第10話

礼に始まり、射に至る
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2026/03/03 12:03 更新
あなた side

会場を満たすざわめきが耳に入り込んでくる。

拍手、弦音、床を踏む音___________それらが混ざり合い、
胸の奥を微かに揺らしていた。

僕は準備室の隅で、弽の準備や弓の状態を確かめていた。

弦の張り、矢羽の向き、手に馴染む感触。

一つひとつを指先で確かめながら、
心の内では呼吸を整えていた。

ゆっくりと息を吸い、吐く。

鼓動が少しずつ、いつもの速さに戻っていくのを感じる。
緊張してる?
不意に、頭上から声が落ちてきた。

僕は顔を上げると、視界に入る大きな瞳が映し出される。

ふわりと額にかかる前髪が揺れ、どこか余裕のある表情を浮かべた
蛍火ほたるびゆうの姿があった。

それに僕は、
あなた
そんなことないよ
それより、あっちの一年生の方が、
僕たちより緊張してるんじゃない?
視線を向けると、そわそわとした様子の一年生たちが目に入る。

腹を押さえたり、何度も深呼吸を繰り返したり。

その必死な様子に、自然と目が細くなる。

三年生の自分たちより、
ずっと張り詰めた空気を漂わせる一年生たちから視線を戻し、
再度幽を見る。
あなた
行ってあげたら?
その言葉と一緒に、僕は静かに幽へと目線を向ける。
蛍火 幽
まったく……
そんな独り言が幽の口から溢れでる。

しかし幽はすぐに笑みを浮かべ、「わかったよ」と一言。

その背中を見送ると、僕は再び一人の時間へと戻る。

胸の奥でなる鼓動に耳を澄ませながら、もう一度、深く息を吐いた。
正直、幽のあの一言は図星をついていた。

僕は平常心を装っていたものの、
心臓は耳元でなっているのではないかと思うほど、
激しく鼓動していた。

深く息を吸って吐き、「いつも通り」を取り戻そうとするたび、
うまくできない自分の未熟さに気づく。

視線を床へと落とし、気持ちを整えようとしていた、
そのときだった。
やあ、浅羽君
不意に、背後から僕の名前を呼ばれる。

聞き覚えのある声に、僅かに肩が跳ねた。

ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは__________
藤原 愁
合同練習ぶり、だろうか
藤原ふじわらしゅう

あの時と変わらない、穏やかな笑みを浮かべていた。

その笑顔に胸の奥がチクッと何かが刺さる音が聞こえたが、
今は何か返さねばと思い、口を開く。
あなた
……藤原くん
けれど、名前を呼んだだけで、
続く言葉が喉につかえてしまった。

気まずい沈黙が流れる中、
藤原は気にした様子もなく、
もう一度小さく微笑む。
藤原 愁
湊たちは観客席にいるよ
どうやら、無意識のうちに湊の姿を探していたらしい。

僕の目線だけで気づいた藤原に、僕は思わず目を見開いた。

次の瞬間には、彼はふっと力の抜けた笑みを浮かべ
藤原 愁
今回は残念だったけれど、
君と戦えることを楽しみにしているよ
そう最後に言い残し、去っていく藤原の背を、
ただ僕は意味もなく見つめていた。

そして、その後に呼ばれた僕の名前で、僕はその場を後にした。
白陵の戦績は、団体戦二十射十九中という
圧倒的な結果で優勝を勝ち取った。

一方で僕は、個人戦で二位。

悔しさがないと言えば嘘になるが、不思議と心は静かだった。

一位は桐先の貴公子____________「藤原愁」。

その名を轟かせ、弓道全国大会は幕を閉じた。
あなた
ざわめき中、その声だけが、やけに大きく、耳に入り込んだ。

話し声や笑い声に埋もれず、まっすぐに響く声。

きっと、呼びかけられた人物にははっきりと聞こえていたのだろう。
鳴宮 湊
あなた……
帰り際、会場のエントランスで湊を見つけた。

その隣には、僕たちを静かに見守るような視線を向ける竹早がいた。

何も言わず、ただ状況を見据えるようなその眼差しに、
僕は臆することなく湊に向き直る。

空気がほんの一瞬だけ張り詰めた気がした。

その中で、僕と湊の視線が、確かに交わった。
鳴宮 湊
どうして……ここに
湊は驚いたように、そう口にした。

大会だから、当然僕だっている。

そんな当たり前のことすら頭から抜け落ちるほど、
湊は動揺していたのだろう。
あなた
藤原くんが教えてくれた
僕はそう素直に言うと、
湊はハッとしたように目を見開く。

瞬きの回数が増え、視線が定まらない。

その様子に、僕は少しだけ胸が詰まるが、
お構いなく口を開く。

割れた音を確かめるために_________
あなた
ねぇ、湊
湊なら___________
__________湊なら、早気なんてすぐに治せる。

__________そうでしょ?

そう、言おうと勇気を振り絞って出した声。
鳴宮 湊
あなた!
言いかけた言葉が、
湊の叫び声にも似た呼びかけで遮られた。

強く、必死な声だった。

周囲のざわめきや笑い声は、遠くでぼやけていく。

まるで、湊と僕しかいないような、そんな感覚。

そして、目の前には唇を噛み締め、
今にも泣きそうな顔をした湊だけがいた。

拳は爪が食い込むほど硬く握られている。

震えを抑え込もうとしているのが、自然と伝わってきた。
鳴宮 湊
お前も……おれに失望したんだろ?
その言葉を聞いた瞬間___________

僕は目を見開いた。


____________は?僕が?湊を?失望?


僕は喉の奥をひくりと動かす。

冷静を保てと僕は手を握りしめる。

しかし、沸々と湧き立つ何かが、それを遮った。

僕はいつの間にか湊に近寄り、湊を睨みつけていた。

僕の身長では湊を見上げる形になるので、
威圧感はなかった思うが、
今の湊にはこれぐらいでも効いたようだった。

湊は握りしめていた手を開いていた。

おそらく、僕が胸ぐらを掴むかもしれないと、
咄嗟に取った行動だったのかもしれない。

生憎、僕はそんな力はないし、
胸ぐらを掴んだとしても、
すぐに振り払われてしまうだろう。

それに、僕はそんな乱暴なことを湊にしたくない。

これが、最後に残っている僕の理性だった。
あなた
そんなこと、一言も言った覚えないよ
湊を威圧するように、僕は低い声を意識的に出す。

自分は普段は温厚な奴だと思っている。

こんな声を出すのは本当に稀だった。
鳴宮 湊
……
湊は、そんな僕の様子についていけなかったのか、
湊は目を大きく見開き、
後退りする一歩手前で固まっている。

そして次の瞬間には、苦痛に歪んだ湊の表情が、
視界いっぱいに広がった。
あなた
……ごめん
僕はハッと我に帰り、咄嗟に謝る。

少し、頭に血が上りすぎていたみたいだ。

僕は自分を落ち着かせるように一度、深く息を吐く。

湊は俯いたまま。

唇を噛み、何かを必死に耐えているような顔をしていた。

もう、これ以上何かを言えば、
逆に壊れてしまいそうな気がした。

だから僕は
湊に向けて、一言だけ___________
あなた
また、電話する
鳴宮 湊
……うん
僕は白陵弓道部がいるスペースへ戻るため、
湊に背を向けて歩き出した。

人気がまばらとした廊下にたどり着いた頃、
僕は壁に寄りかかり、そのままずるずるとしゃがみ込む。

僕は、熱を覚ますように目を閉じた。

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