探偵社のドアを開けた瞬間、甘い煎餅の香りが鼻をくすぐった。
中也は眉をひそめ、散らかった机越しに足を組んでいる男を見つける。
「おい、名探偵。いるか」
「んー? 素敵帽子くんじゃん。珍しいね、君がここに来るなんて」
乱歩はあくびまじりに顔を上げ、煎餅をボリボリと噛んだ。
「くだらねぇ話なら帰るけど、あいにくちょっと、厄介な夢を見てな」
その一言に、乱歩の目の奥がわずかに鋭く光った。
「ほほう? 中也くんが“夢”なんて曖昧なもんで悩むなんて。面白そうじゃん」
「……他人事じゃねぇ。太宰も、似たような夢を見てる。お互い、記憶のねぇはずの過去で、背中合わせに戦ってた」
乱歩はすっと立ち上がり、煎餅の袋をぽんと机に置いた。
その軽やかな仕草とは裏腹に、空気がぴたりと張り詰める。
「なるほどねぇ。転生か、記憶操作か、はたまた並行世界の干渉か……さて、どれだろうね?」
「……おい、真面目に聞いてる」
「もちろん。だって君たち二人が“同じ夢”を見るってのは、ただの偶然じゃ済まないよ。何かの“痕跡”があるってことだ」
中也の眉が動く。
「痕跡?」
「うん。無意識の底、記憶のヒダってやつ。……それにね」
乱歩は少し間を空けてから、ぽつりと呟いた。
「もしも君たちが、“元からそういう存在”だったとしたら……夢じゃなくて、“本来の記憶”かもしれないね?」
ぞくりとした。
中也は目を細め、低く問いかける。
「……本来の、記憶?」
「ま、それを知りたいなら……太宰の夢の中を、もう少し覗かせてもらうしかないね」
「……なあ、名探偵」
中也は乱歩の前に立ち、じっとその顔を見据えた。
「“夢を覗く”って、どういう意味だ。まさか、直接太宰の頭に手ぇ突っ込むわけじゃねぇだろうな」
「ははっ、そんな物理的な方法じゃないってば」
乱歩はあっけらかんと笑いながら、机の引き出しをがさごそと漁り始めた。
中也の視線が、その手元を警戒するように追う。
「変なことはしねぇだろうな。妙な薬とか、変な道具とか……」
「やだなぁ素敵帽子くん、僕を誰だと思ってるの。こう見えて名探偵なんだから、胡散臭い占い師とは違うんだよ?」
「……お前、胡散臭ぇって言われ慣れてる顔してんな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
そう言いながら、乱歩が机の奥から取り出したのは、何の変哲もない小さな懐中時計だった。
けれどその文字盤の中心には、見慣れない記号のような文様が刻まれている。
「……それは?」
「探偵社の“ちょっとした非公式ツール”。深層意識を可視化する仕掛けだよ。まぁ、簡単に言えば“夢と記憶の接続装置”ってとこかな」
中也は腕を組み、目を細めた。
「そんなもん、本当に信用していいのか」
「大丈夫、使うのはあくまで太宰の同意があってから。無理やり頭の中を覗くようなことはしないよ。……まあ、どうしてもって言うなら、君が押さえつけてくれれば別だけどね?」
「ふざけんな。……ただの夢の話だったら、俺もここまでしねぇ」
中也は吐き捨てるように言ってから、息をついた。
ほんの少し、乱歩のペースに巻き込まれていたのが自分でもわかった。
「でも……太宰が自分で口にしたんだ。“記憶じゃないか”って」
「ほう」
乱歩は懐中時計を手のひらで転がしながら、興味深そうに微笑んだ。
「なら、次は君の役目だ。太宰に“覗かれる覚悟”を決めさせるのは。……素敵帽子くん、怖がってる子には優しくしなよ?」
中也は目をそらした。
「……わかってるよ。あいつにだけは、な」
探偵社を出たあと、足が自然と川辺に向いていた。
朝方の喧騒が嘘みたいに静かで、風がコートの裾を揺らす。
「……夢を覗く、ねぇ」
中也は低くつぶやき、手すりに肘をついた。
曇った水面を見つめるようで、その実、視線の先には何もなかった。
「あいつの頭ン中……見たら、何が出てくるんだろうな」
冗談半分に問いかけてみるが、自分の声が思ったよりも掠れていて、口をつぐむ。
太宰が見ていたという“記憶のような夢”。
そこで彼が中也を呼んだ、その声を思い出すだけで、心の奥がひどくざわついた。
――太宰、名前は覚えてるんだ。だけど……中身が、別人みたいで。
違和感はずっと前からあった。
初めて出会ったときから、太宰の笑い方は、何かを隠すみたいで不自然だった。
なのに自分は、そこに昔の彼の影を探そうとしていた。
「バカか、俺は……」
手すりを握る指先に、力がこもる。
太宰の記憶が戻ることで、何かが変わるかもしれない。
けれど、もし――
「もし、全部思い出したって……あいつが“今の俺”を、知らねぇ顔で見るようになったら」
それが、何よりも怖かった。
“昔の太宰”に縋ってるのは、自分の方じゃないか。
それでも、夢の中で名前を呼ばれたとき、ほんの一瞬、嬉しかった。
その事実が、どうしようもなく、悔しかった。
「……ちくしょう」
顔を上げると、雲の切れ間から差す光が目にしみた。
風が通り過ぎるたび、過去と現在の境界が、音もなくにじんでいく。
中也は小さく息をつき、背筋を伸ばした。
「――やるしかねぇよな。俺がやらなきゃ、誰が太宰を引き戻す」
そう、思い出してもらわなきゃ困る。
今の自分を、そして――かつての“俺たち”を。
コンコン――
控えめなノック音に、室内の空気がわずかに揺れた。
「……中也、?」
扉越しに聞こえた声はかすれていた。
中也は返事もせず、そっとドアノブを回す。
太宰はソファに座り、毛布を肩にかけたまま、ぼんやりと窓の外を見ていた。
いつもよりも少しだけ、影が濃い。
あれだけ明るくふるまっていた男が、今はただの“壊れかけた人間”に見える。
「……悪いな、突然」
「いや、別に。君が来るなら……まあ、予想はしてた」
太宰は無理に笑おうとしたが、その口元はうまく動かない。
中也は躊躇わず、向かいの椅子に腰を下ろした。
しばらく、沈黙が降りた。
時計の秒針だけが、淡々と時間を刻んでいく。
「……夢の話を、聞かせてくれ」
中也の言葉に、太宰の指先がぴくりと動いた。
「……また、あの夢のこと?」
「ああ。……お前、自分の名前を呼ぶ声がしたって言ってたな。それ、俺の声だったんじゃねぇのか?」
「……そうかもしれない。でも、確信はないんだ」
太宰は膝に置いた手を握りしめる。
「俺は……夢の中で“誰かを待っていた”。誰かに助けてほしかった。でも、それが誰か思い出せない。顔も、声も、曖昧で……」
「……お前の中で、何かが呼び起こされてんだよ」
中也はわずかに身を乗り出し、目を細めた。
「だから、夢を見てる。違うか?」
太宰の瞳が、怯えたように揺れる。
「……もし、それが記憶だとして。もし本当に俺が“何か”を思い出し始めてるとしたら、どうするんだ、中也」
「……全部思い出せ」
静かな声に、太宰の目が見開かれる。
「……その代わり、俺がそばにいる。どんな過去でも、向き合うのが怖くても……お前が潰れそうになったら、ちゃんと支えてやる」
「……どうして」
「……うるせぇ。理由なんて、今さらだろ」
中也は鼻を鳴らし、目をそらす。
けれど、その拳は小さく震えていた。
「お前の中の“俺”を知りたい。それが、昔の俺でも、今の俺でも……どっちでもいい。とにかく、“太宰治”を取り戻してぇんだよ」
太宰は黙っていた。
ただその顔に、ほんの少しだけ、今までにない温度が戻ったように見えた。











編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!