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第5話

今夜は、(紬)
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2026/02/04 19:06 更新
部屋に灯りがついているだけで、胸の奥がほどける。

ソファに腰を下ろしてクッションを抱えたまま、僕はキッチンの方をちらりと見た。
包丁がまな板に当たる音が二回。
それから、電子レンジの短い終了音。

……うん。
この流れ、もう覚えてる。

テーブルに並んだのは、温めただけの惣菜と、切っただけのサラダ。
それなのに、ちゃんと“夜ごはん”の顔をしているのが不思議だ。

『できたよ』

落ち着いた声でそう言われると、なんだかこちらまで胸を張りたくなる。

「ありがとう。……しゅうさん、これ」
『うん』
「温めただけでしょ」

指摘すると、一瞬だけ視線が泳いでから、何でもないふうに頷いた。

『そうだね。でも、盛り付けは大事だから』

堂々としてる。
料理ができないくせに、そこだけは一丁前なのが、この人らしい。

「向かい合って食べよ」
『そうだね』

向かい合って座る。
それだけで、今日一日の終わりが、ちゃんと“帰ってきた”ものになる。

「いただきます」
『いただきます』

箸を伸ばすタイミングまで、なぜか自然に揃う。
そんな小さなことが、たまらなく嬉しい。

「これ、結構好き」
『そう?』
「うん。しゅうさんが選ぶやつ、外れない」

からかうように言ったのに、柊司さんは小さく笑った。

『紬くんの好みは、だいたい分かるから』

当たり前みたいに言うから、胸がじんわり温かくなる。

向かい合って、顔を見て、ご飯を食べる。
それだけなのに、どうしてこんなに満たされるんだろう。

「ねえ」
『なに』
「こうしてるとさ……幸せだなあって思う」

少し照れたけど、目は逸らさなかった。

『……私もだよ』

低くて、静かな声。
感情を大きく乗せないのに、ちゃんと同じ温度なのが分かる。

それからは、本当にどうでもいい話をした。
この惣菜美味しいね、とか。
もうすぐ桜だね、とか。
春は洗濯物増えるね、なんて話まで。

「桜、見に行こ」
『いいね。近所で』
「うん。一緒ならどこでもいい」

そう言ったら、少しだけ目を細められた。

食べ終わって、名残惜しくて、少しだけ動きをゆっくりにする。

「じゃあ、洗い物――」
『ああ、今日は私がやるよ』

被せるような即答。

「え、昨日もしゅうさんだったじゃん」
『いいよ』
「よくないってば。半分こにしよ」

立ち上がろうとした瞬間、軽く腕を取られる。

『今日は、紬くんは先にお風呂』

……今日は。

たった一言なのに、胸の奥がざわついた。
理由もないのに、心拍が少しだけ早くなる。

「……次は僕がやるからね」
『うん、次は』

その「次」がいつ来るのか分からないのも、分かってる。
それでも、“今日は”が頭から離れなかった。

お風呂場に向かいながら、変に意識してしまう。
先にお風呂。今日は。夜。

シャワーを浴びながら、考えないようにしても、考えてしまう。

鏡に映る自分の体。
細い肩、柔らかい線。

……比べるの、よくない。

柊司さんの、服越しにも分かる体温とか、背中の厚みとか。
触れたら落ち着く、あの感じ。

「……ばか」

小さく呟いて、シャワーを止めた。

脱衣所でタオルを取って、髪を拭く。
いつもの流れで、ドライヤーを取ろうとして――

ない。

棚をもう一度開けて、確認して、
それでも見当たらなくて、首を傾げる。

「……あれ?」

脱衣所を出ると、リビングのソファに柊司さんがいて、
片手には本。

ページをめくる音が、やけに静かに響いた。

「あの、ドライヤー……脱衣所になかったんだけど……」

顔を上げた柊司さんが、一瞬だけ「あ」と言うみたいな顔をする。

『ああ。こっちに持ってきてたんだ』
『言ってなかったね。ごめん』

悪びれもせず、そう言って、手招きする。

『髪、乾かそうか』

心臓が、また跳ねた。

「……うん」

近づきながら、ちらっと顔を上げる。

「……髪、乾かしてくれるの?」
分かってて、聞いている。

柊司さんは一瞬だけ目を細めて、

『当たり前だよ』

そう言ってから、ほら、とでも言うみたいに、
膝を軽く叩いた。

そこに座って、温風に包まれる。
指先が、丁寧に髪を梳く。

近い距離。
背中越しに伝わる、静かな呼吸。

——今日は、だよね。

期待が、勝手に形を持ち始める。

ドライヤーが止まる。

背中を見送って、先に部屋へ戻る。

マグカップを両手で包むと、じんわり熱が伝わってきた。
甘い匂いに、少しだけ肩の力が抜ける。

ソファに腰を下ろして、一口。

……あったかい。

テレビもつけず、ただ待つ。
時計の秒針と、自分の呼吸の音だけがやけに大きい。

さっきの「今日は」が、頭の中でまだ残っている。

今日は、先にお風呂。
今日は、だよね。

カップが空になるころ、廊下の方から足音がした。

ドアが開いて、湯上がりの気配が流れ込む。

『待たせたね』

その一言だけで、胸がきゅっと鳴る。

「ううん……大丈夫」

少しだけ視線を上げると、目が合って、
すぐに逸らされる。

『……じゃあ、ベッド行こうか』

それが、どこを指しているのか分からなくて、
でも分からないまま、立ち上がる。

背中を向けて歩く姿を、また追いかけてしまう。

それから、先にベッドに入る。

シーツの冷たさが、少しだけ落ち着かない。

隣に沈む気配。
距離は、触れないくらい。

『……今夜は』

低く落ちた声に、心臓が跳ねた。

続きを待ってしまった自分が、恥ずかしい。

少しの間。
それから。

『……無理しなくていいから』

その一言で、全部分かった。

緊張してたのも、期待してたのも、
ちゃんと気づかれてたんだって。

指先が、そっと触れてくる。
絡められて、逃げ場がなくなる。

『おやすみ、紬』

「……おやすみ」

それだけ。

何も起きない。
でも、繋いだ手は離れなくて、
腕が、静かに回される。

抱き寄せられて、胸に額が触れる。
強くも、求めてもいない。
ただ、安心させるみたいな腕。

……ずるい。

期待して、緊張して、
それでも最後は、にっこりしてしまう。

何も起きなかった夜。
でも、ちゃんと愛されている夜。

そのまま、静かに眠りに落ちた。



今夜は、

それで十分だった。

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