第3話

エピローグ
6
2025/08/27 12:00 更新
目覚ましのベルが、いつもの朝を告げる。
まるで昨夜の出来事が、ただの夢だったかのように。


けれど、夢じゃない。
確かに、あの熱はここに残っている。
あの夜、娘は恋を告げ、私はそれを拒めなかった。
抱きしめてしまった。唇を重ねてしまった。
たとえ誰に責められようとも、あの瞬間だけは、彼女の心を壊さないために選んだ、逃げ道のない答えだった。


寝ぼけ眼の次女の声。
キッチンに広がる味噌汁の香り。
妻がテーブルを拭きながら、「早くしないと遅れるよ」と笑う声。


――いつもの朝。
何も変わっていないはずの風景。
けれど、胸の奥では確かに何かが変わっていた。
昨夜を境に、俺は父でありながら、彼女にとってはもう父だけではなくなってしまった。


台所に立ち、顔を上げたとき、視線が絡んだ。
ほんのわずかな時間。
そこには、言葉にしない約束のようなものが宿っていた。
すぐに私は笑みに戻す。
――守らなければならない。彼女を、そしてこの家を。


「おはよう。味噌汁、ちょっと塩加減控えめにしたぞ」


そんな何気ない言葉にさえ、昨夜の続きが潜んでいる。
優しさに偽装された、重い沈黙。


彼女が「……うん、おいしい」と返す声に、胸が締めつけられる。
その響きには、誰にも聞こえないはずの言葉が確かに込められていた。
「ありがとう」
「忘れていないよ」
「もう戻れないね」


――そうだ。
もう戻れない。
昨夜の選択は、すでに取り消せない。
あれは過ちか、それとも救いか。
答えを知るのは、これから生きていく日々の中でしかない。


けれど俺は、その重さごと引き受けるしかない。
父であり、そして、あの夜を共にした者として。


食卓では、次女が今日の授業のことを楽しそうに話していた。
妻は冷蔵庫のプリンを誰が食べたかで軽く文句を言い、私は新聞をめくりながら、小さく笑ってみせる。


そのすべてが、何ひとつ変わらない日常のはずだった。
だが――昨日を境に、同じ景色の中にもうひとつの層が生まれてしまった。
俺と彼女だけが知っている、「秘密の朝」。


制服の襟を正す彼女の仕草が視界の端に入る。
玄関で靴を履き、次女が元気よく飛び出していく。
妻が「気をつけてね」と声をかける。
そのありふれた流れの中で、彼女だけが最後に振り返った。


目が合う。
俺は黙って、うなずいた。
その瞬間、胸の奥に重たいものが落ちてくる。
父親としての理性と、昨夜を共にした者としての記憶がせめぎ合う。
声には出せない。出してはならない。
けれど、その眼差しだけで伝えた。



――大丈夫。昨日のこと、忘れてはいない。


彼女は小さくうなずき返す。
その仕草が痛いほど真っ直ぐで、私の心を締めつける。


扉が閉まり、夏の朝の光が差し込む。
セミの声が遠くに響き、通学路には変わらない景色が広がっているはずだった。
だが彼女の背中には、昨夜の記憶が確かに宿っていた。


そして、それは俺にとっても同じことだった。
この胸の奥深くで、あの夜はまだ生きている。
後戻りできない記憶として、これからの日々に重なっていく。



――昨日の続きを、共に抱えて。
俺は、今日を生きていく。

プリ小説オーディオドラマ