前の話
一覧へ
次の話

第1話

1
59
2026/02/09 15:16 更新
2025年、1月3日。

人生で初めての大きな分岐点である「受験」を約一ヶ月後に控え、私は街の自習室にいた。

窓の外は、今にも泣き出しそうなほど低く、薄暗い冬の空が広がっている。
その冷え込みに呼応するように、室内には重たい沈黙が澱(よど)んでいた。

机の上には、使い古して角が丸くなった問題集。
何度もめくり、書き込み、必死に戦ってきたこの数年間。
それは、私が「彼ら」を真っ直ぐに愛し続けてきた時間とも、どこか似ていた。

ふと、張り詰めた糸を緩めるようにスマートフォンに手を伸ばす。
画面に浮かび上がったのは、一通の通知。

「いつも応援してくれているファンの皆様へ。」

その無機質な件名を目にした瞬間、指先から体温が逃げていくのがわかった。
本文を読み終えたときには、もう、自分の立っている場所がどこなのかさえ分からなくなっていた。

逃げるように開いたSNSのタイムライン。
そこには、驚き、悲しみ、怒り――色を失った無数の言葉が、目まぐるしい速さで流れていた。

それらをぼーっと見つめているうちに、信じたくなかった事実が、じわじわと毒のように現実味を帯びていく。
(……勉強しなきゃ。今は、考えちゃだめだ)
自分に言い聞かせ、無理やり視線を問題集に戻した。
現実から逃げ去りたかった。
けれど、印刷された文字はただの記号の羅列に変わり、どうしても頭の中に入ってこない。

ふいに、ページの上に小さな水滴が落ちて、文字を滲ませた。
視界が歪んでいく。
そこでようやく、私は自分が泣いていることに気づいた。
あまりにも静かで、無意識な涙。
それは、私の人生を色鮮やかに照らしていた「七色の虹」が、音もなく消えてしまったことを、心だけが先に理解してしまった証拠だった。

彼らの幸せを願うことは、ファンの義務だと思っていた。
けれど、届いたその一報は、私にとっては祝福の鐘ではなく、これまで築き上げてきた『私と彼ら』の関係性を断ち切る鋭い刃だった。
彼が選んだ未来に、私の居場所は、一ミリも残されていなかった。

私が自習室で歯を食いしばっていられたのは、
私の人生に彼らの音楽が、彼らの存在が、
純粋なまま流れていたからだ。

でもその瞬間、私の中にあった『聖域』に、私ではない誰かの気配が混じり込んだ。
大好きだった歌声が、別の誰かを想って歌われているように聞こえてしまう。
それは、私を支えていた背骨が、突然砂のように崩れていくような感覚だった。

そんな時、最推しの彼がいつか口にした言葉が蘇る。

『俺らがいなくても幸せになってほしい』。

この言葉は優しさなんかじゃない。
いつか今日みたいな日が来ることを予感していた彼からの、あまりにも冷酷な、けれど誠実な予言だ。
この時の私はこう考えることしか出来なかった。

家に帰っても、救いはなかった。
いつもなら優しく迎えてくれるはずの母の言葉さえ、今の私には鋭い棘となって刺さる。
「おめでたいことじゃない」 母はきっと、私を励まそうとしたのだと思う。
けれどその言葉は、私の心の奥底にある空洞をさらに広げるだけだった。

おめでたいなんて、一ミリも思えない。そう思えない自分は、ファン失格なのだろうか。

それからの日々は、まるで泥の中を歩いているようだった。
受験生としての日常は止まってくれない。模試を受け、塾に通い、ペンを握る。

けれど、ふとした瞬間に、無意識のまま口が彼らの歌を刻んでしまう。

(……あ、また歌ってる)

気づくたびに、胸が締め付けられた。

【たどり着くのは幻だとしても 今(ここ)に君がいればいい】

あんなに私を奮い立たせてくれたメロディが、今は自分を傷つける刃に変わっている。

「降りる」という言葉が、何度も頭をよぎる。
けれど、私の生活のすべては彼らでできていた。 カレンダー、スマートフォンの待受、勉強机の片隅。
どこを見ても彼らがいる。
彼らを消すことは、この5年間の自分自身を否定することと同じだった。

執着と絶望の狭間で、私はボロボロになった問題集を抱きしめる。
「助けて」とも言えず、ただ視界を滲ませる毎日。
この真っ暗な雨雲が、一生晴れることはないのだと、あの時の私は本気で信じていた。

――あの「奇跡」が起きる、3月までは。

プリ小説オーディオドラマ