部屋に灯りがついているだけで、胸の奥がほどける。
ソファに腰を下ろしてクッションを抱えたまま、僕はキッチンの方をちらりと見た。
包丁がまな板に当たる音が二回。
それから、電子レンジの短い終了音。
……うん。
この流れ、もう覚えてる。
テーブルに並んだのは、温めただけの惣菜と、切っただけのサラダ。
それなのに、ちゃんと“夜ごはん”の顔をしているのが不思議だ。
『できたよ』
落ち着いた声でそう言われると、なんだかこちらまで胸を張りたくなる。
「ありがとう。……しゅうさん、これ」
『うん』
「温めただけでしょ」
指摘すると、一瞬だけ視線が泳いでから、何でもないふうに頷いた。
『そうだね。でも、盛り付けは大事だから』
堂々としてる。
料理ができないくせに、そこだけは一丁前なのが、この人らしい。
「向かい合って食べよ」
『そうだね』
向かい合って座る。
それだけで、今日一日の終わりが、ちゃんと“帰ってきた”ものになる。
「いただきます」
『いただきます』
箸を伸ばすタイミングまで、なぜか自然に揃う。
そんな小さなことが、たまらなく嬉しい。
「これ、結構好き」
『そう?』
「うん。しゅうさんが選ぶやつ、外れない」
からかうように言ったのに、柊司さんは小さく笑った。
『紬くんの好みは、だいたい分かるから』
当たり前みたいに言うから、胸がじんわり温かくなる。
向かい合って、顔を見て、ご飯を食べる。
それだけなのに、どうしてこんなに満たされるんだろう。
「ねえ」
『なに』
「こうしてるとさ……幸せだなあって思う」
少し照れたけど、目は逸らさなかった。
『……私もだよ』
低くて、静かな声。
感情を大きく乗せないのに、ちゃんと同じ温度なのが分かる。
それからは、本当にどうでもいい話をした。
この惣菜美味しいね、とか。
もうすぐ桜だね、とか。
春は洗濯物増えるね、なんて話まで。
「桜、見に行こ」
『いいね。近所で』
「うん。一緒ならどこでもいい」
そう言ったら、少しだけ目を細められた。
食べ終わって、名残惜しくて、少しだけ動きをゆっくりにする。
「じゃあ、洗い物――」
『ああ、今日は私がやるよ』
被せるような即答。
「え、昨日もしゅうさんだったじゃん」
『いいよ』
「よくないってば。半分こにしよ」
立ち上がろうとした瞬間、軽く腕を取られる。
『今日は、紬くんは先にお風呂』
……今日は。
たった一言なのに、胸の奥がざわついた。
理由もないのに、心拍が少しだけ早くなる。
「……次は僕がやるからね」
『うん、次は』
その「次」がいつ来るのか分からないのも、分かってる。
それでも、“今日は”が頭から離れなかった。
お風呂場に向かいながら、変に意識してしまう。
先にお風呂。今日は。夜。
シャワーを浴びながら、考えないようにしても、考えてしまう。
鏡に映る自分の体。
細い肩、柔らかい線。
……比べるの、よくない。
柊司さんの、服越しにも分かる体温とか、背中の厚みとか。
触れたら落ち着く、あの感じ。
「……ばか」
小さく呟いて、シャワーを止めた。
脱衣所でタオルを取って、髪を拭く。
いつもの流れで、ドライヤーを取ろうとして――
ない。
棚をもう一度開けて、確認して、
それでも見当たらなくて、首を傾げる。
「……あれ?」
脱衣所を出ると、リビングのソファに柊司さんがいて、
片手には本。
ページをめくる音が、やけに静かに響いた。
「あの、ドライヤー……脱衣所になかったんだけど……」
顔を上げた柊司さんが、一瞬だけ「あ」と言うみたいな顔をする。
『ああ。こっちに持ってきてたんだ』
『言ってなかったね。ごめん』
悪びれもせず、そう言って、手招きする。
『髪、乾かそうか』
心臓が、また跳ねた。
「……うん」
近づきながら、ちらっと顔を上げる。
「……髪、乾かしてくれるの?」
分かってて、聞いている。
柊司さんは一瞬だけ目を細めて、
『当たり前だよ』
そう言ってから、ほら、とでも言うみたいに、
膝を軽く叩いた。
そこに座って、温風に包まれる。
指先が、丁寧に髪を梳く。
近い距離。
背中越しに伝わる、静かな呼吸。
——今日は、だよね。
期待が、勝手に形を持ち始める。
ドライヤーが止まる。
背中を見送って、先に部屋へ戻る。
マグカップを両手で包むと、じんわり熱が伝わってきた。
甘い匂いに、少しだけ肩の力が抜ける。
ソファに腰を下ろして、一口。
……あったかい。
テレビもつけず、ただ待つ。
時計の秒針と、自分の呼吸の音だけがやけに大きい。
さっきの「今日は」が、頭の中でまだ残っている。
今日は、先にお風呂。
今日は、だよね。
カップが空になるころ、廊下の方から足音がした。
ドアが開いて、湯上がりの気配が流れ込む。
『待たせたね』
その一言だけで、胸がきゅっと鳴る。
「ううん……大丈夫」
少しだけ視線を上げると、目が合って、
すぐに逸らされる。
『……じゃあ、ベッド行こうか』
それが、どこを指しているのか分からなくて、
でも分からないまま、立ち上がる。
背中を向けて歩く姿を、また追いかけてしまう。
それから、先にベッドに入る。
シーツの冷たさが、少しだけ落ち着かない。
隣に沈む気配。
距離は、触れないくらい。
『……今夜は』
低く落ちた声に、心臓が跳ねた。
続きを待ってしまった自分が、恥ずかしい。
少しの間。
それから。
『……無理しなくていいから』
その一言で、全部分かった。
緊張してたのも、期待してたのも、
ちゃんと気づかれてたんだって。
指先が、そっと触れてくる。
絡められて、逃げ場がなくなる。
『おやすみ、紬』
「……おやすみ」
それだけ。
何も起きない。
でも、繋いだ手は離れなくて、
腕が、静かに回される。
抱き寄せられて、胸に額が触れる。
強くも、求めてもいない。
ただ、安心させるみたいな腕。
……ずるい。
期待して、緊張して、
それでも最後は、にっこりしてしまう。
何も起きなかった夜。
でも、ちゃんと愛されている夜。
そのまま、静かに眠りに落ちた。
今夜は、
それで十分だった。












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。