4月の柔らかな午後の光が、
リビングの床に長い影を落としている。
俺はソファに寝転がり、行儀悪く足を投げ出したまま、ぼんやりとスマホの画面をスクロールしていた。
女性化が進むにつれて、
以前よりも体が疲れやすくなった気がする。
春先特有の眠気も相まって、一度こうして横になると、起き上がるのがどうしようもなく億劫だった。
ダボついたスウェットの下で、少しだけ柔らかくなった自分の腹のラインをスマホの影がなぞる。
そこへ、リビングのドアが開く音がして、
聞き慣れた足音が近づいてきた。
案の定、スンミンだ。
俺の顔を覗き込むようにしてソファの脇に腰を下ろすと、俺が握っていたスマホをひょいと取り上げた。
スンミンは俺の顔のすぐ近くまで顔を寄せ、
期待に満ちた目で俺を見つめてきた。
俺の心臓が不規則なリズムを刻み始める。
女性の体質になってからというもの、
あいつのこういう無自覚な接近に、
過剰に反応してしまうのが悔しくてならない。
唐突な言葉に、俺は一瞬、思考が停止した。
ミノさん。
それは俺が女性の姿で外出する時に使う、
便宜上の名前だ。
スンミンは俺の指先に自分の指を絡め、
少しだけ声を潜めた。
ドクン、と心臓が跳ねる。
あいつの言葉の意味を理解した瞬間、耳の端が火がついたように熱くなっていくのが分かった。
俺は必死に冷静さを装って、喉の奥まで出かかっていた動揺を抑え込んだ。
だが、スンミンはそんな俺の理屈を無視して、さらに俺の顔に鼻先を近づけてくる。
上目遣いで、縋るように見つめられる。
ずるい。
こいつは、自分がどう言えば
俺が断れないかを知り尽くしている。
俺が顔を背けながらボソリと呟くと、
スンミンはパッと顔を輝かせた。
スンミンの希望は
「川を見ながらゆっくり歩きたい」とのことだった。
結局、待ち合わせ場所は漢江にほど近い
汝矣島ナル駅に決まった。
だが、準備をしながらも
俺の口からはブツブツと不満が漏れ続けている。
そう毒づきながらも、俺の手はクローゼットの奥底に
眠っていた「ミノ」用の衣装を迷いなく掴んでいた。
あいつが「普通の恋人らしく駅で待ち合わせをしたい」
なんて、犬が尻尾を振るような顔で言うからだ。
……まあ、せっかくのデートだし。
少しはあいつの我儘に付き合ってやってもいい。
ウィッグを丁寧に取り出し、
春らしい緩い巻き髪にセットする。
鏡の中の自分と目が合う。
女性化してからというもの、
肌の質感が以前より柔らかくなった気がして、
ピンクのアイシャドウが驚くほどよく馴染んだ。
仕上げに袖を通したのは、
澄んだ空のような水色のワンピース。
ふわりと広がる裾が、
春の陽光を孕んで軽やかに揺れる。
なんだかんだ言いながら、鏡の前で最終チェックを欠かさない自分に苦笑しつつ、俺は新居のドアを閉めた。
汝矣島ナル駅の改札を出ると、春の温かな風とともに、微かに川の匂いが鼻をくすぐる。
並木道の桜はすっかり散って葉桜になっていたが、
その若葉の緑が、
キラキラと輝く漢江の青によく映えている。
駅の入り口付近に、見覚えのある背中を見つけた。
シンプルなトレンチコートを羽織り、
所在なげにスマホを弄っているが、その立ち姿だけで通行人の視線を集めているのがわかる。
あいつの放つ清潔感と独特のオーラは、
変装していても隠しきれていない。
俺は少しだけ早歩きになりながら、
あいつの背中に近づいた。
俺の気配に気づいたスンミンが、
パッと顔を輝かせて駆け寄ってくる。
本当に、こいつのこういうところは分かりやすすぎる。
努めて平然を装って答えたが、スンミンは俺の目の前でぴたりと足を止めると、そのまま石像のように固まってしまった。
さっきまでの勢いはどこへやら、あいつは口を半開きにしたまま、俺を頭の先から爪先まで、食い入るように見つめている。
あまりの沈黙に耐えかねて、
俺はわざとらしく顔を背けた。
あいつの熱い視線が肌に直接触れているようで、
薄いメイクの下で頬がじりじりと焼けるように熱い。
スンミンは夢でも見ているような、うっとりとした、
それでいて喉の奥が震えるような声を漏らした。
その瞳には、驚きと、
それ以上に深い独占欲が混じり合っている。
俺は照れ隠しにぶっきらぼうに言い放つ。
耳の端まで火がついたように熱いのが自分でも分かる。
あいつの言葉を遮るようにして、歩き出した。
すると、大きな熱い掌が俺の指先を包み込んだ。
男同士だった頃には決して叶わなかった、
白日の下での恋人繋ぎ。
漢江の広い川面を眺めながら、ゆっくりと歩き出す。
あいつの指が俺の指に深く絡まり、
逃がさないという意思を伝えてくる。
その強引さに呆れながらも、俺は握り返す手に、
少しだけ力を込めた。
漢江の青い水面が夕陽を浴びて黄金色に染まり始める頃、俺たちは川沿いに建つ、全面ガラス張りの
高層レストランへと足を踏み入れた。
店内は落ち着いたジャズが流れ、
洗練された大人の雰囲気が漂っている。
スンミンは、周りの客の視線から俺を隠すように、
それでいて一番眺めのいい奥の特等席へと淀みなく
俺を誘導した。
席に着くが早いか、スンミンは店員が持ってくるよりも先に、自分の上着を俺の膝に掛けた。
過保護だとは思うが、ワンピース一枚の足元に夜気が忍び寄っていたのは事実で、俺は素直にその温かさを受け入れることにした。
そしてテーブルに並んだのは、
スンミンが「体調に良さそうなものを」と選んだ、
春の味覚をふんだんに使ったコース料理だ。
まず運ばれてきたのは、
真っ赤なイチゴと真っ白なブッラータチーズのサラダ。オリーブオイルの香りとバルサミコ酢の酸味が、
今の俺の少し敏感な鼻腔を心地よく刺激する。
スンミンは自分の料理にはほとんど手をつけず、
頬杖をついて、じっと俺のことを見つめている。
沈みゆく夕陽の残光が、
あいつの瞳を琥珀色に染め上げていた。
その熱を帯びた、吸い込まれるような視線に気づかない振りをして、俺はフォークを動かし続けた。
俺はたまらず、ワイングラスの脚を指先で弄りながら、俺は胸の内にずっと燻っていた疑問を口にした。
スンミンは穏やかに、少しだけ首を傾げて聞き返す。
その無防備な表情が、逆に俺の焦燥感を煽った。
カラン、とスンミンの持っていたフォークが皿に当たって乾いた音を立てた。
あいつは一瞬、何を言われたのか理解できないといった様子で目を見開き、それから慌てて周囲を窺った。
わざとぶっきらぼうに、突き放すような言い方をした。
だが、視線を逸らした拍子に、自分の耳が火がついたように熱くなっているのが分かった。
情けない。自分から聞いておいて、この様だ。
スンミンは深いため息を吐くと、眉間に深い皺を寄せ、俺を睨みつけるようにして低い声を出した。
あいつの瞳の奥に、暗い炎のような色が混じる。
それは、いつも俺を「介護」するように優しく撫でる時のあいつとは、明らかに違う色だった。
あいつの言葉は、酷く重く、真剣だった。
俺を抱かないのは、俺に魅力がないからでも、
抱く気がないからでもない。
むしろ、俺を大切に想いすぎているがゆえの、
狂おしいほどの自制心だった。
安堵とともに漏れた俺の言葉に、
スンミンは顔を覆うようにして机に突っ伏した。
俺は、窓の外の夜景に視線を戻した。
あいつの必死さが、その震える指先から伝わってくる。
でも俺だって、あいつに大切にされすぎて、
宙ぶらりんなままの自分に耐えられなかったんだ。
俺は、グラスの縁を指でなぞりながら、
最後の一押しを、わざと淡々と口にした。
スンミンが弾かれたように顔を上げた。
あいつの顔は、今まで見たこともないほど
真っ赤に染まっている。
あいつの理性の堤防が、
音を立てて崩れていくのが分かった。
俺は、赤くなった耳を隠すようにウィッグの髪を弄りながら、あえて意地悪く、少しだけ口角を上げた。
To be continued.
















編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。