無い。だが、7歳という若さで亡くなってしまったその時までは確実に。
愛されたいと必死になり、それでも本当に自分を見て欲しい人の視線は自分に向かない。そしていつからか愛なんか最初から存在しなかったのだと諦め、全てに失望して期待せず生きていく。この世界に、『自分』として生まれてきてしまったことを後悔しながら。
………後悔したまま、優は死んでしまった。
「…お母さんはボクがお腹の中にいる時からずっと捨てようって思ってたんだって。本当はおろしたかったって、ずっと言ってた」
小さな身体に、愛されない要らない子という烙印を押され、どんな思いで7年間を生きたのだろう。諦めてしまうまで必死に愛を求めていた自分を否定して、どれだけ苦しいだろう。
「『親』ってだけで……『親子』ってだけで無条件にあいしてあいされるってことは、奇跡なんだよ」
誰が生んでやったと思ってる。そんなセリフを常日頃から吐かれたと言う。そのくせ、「あんたなんか要らない」までセットだったらしい。矛盾極まりないが、幼い子供は何度も心を殺されてきた。愛されたいという思いを殺されてきた。
「現に、お母さんは一度もお花をお供えしに来てくれてないんだ。少しだけ様子を見に行ったら、ボクが住んでいた家にお母さんはもういなかった。ボクが生きていた場所をお母さんは捨てたんだ。
でもしょうがないよね?だってボクは生きてる価値がなくて、誰にも望まれていなくて、『愛』されない子なんだから」
「そんなことないっ!!」
優の、優だけではなくナツの心までも的確に抉り取る言葉に気づけば叫んでいた。優は「じゃあどうして?」と苦い顔で問う。
「確かに…確かに、お母さんには愛されなかったかもしれない。でも、『今』もその状況は変わってないって、本当に断言出来るんすか!?」
病室で優の名を口にしたハックは、顔こそ険しかったものの、声は優しかった。自分の子の成長を喜べる親のように。優が求めている愛では無いが、それでも別の愛をハックはきっと持っている。
「出来るよ」
無感情と言えるほどの声色で優は言う。
「おねーちゃんはおにーちゃんを思い浮かべてるでしょ?違うよ。おにーちゃんのはあいじゃない。同情だよ」
「せ…んぱいは同情であんな顔できるほど器用じゃないっす!全部否定して決めつけんなっすよ!!」
その時、優の顔が初めて泣きそうに歪んだ。ここぞとばかりに畳み掛ける。
「先輩はオカルトマニアで人付き合いがヘッタクソで愛想笑いもできない陰キャっすよ!そんな人が誰かをあんな優しい顔つきで語ったんすよ!それなのに君は違うって切り捨てるんすか!?」
「ぼ…く、は……」
「私だってそうっすよ!私のも先輩のも、君が求めてる愛じゃないかもしれないけどっ……私だって君を愛おしいって思うっすよ!!」
それは、優が霊と化してしまったからではない。優が小さな体で必死に生き抜いた、一人の人間だからだ。この気持ちに嘘はない。
「全人類が優くんを嫌いなわけないでしょう。君は愛されなきゃいけなかった子っすよ。愛される人と出会わなきゃいけなかった子っすよ。生きている間に会えたら、きっと…」
くらりと目眩がする。「おねー……ちゃん…」もう優の声に、無理やり作った大人のような冷静さはなかった。こちらから優には触れられる。その小さくて立派な肩を、ナツはぎゅっと強く抱きしめた。
「よく頑張ったっすね。いい子っすね。偉い子っすね。大すきっすよ」
体が小さく震えたと思ったら、雨粒の間を縫って大きな泣き声が響いた。優がナツの前で初めて泣いたのだ。頭を撫でてやる。精一杯生きた、小さな勇者の頭を。
「生まれてきてくれて、ありがとう…」
一際泣き声が大きくなったなと思うのと、ナツの意識が暗闇へと引きずり込まれるのは同時だった。
「ナツちゃん!」
目が覚めると、真っ白な天井に……ハックの母の顔?
ガバッと起き上が───ろうとすると、ズキンと頭が痛む。
「無理しないで。ナツちゃん、雨の中倒れていたそうよ」
雨の中、何かを抱き込むような腕の形で倒れていたらしい。そう言えば、目が覚める前の最後の記憶は泣いている優を抱きしめていた時だ。
「無理させちゃったわよね、ごめんなさい。気遣ってあげられなくて」
「いえっ、私が勝手にぶっ倒れただけなのでっ!お気になさらず!!」
しばらく謝るハック母とナツとの小競り合いが続いたが、ハック母が折れる形で落ち着いた。
「今話すことじゃないと思うけど……ハックの話で。聞きたい?」
表情は暗い。今言うことじゃない、と言うことは嬉しい話じゃないのだろう。頷く。ハックのことは何一つとして漏らしたくない。
「後遺症が出るかもって…運動障害とか、まだよく分からないんだけど」
そうだ。生死の問題ばかり気にしていて、事故後のことはすっぱり抜けていた。事故に遭ったと言う人から聞くことが多いのは後遺症だ。ハックにも後遺症が出るかもしれない。
「ハックに聞いてみたら、腕が上がりにくいって言ってて…」
運動障害と調べたら例で出てくるのが腕の上がりにくさだ。後遺症が出るかも、ではなく、後遺症はもう出ている。しかし、医者でもなければネットで知識を得ただけのナツが口出ししていいものか。結局少し迷ってから言うことにした。
「調べてもらったら分かると思うんすけど、運動障害が出ると腕が上がりにくくなる人もいる……らしくて」
逃げずによく言った。この瞬間だけ、ナツは自分を褒めた。
「……そう、なのね」
「先生に詳しく調べてもらった方がいいと思うっす」
無知なナツが出来るのはここまでだ。不用意に不安を煽らず、でも警戒はしておくように伝えること。
「先輩に会いに行ってもいいっすか?」
「少し休んで大丈夫そうなら、お願いしたいわ」
「ありがとうございますっす!」
約束通り少し休むつもりで目を閉じると、思っていたより疲れていたようで。次に起きた時は病室に夕日が差し込む夕方だった。ハックの母ももういない。今出歩いていい時間なのかな、と思いつつベッドを出る。静かにドアを開けると、ハックの病室から少しだけ遠い場所だと分かった。看護師(見張り)がいないかを確認して病室を抜け出し、ハックの病室まで小走りで向かう。
コンコン、と軽いノックの後「…どうぞ?」と訝しげな声。このくらいの時間から来る人間はいないだろう。
「失礼しますっす…」
あの後一度も来ていなかったから、気まずいし何話せばいいか分からないしで一歩が小さくなる。ハックは小さなため息の後、「早く歩けよ」と言ってきた。
「あ…の、先輩……」
「ごめん」
ナツが言おうとした言葉を言われて、自分が言ったのかと混乱する。するとハックが続けて言った。
「言い過ぎた。人のこと言えないのは俺も同じなのに……ほんと、ごめんな」
ハックが謝るなんて。プライドが高いハックの口から謝罪が出てくるなんて。驚いた顔でハックを見つめるナツに、眉間に皺を寄せたハックが「なんだよ」と噛み付く。
「珍しいなって思ったんすよ」
「…俺だって悪いと思ったら謝るよ」
下手に出るハックが可笑しくてくすくす笑っていると、ムッとした顔のハックが座れよ、と言ってきた。これは怒っているのではなく、照れているのだろう。
「…優に会ったよ」
「どこで?」
ハックは出歩けないはずだ。優が病室まで来た?
「夢の中で…かな」
「……何か言ってたんすか?」
「…『ボクは『愛』を見つけたよ』って」
グッと唇を噛む。そうじゃなきゃ、泣いてしまいそうだったから。大切に想う気持ちが届いたことより、優が愛を知れたことが自分の事のように嬉しくて堪らなかった。
「…『愛』ってさ。ひとつだけじゃないんだよな。…当たり前のことだけど」
ハックが独り言のように語り出すのを、ナツは黙って聞いた。
「『愛』って言うと、恋愛を想像するだろ。でも実際には誰かが誰かを想う数だけ『愛』の形があるんだ。それは家族愛かもしれないし、仲間愛かもしれない。もしかしたら、『若者』っていう不特定多数の誰かへの愛かもしれない。でも全部『愛』なんだ。誰かを特別に大切に想うから、どれも全部正しくて、愛なんだ……ナツも」
「私?」
急に話を振られて声が裏返る。そんなナツを見て──────ハックは優に向けたような笑顔を浮かべた。
「“衝動”も誰かを傷つけるやつが許せないから起こるんだろ。『人』を大切に思うからじゃないのか?」
きっと、ナツのはそんなキレイなものじゃない。でも、それでも──────ナツも誰かを『愛』しているかもしれないと知れて、ほんの少しだけ嬉しくなった。胸がじんわりと温かくなる。本当は誰も愛することが出来ないロボットのような人間なのではないかと思っていたナツにとって、これ以上ない救いの言葉だ。
「……表現の仕方が不器用なだけで、ナツだって気持ちはあるんだよ」
「…先輩は詩人っすね」
目尻を拭いながら笑って言う。ハックは変わらず、優しい笑みを浮かべていた。
「なあ、ナツ」
開いた目のその眼光の鋭さに体が硬直した。束の間の晴れ日だったが、暗くなってしまった外と病室の明るさは大差ない。ハックの瞳だけが不自然に輝いている。
「俺を殺してくれないか?」
「……は?」
突然すぎる言葉に思考停止する。急に何を言っているんだ。『殺してくれないか』?は?
「俺のこの腕が上がりにくいって症状は後遺症だろ。運動障害あたりの。……この先ずっと、色んな人に迷惑かけることになるだろ。ちゃんと検査を受けたら、他にも後遺症が出てくるかもしれない。一生誰かに迷惑かけながら生きるなんか嫌なんだ」
言わんとしてることは分かる。分かる、だが。
どうして迷惑をかける前提で話が進んでいるんだ。
「リハビリである程度良くなるかもしれないじゃないっすか。働き方だって、今の時代人の数だけあるって言うっすよ。生き方なんて無限にあるのに、どうにかなるのに、どうして死ぬんすか?」
ナツの言葉は沈黙によって一蹴された。下を向く。すると、ハックの声が頭上から降ってきた。
「それでも、俺は周りより体のガタがくるのが早いだろ。働けなくなったあとどうする?親の手を借りるしかないだろ。親不孝しかできない。それなら、今以上に迷惑かける前に死んだほうがいいじゃないか」
ハックの言うことを否定しなければならないのに、ハックが言うと全て正しく聞こえてダメだ。ナツじゃ反論できない。
ハックに心酔してしまっているナツじゃ。
「…いい返事、期待してるからな」
そう言われて、半ば強制的に病室を追い出された。廊下をとぼとぼ歩いていると看護師とばったり出くわし、病室に戻ってから説教された。
どうしてこうもままならないのだろう。全部上手くいかない。誰かを守りたいと思っても、相手も自分を守りたいと思ってくれている。嬉しいことだが、それが今は事をこんがらがらせる要因となっているのだ。
床頭台に仕舞われたパーカーを取り出す。びしょびしょだった制服とカエルのパーカーは洗って貰えたらしい。ぎゅっと抱きしめると安心できた。
どうしたらいいのだろう。勿論ハックを殺めたくなんかない。でも…それが大切な人の願いだとしたら。それがナツしか叶えられないものだとしたら。右往左往する考えがナツの眠気を誘う。寝てから考えよう…猛烈な睡魔の前に、ナツには抗うという考えはなかった。
✩.*˚
ポカポカと暖かい。サラサラと川の流れる音。一面花畑だから、川があるのは少し遠目なのだと分かる。
……というか。
「ここあの世の手前じゃないっすか!」
よく死ぬと言ったら想像する景色が広がり、ナツは叫んだ。何故だ。ナツは死ぬのか。何も決断できやしないナツに死という最大の罰を与えられたのか。
「安心してよ、おねーちゃん」
「優くん…!」
見知った顔に安心して、涙が滲んだ。「ちょっと泣かないでよ」、と優。
「言ったでしょ?おねーちゃんはまだ死なないって」
「それはそうっすけど…ってあれ?」
ハックが事故に遭ったのは優と共に天に昇るためだろう。なら何故ハックはまだ死んでいないのだろう?いや勿論死んで欲しいわけではないが。
「先輩はまだ生きてるっすよ?…もしかして、私を代わりに連れていく気になったってことっすか!?」
「は?え、ちょっと待って?」
ハックが死んでいないということは、そういう事だろう。
「ほら行くっすよ!!三途の川はどこっすか!?」
「ちょっと待ってって!話聞いてよ!」
優の叫び声にピタリと足を止める。手を離してくるりと回れ右。膝立ちになって優が話し出すのを待った。
「全く…これはおにーちゃんも心配になるよ」
「ゔっ…ごめんなさいっす……」
「まあいいよ。早まらなかったから」
「反省してるから抉らないでっ!」
ナツが言うと、優がくすくすと笑う。随分と柔らかい表情をするようになったものだ。
「それで…私をここに呼んだのは?」
「ちゃんとお礼言えてなかったから…それと、 」
「え?」
優の声をかき消すように風が吹いて聞こえなかった。聞き返すも、優は笑顔のまま繰り返そうとしない。
「おにーちゃんも連れていかないことにしたよ」
「どうして?」
「もうひとりじゃないって分かったから」
「…そうっすね」
自然な大人っぽい笑顔に、ナツもつられて笑った。
「ボクはもう大丈夫。だから次はおねーちゃんの番だよ」
「私?」
「これからどうするの?おにーちゃんを殺すの?」
「…知ってるんすね」
「まあね。それで?殺すの?」
「殺して欲しいんすか?」
「別に?」
殺したくはない。でも、ハックが望むからそうするべきなんじゃないか。相反するふたつの思いがナツに迫り来るのだと説明すると、優はゆっくりと口を開いた。
「『そうするべき』で考えるから分からなくなっちゃうんだよ。『どうするべき』かより、おねーちゃんが『どうしたいか』が大事な時もあるんじゃない?」
「私が……どうしたいか…?」
「そう。それならもう答えは出てるでしょ?やる後悔よりやらない後悔の方がずっと辛いよ」
「…でも、私にはそんな権利ないっすよ。だって……私は……」
「たくさんの人を殺めたから?」
「!どうして、」
「おにーちゃんがおねーちゃんのことを知ってたのはなんで?」
「あぁ……」
そうだ。優が教えてくれたとか言っていた。この際どうして優が知っているのかは置いておく。肉体のない者になってしまった者のすることは肉体のある人間には想像できないものだろうから。
「そうっすよ。どんなに悪いやつでも、そいつを大切に思ってる人はいるんすよ。そんな奴らの命を私は奪ったんす。大切な人を奪ったんすよ。それなのに、私は大切な人を失いたくないなんておかしいじゃないっすか」
「いいじゃん、別に」
「良くないっすよ」
「どうして?だって、死んだ後に罰なんかいくらでも受けるじゃん。おねーちゃんはどうせもう地獄行きなんだから」
「……」
言い返せない自分が嫌だ。
「おねーちゃんはそれに見合う対価を払うんだから、1回くらい自分を押し通しても変わんないよ」
「…経験談っすか?」
「まだ天国か地獄かも分からないよ」
「まあここにいるってことはそうっすよね」
「地獄だったらおねーちゃんと一緒だね。まあボクは天国に行くつもりでいるけど」
「……きっと優くんは天国っすよ」
これで地獄だったらナツが閻魔大王のところまで乗り込むだろう。優は「きっと行くよ」と言って手を差し出した。
「お別れだよ。ボクももう行かなきゃ」
「行く……って、」
「川を渡るんだ。おねーちゃんとおにーちゃんのおかげで六文銭の代わりになるものも賜れたからね」
「ろくもんせん?」
「あの世で使うお金だよ」
「えっ、代わりでいいんすか?!」
「最近は六文銭なんて目にすらしないでしょ。だから、故人を想う気持ちとか、思い出の品とか、そういうのでいいんだって。ボクの六文銭はおねーちゃんとおにーちゃんの、」
「『愛』っすね」
「そういうこと」
優は楽しそうな顔を見せた後に、ナツに背を向ける。伸ばしかけた腕を反対の腕でぐっと押え、最後に声を張り上げる。
「自分がやりたいようにやるっす!だから…だからっ、見守ってて!!ありがとう、愛してるっすよ!」
優は二度とこっちを見なかった。代わりに、ボクも愛してるよ、と言う声が風に乗って聞こえてきた。
ボクはもう大丈夫。だから次はおねーちゃんの番だよ
今度はナツの番だ。優のように、後ろを向かずに歩いてみよう。
ハックに会いに、目を覚ますのだ。













編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。