アサーが飛んだ時、水飛沫が僕の顔を刺す。そして彼女は手に持っていた傘をノア目掛けて差し向けた。
「判断を誤るか!!!ア゛サー!!!!!」
ジャリジャリとした指輪の音と共に、ノアは視界から消えた。傘が彼を覆い、翼が彼女を隠した。
2人を追おうと必死で目を凝らすが、周囲の暗さが視界を悪くする。彼女の影が、ノアの頭上へと、落ちていく。
その瞬間、僕は根に足を取られた。バジャッっと泥に浸かり、それと同時に、音が消えた。まずい…滑る根に爪を食い込ませ、急いで立ち上がる。
「ハァ…ハァ…」
誰かの吐息が雨の中で聞こえる。不意に、先程までノアの視界を覆っていた傘が、自分の近くに落ちているのに気づいた。
「ハァ…ハァ…全く…ほら」
目を上げる前に、片足の鉤爪ブーツが投げられた。
「えっ…」
見上げれば、眉間に皺を溜め、相当不機嫌な顔をしているノアがいた。
「逃げたよ。チッ、…棚にでも飾りたかったんだがな」
そう言いながら、彼は荒々しく顔の泥を拭った。僕は咄嗟に鉤爪ブーツを腕に抱え、皮の冷たさに不安を覚える。雨か汗かもわからない水を額から流しながら、彼を睨んだ。
「翼を…ですか?」
彼は目を丸くして僕を見る。次の瞬間、笑いが込み上げて来たのか、彼は大きく反り返り、額を指輪が光る手で押さえる。
耳が震えるほどの笑い声。まるで悪魔だ。抱えたブーツを固く抱き締める。
「ハハハハハハッ!!冗談だよ冗談。ふぅ…まぁ…ビミット族なら無理もないですね」
そういうと彼は、屋根のある人の家の玄関へと雨宿りのために入った。軽く手招きをする。
「彼女は大丈夫なんですか?逃げたって…」
指先に入る力が抜けない。あんな翼の轟音が一瞬で鳴り止むだろうか?まだ屋根の中には入れない。
「走って逃げましたよ。まぁ…少し喰らいましたが」
落ち着きを取り戻したように、彼は腕の切り傷を見せてきた。3本線が綺麗に描かれている。彼女が履いていた、片方の鉤爪ブーツがつけたものだろう。少しだけ、口角が緩んだ。
「ふん、あと少しだったんですけどねぇ」
残念だったというように、彼はため息混じりの言葉を吐いた。あと少しというのは…翼を切り損ねた、ということだろう。雨に打たれていた体を、グッと屋根の中に押し込み、彼の前に立った。彼の冷酷な目に、耳が倒れる。
「…翼は彼女の身体ですよ…彼女の許可なく切ろうとするのは…」
彼は持っていたナイフをハンカチで丁寧に拭いていた。雨に濡れたナイフの輝きが戻り、彼は満足そうに眺めながら横目で言う。
「許可?そんなものはいらんだろ。あいつは飛べない」
「………ぇ?」
飛べない…?飛ばないのではなく?ならどうして彼女は翼をつけたままなんだ。あの傷は…。
「やはり知らなかったんですね。使えないものをつけてわざわざ将来の選択肢を狭めている…ふん、とんだ阿呆だな。考えれば考えるほど理解に苦しむ」
どういうことだ…?あまりの情報量に脳が追いつかない。彼女のあの巨大な翼が、飛べない翼なんて…そんなの…。一体どこが悪い?あの傷のせいで飛べないのか?使えないなら…どうして切らない?
「…エムリス、君も大方…彼女の持つ翼に憧れでもして、私を邪魔したのでしょう?一度彼女がどれほど馬鹿げているか、本人に聞いてみてはいかがです?」
彼はそう言い終わると、僕の胸に、ナイフを押し付けて来た。
心臓がバクンと波打つ。彼は足を入れるブーツの穴に、まるで花でもいけるようにナイフを添えた。首の毛を撫でる引き際の指。手にギュッと力が入り、冷や汗が止まらない。彼が…僕に何を求めているのかがわかる。
「使うことになると思いますので、私は今日こんなことに付き合わされてウンザリなんですよ。明日の授業の準備も終わっていない。上にもエムリスが私の後を受け継ぐと言っておきますね」
彼はそういえばすぐに背を向けた。ブーツに添えられたナイフが僕の方に向いている。汗が頬を伝うのがわかった。喉の奥から必死で声を絞り出そうとした。
「ぁ…ノッ!!」
「エムリス”先生”。期待していますよ」
今まで見たことがない爽やかな笑顔で、そう言われた。彼が去った後、すべての五感が一気に戻る。冷たい、寒い、臭い、…重たい。そして、脳の奥でこだまする。
僕が…切らなきゃいけない…のか…?












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。