第330話

330.白昼夢に茹だる
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2026/02/26 03:10 更新
「あなたさん」


 耳元で溶けきるような、優しい声だった。


『せんせい……?』


 今ここにいるはずのないその存在に、あなたの心臓が小さく跳ねた。


『先生!』


 その名をなぞるように呼び返し、幼い身のもどかしい歩幅で家の庭を駆ける。遠ざかる背中を追いかけるあなたを、星為せいがはいつだって急かすことなく待っていてくれた。足並みの揃わぬ子どもを慮り、歩幅を合わせ、丁寧な敬称をつけて呼んでくれる。

 私はこの人が大好きだった。差し出された大きなてのひらを握りしめれば、指先から伝わる体温はどこまでも清らかで、それだけで世界が満たされるような気がした。


「さあ行きましょう。チーちゃんさんも、あっちで遊んでいますからね」

『うん』


 この人の前でだけ、あなたは「子供」でいられた。愛を知り、自分もまた愛されるべき存在なのだと教えられた。彼の手によってはじめて身の丈の輪郭を得たのだ。

 星為は穏やかに目を細め、慈しむようにあなたの顔を覗き込む。見上げるほど高い場所にあるその顔を、あなたは眩しさに目を細めながら、懸命に見つめ返した。


「人殺し」


 反射的に、繋いでいた手を離した。掌に残っていた温もりは、瞬時にぬらりと腐肉のような悪臭へと変貌した。
 己の手に付着した肉片。それが、まるで最初から自分の身体の一部であったかのような、悍ましい親和性を持ってそこに在った。

 肺を刺すような苦悶。逃げ場のない激痛。くさい。くるしい。助けて、たすけて。叫ぼうとした喉は、せり上がる嘔吐感に塞がれる。


「この、人殺し」


 冤罪だ。だというのに妙に馴染みがあり、説得力を持った言葉。
 ——この人の顔を思い出そうとすると、ノイズがかかったように鮮明に結ばれない。心が張った防衛本能という膜が、どうも顔をボヤけさせる。

 今の先生は、どんな顔をしているだろう。悲しんでいるのか、怒っているのか。
 あの日の先生は、どんな顔をしていたんだろう。どんな目で、見ていたんだろう。

 それを想起するより前に、私の中の先生は怪物のように変貌して、だから私は、今も先生に辿り着くことができない。


『でも、私は泣かないよ。だって、自分がこれっぽちも強くないって、知りたくないから』


 ふいに、幼い自分の声が耳元で囁いた。
 その声に弾き出されるようにして、目が醒める。寝巻きは不快な脂汗を吸って肌に張り付き、シーツは体温を失って酷く冷え切っていた。窓の外では、朝を告げる鳥の声が無遠慮に響いている。
 ずくずくと疼くこめかみを指先で押さえた。


『また、悪夢これか』

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