第101話

095.おほけなく…② 🐢
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2023/11/25 11:00
樹音side
あなた
…樹音くん。
あなた
身の程知らずかもしれないけれど。でも私なら、あなたをちゃんと愛することができるのに。
そう、俺には目を向けず、ある意味夢見心地な表情であなたの下の名前は言う。
池亀樹音
っ、あなたの下の名前…?
あなた
え、あ、私もしかして今…、なんか喋った?!
どうやら無意識だったらしく、彼女は相当慌てている。


あなたの下の名前のその、おそらく何の打算もなく発せられたであろう言葉が、胸の奥を穿つ。これまで、打算も駆け引きも繕いもない恋なんて、したことがなかった。それを今、あなたの下の名前の言葉に突き付けられたようで、穴の開いた心が、悲鳴をあげる。
池亀樹音
うん、あなたの下の名前なら、俺をちゃんと愛してくれるって…。
あなた
引いたよね、ごめん。何でもない、忘れて。
あなた
次、授業あるから行くね。
それから彼女は大きな音を立てながら椅子を引くと、ずっと俯きながら食堂を出ていく。


俺は、そのあまりの必死さに、財布…、彼女が忘れていった財布を、渡すことすら出来なかった。
メールしようが電話しようが、日中あなたの下の名前と連絡はとれず。仕方がないので俺は女の子らしいパステルカラーの財布を預かっていた。


そして、夜になったら連絡付くかなと思い電話したところ。思いのほかすんなりと、電話口から彼女のはっきりとした声を聴くことができた。
池亀樹音
「もしもし、あなたの下の名前?財布さ、忘れていったでしょ。」
むこうから「あ」という絶句が聞こえたところから察するに、おそらく全く気付いていなかったのだろう。彼女はしっかりしているわりに、そういうところは抜けている。
あなた
「また明日持ってきてもらっていい?今晩はどうにかなりそうだから…。」
池亀樹音
「おっけ、了解。」
それからしばらく、扱い方の分からない沈黙がその場を支配した。古い学生マンションの電気が、頼りなくちかちかと点滅する。


切り出したのは、あなたの下の名前の方からだった。
あなた
「あのさ、ごめんね今日は。変なこと言って、挙句の果てに財布忘れるし…。」
池亀樹音
「あれってさ、本気で言った?」
あなた
「っ…。本気。身の程知らずだけど。…引いたよね?」
身の程知らず。
昼間も言われた言葉が、また頭の中にこだまする。


彼女は、俺のことをどれほどの男だと思っているのか。
自分は、それほど俺に釣り合わないとでも思っているのか。


俺は、これまでたいして意識したことすらなかったのに、今こうやって甘美な雰囲気を味わっているだけで、そんな気分になるような、クズ男なのに。
池亀樹音
「……たぶん、恋じゃない。」
あなた
「え…、なんて?」
池亀樹音
「……恋じゃなくて、思い込みかもしれないけど…。」
池亀樹音
「今あなたの下の名前を俺のものにしたいって思ってる。…だから…、覚悟しててね?」
独占欲強めで。寂しがり屋で。そのくせ塩対応で。


…あなたの下の名前、俺みたいなクズ男が、君みたいな子を自分のものにしようとしていることの方が、きっと幾倍も身の程知らずだよ。
095.おほけなく うき世の民に おほふかな
     わが立つ杣に 墨染の袖
      前大僧慈円


分不相応ではあるけれど、つらいこの世を生きる人々に覆いかけたいものだ。私が住みはじめた比叡山での仏への祈りを。

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