樹音side
そう、俺には目を向けず、ある意味夢見心地な表情であなたの下の名前は言う。
どうやら無意識だったらしく、彼女は相当慌てている。
あなたの下の名前のその、おそらく何の打算もなく発せられたであろう言葉が、胸の奥を穿つ。これまで、打算も駆け引きも繕いもない恋なんて、したことがなかった。それを今、あなたの下の名前の言葉に突き付けられたようで、穴の開いた心が、悲鳴をあげる。
それから彼女は大きな音を立てながら椅子を引くと、ずっと俯きながら食堂を出ていく。
俺は、そのあまりの必死さに、財布…、彼女が忘れていった財布を、渡すことすら出来なかった。
メールしようが電話しようが、日中あなたの下の名前と連絡はとれず。仕方がないので俺は女の子らしいパステルカラーの財布を預かっていた。
そして、夜になったら連絡付くかなと思い電話したところ。思いのほかすんなりと、電話口から彼女のはっきりとした声を聴くことができた。
むこうから「あ」という絶句が聞こえたところから察するに、おそらく全く気付いていなかったのだろう。彼女はしっかりしているわりに、そういうところは抜けている。
それからしばらく、扱い方の分からない沈黙がその場を支配した。古い学生マンションの電気が、頼りなくちかちかと点滅する。
切り出したのは、あなたの下の名前の方からだった。
身の程知らず。
昼間も言われた言葉が、また頭の中にこだまする。
彼女は、俺のことをどれほどの男だと思っているのか。
自分は、それほど俺に釣り合わないとでも思っているのか。
俺は、これまでたいして意識したことすらなかったのに、今こうやって甘美な雰囲気を味わっているだけで、そんな気分になるような、クズ男なのに。
独占欲強めで。寂しがり屋で。そのくせ塩対応で。
…あなたの下の名前、俺みたいなクズ男が、君みたいな子を自分のものにしようとしていることの方が、きっと幾倍も身の程知らずだよ。
095.おほけなく うき世の民に おほふかな
わが立つ杣に 墨染の袖
前大僧慈円
分不相応ではあるけれど、つらいこの世を生きる人々に覆いかけたいものだ。私が住みはじめた比叡山での仏への祈りを。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。