薄桃色の桜の花びらが舞い、
柔らかな春の風が通りを吹き抜けていく4月の昼下がり。
冬の刺すような冷たさが消え、過ごしやすいはずの陽気だが、今の俺にとっては別の意味で落ち着かない。
オーバーサイズのフーディーの中に籠もる熱が、
以前よりも敏感になった肌をじわりと焼くような気がして、俺は無意識に襟元を正した。
カラン、と控えめなドアベルの音が店内に響く。
深く焙煎されたコーヒーの香りと、
どこか懐かしいバニラの匂いが鼻腔をくすぐった。
カウンターの向こうで、
ソヌさんがぱっと顔を綻ばせる。
相変わらず、見ているこちらまで毒気を抜かれるような、柔らかい空気を持った人だ。
今日の俺は、仕事の時と変わらないダボっとしたフーディーにキャップを深く被った、「いつも通り」の格好。
体つきの変化を隠すための策だが、はたから見れば
ただの私服の俺にしか見えないだろう。
俺の後ろから、
ハンとアイエンがひょこりと顔を出した。
二人とも帽子やマスクで顔を隠してはいるが、滲み出るアイドルオーラまでは隠しきれていない。
ソヌさんは心得た様子で、「こちらへ」と
パーテーションで仕切られた奥のスペースへと
俺たちを案内してくれた。
周囲の目を気にせず息をつけるこの配慮が、
今の俺らには何よりもありがたい。
椅子に腰を下ろし、キャップを脱ぎながら礼を言う。
ソヌさんは少し照れくさそうに微笑んだ。
ソヌさんの真っ直ぐな言葉に、
俺は思わず耳の端が熱くなるのを感じた。
自分の正体を明かした時のことを思い出すと、
今さらながら心臓が騒がしい。
しかも、女性化したこの体であんなパフォーマンスを
しているところを想像されたと思うと、むず痒くて仕方がなかった。
俺がそう答えると、隣に座っていたアイエンがクスクスと笑いながら口を開いた。
ハンの言葉に、俺は机の下で自分の膝を小さく掴んだ。
「いつもの格好」をしていても、
布の下にある俺の体は確実に以前とは違っている。
この姿こそが今の俺の「現実」なのだという実感が、
鈍い痛みのように胸を突く。
照れ隠しにメニューに目を落とす。
耳が赤くなっているのを自覚して、
俺はわざとらしく咳払いを一つした。
ソヌさんが手帳を構えて、優しく問いかける。
俺がそう告げると、
二人は迷うことなく注文を口にした。
ソヌさんは「承知いたしました」と丁寧に一礼し、
カウンターへと戻っていった。
パーテーション越しに聞こえる調理の音を聴きながら、俺はふと、仕事中であろうスンミンのことを考えた。
今日は3人で外出することを特に伝えてない。
あいつのことだ、外出を知ったら「外に出るなら僕もついて行ったのに」と、過保護全開でうるさく言っているに違いない。
あいつの重すぎる執着心を思い出し、俺は呆れ半分、
愛しさ半分のため息を漏らした。
待機していた爆弾が爆発したかのような勢いで、
ハンが身を乗り出して聞いてくる。
こいつはいつもそうだ。
他人のプライベート、特に俺とスンミンのこととなると、遠慮という言葉を忘れるらしい。
俺は素っ気なく答えて、手近なお冷を一口飲んだ。
だが、ハンの追及は止まらない。
俺は脳裏に、新居でのやり取りを浮かべた。
「完璧な『お嫁さん』をやってやるからよ」なんて、
口を滑らせた時のことを思い出し、
耳の奥がじわりと熱くなる。
隣で静かに話を聞いていたアイエンが、
クスリと笑った。
毒づいてはみたものの、
顔に熱が集まるのを止められない。
フーディーの袖を無意識に弄っていると、ハンがさらに声を低くして、とんでもない問いを投げかけてきた。
飲んでいた水が変なところに入りそうになり、
俺は激しくむせた。
唐突すぎる質問に、心臓が跳ね上がる。
耳どころか、首筋まで真っ赤になっていくのが
自分でも分かった。
俺はハンの口を塞ぐ勢いで一喝した。
だが、ハンの言葉は、俺が一番触れられたくない、
一番意識せざるを得ない部分を正確に突いていた。
女性化したこの体。
以前のような「男同士」の延長ではいられない現実。
あいつの熱い指先が肌に触れた時の、
あの言いようのない感覚を思い出してしまった。
絞り出すような俺の声に、
ハンが「えっ」と間の抜けた声を上げた。
隣でお冷を飲もうとしていたアイエンの手も、
ピタリと止まる。
口にすると、余計にイライラが募ってきた。
俺は真っ赤になっているであろう耳を隠すように、
フーディーのフードをさらに深く被り直す。
脳裏に、新居での夜が蘇る。
同じベッドに潜り込んでも、あいつは俺を優しく抱きしめるだけで、それ以上の境界線は越そうとしない。
まるで、壊れやすい高価な陶器でも扱うような、
あどけないほど丁寧な手つき。
それが俺への気遣いだってことは分かってる。
急激に女体化したこの体に対して、俺が抱いている恐怖や戸惑いを、あいつなりに汲み取っているんだろう。
だが、そのあまりにも「健全」な態度が、
今の俺には逆に惨めだった。
自嘲気味に呟いた言葉に、アイエンが即座に、
かつ静かに異を唱えた。
ハンのフォローも、
今の俺には熱を帯びた礫のようにしか感じられない。
俺だって、どうしたいのか自分でも分からないんだ。
男として抱かれたいわけじゃないし、かといって女として扱われることに完全に慣れたわけでもない。
ただ、あいつの熱い視線が俺の胸元や腰のラインに止まるたび、喉の奥が渇くような、妙な焦燥感に焼かれる。
あいつの指先が、もっと深い場所に触れてくれたら、
この宙ぶらりんな不安から解放されるんじゃないか。
そんな、自分でも整理のつかない
ドロドロした感情が胸に渦巻く。
ちょうどその時、絶妙なタイミングでソヌさんがパーテーションの向こうから声をかけてきた。
置かれた黄金色の塊に、迷わずスプーンを差し込む。
絶妙な弾力を残しながらも、
舌の上で滑らかにほどけていくカスタードの甘み。
ほろ苦いカラメルが後を追い、
口の中を至福で満たしていく。
思わず喉の奥から小さな声が漏れた。
さっきまでの、スンミンに対する苛立ちや、
自分の体に対するやるせない不安が、
この一口で少しだけ溶けていくような気がする。
もう一口、今度は大きめに掬って口に運ぶ。
ふわりと鼻に抜けるバニラの香りに、
尖っていた神経が緩んでいくのが自分でも分かった。
女性化してからというもの、甘いものへの欲求が以前より強くなった自覚はあるが、このプリンだけは格別だ。
満足げに目を細める俺の様子を、
ソヌさんはカウンターの脇で、
どこか眩しそうなものを見るような目で眺めていた。
ソヌさんは穏やかな笑みを浮かべたまま、
独り言のように続けた。
ソヌさんの言葉に、俺はスプーンを動かす手を止めた。
彼の中で、目の前の俺と「Stray Kidsのリノ」が、
まだ上手く結びついていないのが伝わってくる。
それはそうだ。
ソヌさんの前では、ミノとして過ごしてたんだから。
「男」と言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。
反射的に出た言葉。
だが、今の俺の姿を見て、
ソヌさんがどう思っているかは分からない。
正体を明かしたとはいえ、彼に見せているのは
この「女性化」した姿がほとんどだ。
照れ隠しにそう言い捨てると、
自分の耳が火がついたように熱くなるのが分かった。
残りのプリンを一気に口に放り込む。
ソヌさんの優しげな笑い声が、
春の陽だまりのように耳に届く。
その穏やかな空気に甘えていたかったが、
現実は無情だった。
ブブッ、ブブッ。
無機質な振動音が、再びポケットの中で暴れ出す。
俺は舌打ちをしたいのを堪え、スマホを取り出した。
画面に表示された『犬』の文字の横には、
赤い着信通知が並んでいる。
呆れたような、それでいてどこか安堵したような複雑な溜息を吐きながら、俺は通話ボタンに指をかけた。
淡々と答えてはみたものの、握りしめたスマホ越しに伝わってくるあいつの熱量に、喉の奥がわずかに乾く。
隣では、ハンとアイエンが「やってるやってる」と言いたげな、ニヤニヤとした下世話な笑みを浮かべてこちらを伺っていた。
その視線が痛くて、俺は無意識に頭をかく。
無情にも通話はそこで切れた。
あの有無を言わせない独占欲の塊のようなトーン。
女の体になってからというもの、あいつの声が以前よりもずっと深く、内臓を直接揺さぶるような響きを持って聞こえるのが、どうしようもなく癪だった。
アイエンが追い打ちをかけるように楽しげに囁く。
電話を切ってから、十分も経っていなかった。
店のドアベルが、
叩きつけるような勢いで激しく鳴り響く。
春の柔らかな空気を切り裂くようにして飛び込んできたのは、肩で荒い息をつき、必死の形相で辺りを見渡す
スンミンだった。
アイエンの口から、引き攣ったような声が漏れた。
宿舎からこの店まで、
どんなに急いでも十分で着くはずがない。
あいつ、電話を切った瞬間にタクシーを捕まえたのか、
あるいは最初から近くまで来ていたのか。
どちらにせよ、その異常なまでの執着心に、
俺の背筋を冷や汗が伝う。
スンミンは店内の客を一人ひとり検閲するように
視線を走らせ、奥のパーテーションに俺たちの姿を見つけるなり、弾かれたようにこちらへ歩み寄ってきた。
俺の目の前まで来ると、スンミンはハンの挨拶すら無視して、俺の肩をがっしりと掴んだ。
あいつの掌から伝わってくる熱と、わずかな震え。
その必死さに、俺はドン引きしながらも、
体の奥が妙に熱くなるのを感じて目を逸らす。
スンミンは俺のフーディーの上から腕を回し、
まるで自分の所有物を確認するように、俺の背中や腰のあたりを撫で回した。
その手つきが、壊れやすいものを扱うように丁寧で、
それでいて逃さないという執着に満ちていて、
俺の耳は瞬く間に真っ赤に染まっていく。
あいつの瞳は、冗談抜きで据わっていた。
ハンとアイエンが「わぁ、本物だ……」と
呆れたように囁き合っているのが聞こえる。
ソヌさんに至っては、カウンターの向こうで目を丸くして、この異様な光景を固唾を呑んで見守っていた。
スンミンの声が甘く、湿り気を帯びたものに変わる。
俺の首筋に顔を埋めるようにして囁かれると、
抗う気力が根こそぎ奪われていくような錯覚に陥った。
女性化したこの体は、あいつのこういう「オス」の
部分に、驚くほど脆弱に反応してしまう。
俺は真っ赤な顔で、吐き捨てるように言った。
スンミンはやっと満足したように口角を上げると、
俺を抱き寄せたまま、カウンター越しのソヌさんに向かって深々と頭を下げた。
その動作は礼儀正しいが、有無を言わせぬ重圧がある。
あいつの放つ、丁寧だが冷ややかな独占欲が肌を刺す。
ソヌさんは圧倒されたように言葉を失っていたが、
すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべて会釈を返した。
俺は肘でスンミンの腹を小突いたが、
あいつはびくともしない。
それどころか、俺の肩に顎を乗せるようにして、
甘えるような、それでいてソヌさんを牽制するような
視線を向けた。
耳の端まで火がついたように熱い。
ハンの「うわぁ、ごちそうさまです」というニヤけ面も、アイエンの「お幸せにー」という棒読みの祝福も、今の俺にはただの燃料でしかなかった。
俺は半ば強引にスンミンに引きずられるようにして、
店を後にした。
最後に振り返った時、
ソヌさんが少しだけ困ったように、でもどこか眩しそうな顔で手を振ってくれたのが見えた。
外に出ると、春の冷たい夜気が頬を撫でたが、
俺の体の中に灯った熱は一向に冷める気配がなかった。
To be continued.


















編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。