第10話

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2023/01/31 08:27 更新
朝食は毎朝、お店で食べる。

池亀家では、それが習慣になっている。

少なくとも樹音が小学校に入った頃にはもう、そういうスタイルが定着していた。

ただし当時、当たり前だが作るのは母親の役目だった。

母親がハムエッグを焼いたり、味噌汁を作ったりしていた。

父親は、母親と二人分のコーヒーを淹れるだけ。

樹音と弟の凌輝は、牛乳とか、野菜ジュースとか、何もなければ水を飲んだ。

樹音の両親には、ちょっと変わったところがある。

父親は「静男」、母親は「緑梨」という名前だが、二人は今も、互いを名前で呼びあっている。

しかも「さん」付けで。
緑梨
緑梨
静男さん、今日の新聞どこ
静男
静男
知らないよ。さっき、緑梨さんが読んでたでしょ
五十を過ぎてなお恋人気分なのかどうかは知らないが、見た目は完全に「初老」の域にある夫婦が、互いを遠慮がちに「さん」付けで呼び合うって、けっこう__気持ち悪いとまでは言わないが、変わってるな、とは思う。

しかも最近、朝食作りは樹音の担当になりつつある。

そうなると、二人の雰囲気も「初老の夫婦」から、本格的な「老夫婦」に様変わりしていく。

樹音が作る朝食を待っている姿なんて、もう「老後」そのものだ。

今朝は二人からリクエストされてしまったので、樹音は仕方なくフレンチトーストを焼いている。

緑梨はカウンター席にゆったりと座り、静男が淹れてくれたコーヒーを飲んでいる。
緑梨
緑梨
……そういえば、音ちゃん、タマネギの発注しといてくれた?
池亀樹音
池亀樹音
昨日したよ。二十キロでいいんでしょ
緑梨
緑梨
うん、二十キロでいい。いつくるって
池亀樹音
池亀樹音
分かんないけど、明後日くらいじゃないの
静男は樹音の都成で、自分の分のコーヒーを淹れている。

お気に入りの銅製ケトルを高く構え、中挽きびきのコーヒー豆に、細く細く、螺旋らせん状にお湯を含ませていく。
静男
静男
……緑梨さん。なくなりそうだって気づいたなら、自分で発注しなよ
緑梨
緑梨
えー、だって音ちゃんがもう頼んでたら、四十キロきちゃうじゃない。そういうのは、ちゃんと確かめてからじゃなきゃ駄目よ
うんと小さな頃は、この二人の会話を妙に思うこともなかった。

これが普通、ごくごく当たり前だと思っていた。

一方、静男が「お父さん」で、緑梨が「お母さん」だということは、ちゃんと分かっていた。

そこを勘違いしたり、疑問に思うことはなかった。

ただ友達に、初めてそのことを指摘されたときは、けっこう恥ずかしかった。
モブ
樹音のお母さんって、ミドリさんっていうんでしょ
池亀樹音
池亀樹音
うん、そうだけど……
モブ
お父さんはシズオさんっていうんでしょ。で、ミドリさん、シズオさんって呼ぶんでしょ。お父さんとお母さんなのに、変なの
たぶん、店にきたその子の親が二人の会話を耳にし、悪気わなかったのだろうが、家に帰ってその話をしたのだろう。

池亀さんのご夫婦って、互いを名前で呼ぶのね、それも「さん」付けで、洒落てるわね__「洒落てる」までは言わなかったかもしれないが、でも、そういうことだったのだと思う。
池亀樹音
池亀樹音
はい、どうぞ。お待たせしました
緑梨
緑梨
ありがとう……んーっ、いい匂い
緑梨が満面の笑みで、フレンチトーストの載った皿を受け取る。

緑梨はこれに、パンが浸るくらいまでメイプルシロップをかけて食べるのが好きだ。
池亀樹音
池亀樹音
父さんのもできたよ
静男
静男
ああ、ありがとう
置くの厨房にある、業務用コンロなら火力も強いので四人分いっぺんに焼けるのだが、カウンターにある小さなコンロではそうもいかない。

上手く綺麗に焼けるのは二人分がせいぜいだ。

樹音と凌輝の分は今から焼く。

緑梨が、、斜め上の方を見上げる。
緑梨
緑梨
あの子、起きてんのかしら
池亀樹音
池亀樹音
起きてるでしょ……さっき、奥で音してたから
緑梨
緑梨
そう。起きてるんならいいけど
樹音の分までお湯を落として、静男はカウンターから出ていく。

自身で「究極の静男」と名付けたブレンド、ドリップ方法で淹れたコーヒーをもって、緑梨の隣に座る。

その、自身で考案したブレンドに「○○の静男」と付けるセンスも、樹音はいかがなものかと思っている。

当の本人に、直接そう意見したことはないが。
静男
静男
……うん、美味しそうだ。いただきます
静男は、フレンチトーストには何も付けない。

そのまま食べる。

それがコーヒーと一番合うからだというが、それも樹音にはよく分からない。

むしろ、一緒に食べるものは少し甘いくらいの方が、コーヒーを美味しく味わえると、樹音は思っている。

そんな頃になって、ようやく喧しいやかましい足音が聞こえてきた。

コツコツ、と靴を履く音がして、ホールの奥にあるドアが乱暴に押し開けられる。

凌輝だ。

肩にバックを掛けている。

かなりいそ急いでいるようだが、静男と緑梨が「おはよう」と声を掛ければ、低くではあるが、一応「おはよう」と、返してくる。

樹音は軽くフライパンを浮かせてみせた。
池亀樹音
池亀樹音
凌輝の分も、もう少しで焼けるけど
しかし、
池亀凌輝
池亀凌輝
……いってきます
そんなものには見向きもせず、凌輝は出ていった。

ドアに仕掛けてあるウインドチャイムが暴れ、ガシャガシャと騒ぎ立てる。

静かに開け閉めすれば、星が降るような澄んだ音を響かせてくれるのに。

緑梨が溜め息をつく。
緑梨
緑梨
…、なんだろう。ああいう年頃なのかしらね
そういう問題でないことは、ここにいる誰もが分かっているはずだ。

樹音がひと息つくと、それもなんとなく、溜め息のようになってしまう。
池亀樹音
池亀樹音
……俺はあの歳の頃、あんなんじゃなかった
この、凌輝の分のフレンチトーストはどうしたらいいのだろう。

緑梨も樹音の手元を見ている。
緑梨
緑梨
そうかしら。似たようなもんだったと思うけど
池亀樹音
池亀樹音
あんなあからさまに、反抗的な態度はとらなかったでしょ
緑梨
緑梨
かもしれないけど、でも、漠然と、イライラした空気は発してたよ
池亀樹音
池亀樹音
そうかな……
緑梨
緑梨
そうだったよ。なんていうか、目には見えない、何かを敵視してるみたいな
それは、なかったと思う。

そんなに自分は、反骨精神に溢れた高校生ではなかったはずだ。

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