春の風が、蝶屋敷の庭を撫でていく。
桃色と白が混じる藤の花が、重なり合うように垂れていた。
その下に立つ少女──栗花落つむぎは、静かに箒を動かしていた。
あれから幾年かの月日が流れた。
蝶屋敷の主となった栗花落カナヲのもとで、つむぎは薬学も治療も学び、今では自分の手で誰かを癒せるようになっていた。
けれど、その瞳の奥にはいつもあの日の自分がいた。
怯え、声も出せず、ただ助けられることしかできなかった“あの少女”が。
──もう、誰もあんな思いをしないように。
つむぎは箒を立てかけ、空を見上げた。
藤の花びらが風に乗って舞い上がる。
その瞬間、庭の隅からかすかな嗚咽が聞こえた。
「……泣いてるの?」
声を向けた先に、小さな影があった。
年の頃はかつての自分と同じくらい。
着物の裾は泥に汚れ、髪は乱れていた。
少女は怯えたように顔を上げ、つむぎを見た。
「こわい……行くところが、ないの」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。
まるで過去の自分が、もう一度目の前に現れたようだった。
つむぎはそっと膝をつき、少女と目線を合わせた。
「大丈夫。もう、怖くないですよ」
穏やかに微笑みながら、手を差し出す。
少女はためらいながらも、その手を握った。
指先が震えていたけれど、離そうとはしなかった。
「ここは蝶屋敷。傷ついた人が、また歩けるようになる場所です」
少女の瞳が少しだけ揺れる。
つむぎは続けて、小さく囁いた。
「……私もね、昔はあなたと同じだったの」
その言葉に、少女は瞬きをした。
「……ほんとうに?」
「ええ。助けてもらって、やっと笑えるようになったの」
つむぎは藤棚の下でそっと少女の髪を撫でた。
花びらが肩に落ち、桃色の光が二人を包む。
その光の中に、かすかに蝶の羽音が重なったような気がした。
「怖いことは、ここに置いていきましょう」
「……うん」
少女の声が震えながらも、少しだけ明るく響いた。
屋敷の方から、カナヲの声が聞こえた。
「つむぎー、湯がわいたわよ」
「はい、すぐ行きます!」
つむぎは少女の手を引いて立ち上がる。
春風が吹き抜け、藤の花びらが二人の足もとを流れるように舞った。
(カナヲ姉さん。──私、ようやく少しだけ、あなたのようになれた気がします)
その胸の奥で、静かに灯るものがあった。
それは“優しさ”という名の継承。
確かに、彼女の中で息づいていた。
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編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。