飛ぶって、どんな感覚なんでしょうか?
問いかけようとしたその言葉は、サケナスープの湯煙に隠された。
彼女の虚の目はパッと上へと持ち上がり、すでに目の前のサケナスープへと関心が移っていた。一度飛べた、その続きが気になるが、自身も空腹で限界だ。食べてから話しましょう、という言葉より先に、2人はスプーンを持っていた。
白い池に浮かぶサケナが丸々1匹の贅沢なスープを啜り、2人は顔を見合わせた。彼女の驚いた顔に誇らしげに頷く。
僕のドヤ顔を見たであろう彼女は、勢いよくスープを飲み干して満足げに唸った。
「凄く…美味しかったです…」
全身が熱くなるのはスープのせいか。スプーンを持つ手は焼けるほどに熱かった。
「よかったです!!次は…アサーさんおすすめの料理を食べてみたいですね」
「あ、それならあそこのーー。」
「何で翼つけてるんですか!!」
ビクッと肩が跳ねる。湯煙で曇っていたメガネの視界がだんだんと開けてきた。テーブルの右横、道側の方で、まだ幼い少女の声が聞こえてきた。だが姿が見えない。角度を変えると、小さな少女が、アサーの隣に立ち翼をじっと見つめている。そんな少女の背中にも、本当に小さな翼が生えていた。
小さなリュックを背負っているだけのように見える、新芽色の翼。彼女の黄色の瞳は、アサーの翼に夢中だった。
「お姉ちゃんの翼!すごくおっきいよ!!」
彼女の手はスカートを強く握っている。僕は自然と彼女の親を探すため、道へと目を動かしていた。
「どうして翼つけてるの?大人になったら、翼切らないといけないんでしょ?どうして?」
子供の容赦ない質問が耳を刺す。答えなければいけない。でなければさらに大きな声で周囲の注目を集めてしまうだろう。しかし、アサーを庇うことができなかった。まだ僕だって、「一度飛べた」という断片的な理由しか聞いてないのだから。
焦る僕をよそに、彼女は立ち上がった。何をするのかと僕の心臓は跳ね上がる。しかし彼女は地面の方にゆっくり下がっていた。
石畳の道に片膝をつき、彼女は少女と同じ目線に立つ。少女のスカートの皺がより一層濃ゆくなった。アサーさんは、同じ翼を持つ者をどう思っているのか、次々と予想が頭をよぎる。
「私は病気で翼を切れないんだ。」
とても落ち着いた声で、彼女はそう言った。少女のキョトンとした顔より、アサーさんがどんな顔をしているのか知りたかった。
「病気…?」
アサーさんは小さく頷く。
「でもお空は飛べるんでしょ?こんっっっなに大きな翼だもん!雲まで飛べるんでしょ?」
「いいや、私は飛べないんだ。きっと…君の方が高く飛べる」
「わたしの方が?」
少女の嬉しそうな顔。しかし、アサーさんの声はだんだんと低くなっていく。恐ろしいお伽話をするように。
「けど、大人になる前に切らないと、私と同じ病気になってしまう。それに、翼を切れなくなったら彼女たちのような美しいドレスも着れない」
少女の顔は酷く曇った。小さな翼がさらに小さく折り畳まれる。
「それはやだ…」
「そうだろ…だから、今のうちにいっぱい飛んでおくんだ」
少女は再び顔を上げ、嬉しそうに翼をはためかせてみた。答えに満足したように、握られていたスカートを小さな手が離す。少女はアサーさんに手を振って、近くの席で談笑している母親の方へ行ってしまった。
少女の去った後は、冷たい空気で世界が満たされているようだった。アサーさんは、ゆっくりと立ち上がり、深いため息を肩で吐いていた。
だらっと下がる翼。
黒と黄色の翼は、酷く重そうだった。
少しでも、軽く出来たなら。そう思うと同時に、手の中にはナイフが握られていた。
「!エムリス先生…?」
鉄のように重く感じるナイフ。小指が軋んだ。
「これは、僕が持っておきます。僕はまだ…実技も教えていないんですから。教師として、役目は果たさないといけません!」
授業なんて、もうどうでもよかった。僕は、彼女の…エルジェン族の…この美しい翼を、まだ見ていたかった。
「でも…」
「いいんです!!僕が受け取ったんですから」
そう言い、自身のベルトに素早く挟み込む。
彼女の翼を切るか、切らないか、そう問いかけてくるナイフに答えは決まっている。
「僕はアサーさんの翼を切りません」
彼女の瞳の光がかすかに揺れる。僕は彼女を安心させたかった。張り詰めた彼女の糸を、緩められたらと思った。
しかし、どうしてだろう。彼女の表情は明るくならない。それどころか、ドレスを着た女性達の方に目が向いていた。
「…ありがとう」
そう言い、彼女は会計をしようとした。あまりの素っ気なさに冷や汗が出始めた。正直、先ほどの言葉を言うのにかなりの緊張を要した。
肩を落とす間もなく、彼女の手を止めて先に金を置く。
「彼女さんかい?」
店主のにやけた顔。驚いて顔を上げた瞬間。ベルトからナイフの重みが消えた。急いで振り返るが、彼女は予想を遥かに超えた位置にいる。
しまったと言わんばかりに僕の足は前へと進んだ。急に走り出したせいで腹の中のスープがトプトプと音を立てる。
彼女への道は開かれていた。しかし、そんな好条件であっても彼女に追いつくことはできなかった。












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。