第35話

ガラスのビヰダマ、すれ違い(第一話)
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2021/10/08 09:50
_____今日、昼にオーケストラを見た。僕が見たのは海外から来た音楽の精鋭、この世の天才達を集めて一つ一つの曲を丁寧に、そして繊細に優しく美しく演奏する極上のオーケストラ。その曲の一つ一つを聴くたびに、不意に胸がきゅっと、懐かしくなった。
そういえば、僕が小さいときの夢はピアニストになることだったよな。もしも今、本当にこの夢を叶えていたら今の僕はここにいない。だけど、今の生活も楽しいしこの道を歩んでよかったなと昨日までは思っていた。
金沢 誠哉
金沢 誠哉
ピアノ…ねぇ…
ふと渋谷の大通りを通ったら飛び入り参加可能の野外ピアノコンサートのポスターが貼ってあった。すぐそこにあるピアノを運び出す業者の姿を見た。場所はここから近いから、参加くらいはしてみようかな。クラシックは全部弾けるようになったけど、やっぱりまだ諦めきれないのは残念な気持ちからなんだろうな。
金沢 誠哉
金沢 誠哉
ピアノくらいなら弾いてもいいよね。僕も変装くらいはしてるし。
僕は歩いて会場に向かった。メンバーアマチュアのピアノ初心者から初々しいまだ知名度が低いピアニストというラインナップ。ふぅん、まあこれくらいならば、僕が参加して大丈夫かな。
金沢 誠哉
金沢 誠哉
すいません。
コンサート運営委員
コンサート運営委員
おや、そこの少年、参加希望かな?
金沢 誠哉
金沢 誠哉
こう見えても高校一年生なので。あと参加お願いします。
コンサート運営委員
コンサート運営委員
わかったよ。委員長に伝えとく。じゃあ、ナンバーは…最後でいいかな。
金沢 誠哉
金沢 誠哉
大丈夫です。
申し込みをして控え室みたいなところで待っていると壁に参加者が弾く曲のリストが貼ってあった。子犬のワルツやベートーヴェンの運命とかとても有名な曲だらけ。ここで僕が難しい曲を弾いたら、悪目立ちするなぁ…ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番やアルカンの鉄道とか弾きたかったけど。今回は遠慮しとこ。
子供1
子供1
君は何弾くの?
金沢 誠哉
金沢 誠哉
…特に決まってない。ピアノなら全曲弾けるし問題はないよ。
子供2
子供2
あはは。嘘だろ、それ。
子供3
子供3
ばっ、ばかにしちゃだめだよ!罰が当たるってママが言ってた!
少しかちんと来た。まあ、桜が離脱していたときにプロピアニストとして活躍した程度だし、そこら辺の餓鬼に聞いても分かんないんだろうな。…あれ、なんか周りが…
僕のこと見てる。すごいざわざわし始めたし。
男
おいおい嘘だろ、あのハンチング被った金髪の奴、あの・・誠哉なのか?
女
そんなわけないじゃない。大体ここにいれるわけないし。
子供3
子供3
え、ピアノの希代の天才ってあの子なの?ねえ、ねえ!
気分が悪い。僕がちょっとだけ他の人より弾けるからってそんな化け物みたいにはやし立てなくて良いのに。なんではやし立てるんだ。あーあ、体裁が悪いなぁ。ここで逃げたら〈プロピアニスト・金沢誠哉、プレッシャーに負けて会場を後に〉なあんて騒がれる可能性があるな。ほんっっと、やんなっちゃうしこういうのやっぱ慣れないし。やだなぁ。
金沢 誠哉
金沢 誠哉
ああ、めんど。
ぼそりと呟いてステージに立つ準備をする。名前は偽名に変えて登録してあるから先程の騒ぎはきっと無くなる。開催まであと三十分ほどかかるらしいのだが、僕にはそんなの関係ない。必要なのは実力と気持ちだけだ。僕はスマホで音を聴き始めた。聞くではなく心で聴くような気持ちだった。演奏する曲は幻想曲風ソナタ。モーツァルトの代表的な作品で今では月光ソナタと呼ばれるほどの有名な曲。一言だけ、音を止めて呟いてみる。きっと誰も聞いてなんかいない。
金沢 誠哉
金沢 誠哉
これなら、演奏しても問題ないな…
僕は音源を聞き始めた。暑いし蒸すけど帽子を深めに被る。深く被れば誰かに見られるなんてこと、無いから。それに見られるのは緊張するし。ファンのために歌うことはあったけど、見知らぬ人の前で演奏するのはなんだか久し振りだな。
徐々に始まっていく。他のピアノの音が流れる。下手な音も上手な音も、綺麗なハーモニーを奏でる和音も。全部が僕の耳に流れ込んでくる。所詮知っている曲だけれど弾く人によって演奏の仕方が全く変わる。だからピアノは楽しいし、おもしろい。
コンサート運営委員
コンサート運営委員
君、次だよ。準備お願いね。
金沢 誠哉
金沢 誠哉
了解です。
僕は音を荷物置き場の中の鍵付きロッカーに仕舞い込んだ。踵を返すように足を動かし、少し踊るような足取りで向かう。ステージは渋谷の音楽ショップが並ぶところの道沿いにある。特別な会場のようなステージを用意しているから雨でも平気なようだ。特別なステージといえど、広めのコンクリートで出来た駐車場を借りてやっているだけのちょっと小規模な会場だけど。
ピアノの椅子を調節してから座る。一つだけ深呼吸をしてゆっくりと目を開けた。さあ、本番だ。どれだけ出来るか、魅せてやろうじゃないか。僕は心の中で意気込んだ。
アナウンスが入る。ちょっと大袈裟なアナウンスだけど僕にはその方が演奏しやすい。最後と言うことで会場もざわざわしている。そんなことを気にせずに鍵盤にそっと手を置く。そして滑らかに美しく僕は弾き始める。黒鍵へいく指も丁寧に。
金沢 誠哉
金沢 誠哉
______…
段々と終盤に向かっていく。ピアノが激しくなる。僕は必死で鍵盤を叩く。気付けば周りの音は何一つとして聞こえないほどに集中していた。
金沢 誠哉
金沢 誠哉
______…__終わった…
そう、小さく呟いた。拍手喝采。僕は少しも笑わずに頭を下げて御辞儀をした。すぐに控え室に戻り、荷物を取った。そして裏口から飛び出した。終了のアナウンスが聞こえるが気にせず、すぐさま。会場にとどまることが少しだけ、ほんの少しだけ怖かったから飛び出した。
裏口からでたから追ってくる人はいない。安堵とともに溜息がこぼれる。裏口を出て近くのCDショップに行っていたら、思わぬ人影を見つけた。
金沢 誠哉
金沢 誠哉
優…?
僕より二つ学年が上の幼なじみである優がそこにいた。何やら真剣そうな面もちでギターケースを肩に掛けながら雑誌コーナーの雑誌を見ていた。僕達が前にライブしたときの写真が一面を飾っている。不意に懐かしく思って、近付く。
金沢 誠哉
金沢 誠哉
優じゃん。久し振り。
天沢 優
天沢 優
あ、誠哉…
何か声を掛けようとした。でも、僕にはそれが出来なかった。億劫とも気まずいとも言えないえもいわれぬ沈黙が流れる。そうか。練習の時以外、家は近いけどあまり話さなかったんだよね。心の距離は近いように見えて、二歳差という面をついつい二人意識してしまって、あっと言う間にその距離は少しずつ少しずつ離れてしまった。
金沢 誠哉
金沢 誠哉
天沢 優
天沢 優
金沢 誠哉
金沢 誠哉
じゃあ、またね。それじゃあ明日の練習で会おう。
定型文のような会話しかできない。僕ら二人だけの会話はきっとこれからもそうなのかもしれない。目の前から遠ざかるCDショップはなんだか後ろ髪を引かれた気がした。躊躇も後ろめたさも、どちらもあったけれど僕はひとまず帰宅した。

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