「あなたさん」
耳元で溶けきるような、優しい声だった。
『せんせい……?』
今ここにいるはずのないその存在に、あなたの心臓が小さく跳ねた。
『先生!』
その名をなぞるように呼び返し、幼い身のもどかしい歩幅で家の庭を駆ける。遠ざかる背中を追いかけるあなたを、星為はいつだって急かすことなく待っていてくれた。足並みの揃わぬ子どもを慮り、歩幅を合わせ、丁寧な敬称をつけて呼んでくれる。
私はこの人が大好きだった。差し出された大きな掌を握りしめれば、指先から伝わる体温はどこまでも清らかで、それだけで世界が満たされるような気がした。
「さあ行きましょう。チーちゃんさんも、あっちで遊んでいますからね」
『うん』
この人の前でだけ、あなたは「子供」でいられた。愛を知り、自分もまた愛されるべき存在なのだと教えられた。彼の手によってはじめて身の丈の輪郭を得たのだ。
星為は穏やかに目を細め、慈しむようにあなたの顔を覗き込む。見上げるほど高い場所にあるその顔を、あなたは眩しさに目を細めながら、懸命に見つめ返した。
「人殺し」
反射的に、繋いでいた手を離した。掌に残っていた温もりは、瞬時にぬらりと腐肉のような悪臭へと変貌した。
己の手に付着した肉片。それが、まるで最初から自分の身体の一部であったかのような、悍ましい親和性を持ってそこに在った。
肺を刺すような苦悶。逃げ場のない激痛。くさい。くるしい。助けて、たすけて。叫ぼうとした喉は、せり上がる嘔吐感に塞がれる。
「この、人殺し」
冤罪だ。だというのに妙に馴染みがあり、説得力を持った言葉。
——この人の顔を思い出そうとすると、ノイズがかかったように鮮明に結ばれない。心が張った防衛本能という膜が、どうも顔をボヤけさせる。
今の先生は、どんな顔をしているだろう。悲しんでいるのか、怒っているのか。
あの日の先生は、どんな顔をしていたんだろう。どんな目で、見ていたんだろう。
それを想起するより前に、私の中の先生は怪物のように変貌して、だから私は、今も先生に辿り着くことができない。
『でも、私は泣かないよ。だって、自分がこれっぽちも強くないって、知りたくないから』
ふいに、幼い自分の声が耳元で囁いた。
その声に弾き出されるようにして、目が醒める。寝巻きは不快な脂汗を吸って肌に張り付き、シーツは体温を失って酷く冷え切っていた。窓の外では、朝を告げる鳥の声が無遠慮に響いている。
ずくずくと疼くこめかみを指先で押さえた。
『また、悪夢か』











編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。