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第3話

第二篇 となりの春
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2026/02/22 11:00 更新
官庁を出たあとも、胸の鼓動はなかなか静まらなかった。

 本田菊――その名を心の中で何度も繰り返す。
 ただそれだけで、頬が少し熱を持つ。

 上京したばかりの私は、父の知人の紹介で小さな貸家を借りていた。
 まだ新しい木の匂いが残る、静かな長屋の一角。

 門をくぐろうとした、そのとき。

 隣の戸が、静かに開いた。

「……あ」

 思わず足が止まる。

 現れたのは、見間違えようもないその人だった。

 黒髪をきちんと整え、落ち着いた和装姿。
 昼間の官庁とは違う、どこか柔らかな空気をまとっている。

 どうして、

 どうして、ここに。

 心臓がまた、大きく鳴る。

 彼もこちらに気づき、わずかに目を見開いた。

「……先ほどの」

 覚えて、いてくださった。

「お隣に越していらしたのですか」

 静かな問いかけに、慌ててうなずく。

「は、はい。本日よりお世話になりますあなたと申します。」

「それは奇遇ですね。私は本田と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」

 昼間と同じ、丁寧な一礼。

 けれど距離は、ほんの数歩。

 さっきよりも近い。

 夕暮れの光が、彼の横顔を淡く染める。

「……何かお困りのことがあれば、遠慮なく」

 穏やかな声音。

 その優しさが、かえって胸に沁みる。

「ありがとうございます……本田様」

 名を呼ぶだけで、息が詰まりそうになる。

 偶然にしては、出来すぎている。

 一目見ただけのはずなのに、
 こうして隣に立っている。

 春の風が、二人の間をそっと通り抜けた。

 ――もう一度会いたいと願ったばかりなのに。

 こんなにも早く、叶ってしまうなんて。

 これは、ただの偶然だろうか。

 それとも。

 私の初恋は、思っていたよりも
 近くで始まろうとしているのかもしれない、
そんなことを思いながら自室に入る。

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