官庁を出たあとも、胸の鼓動はなかなか静まらなかった。
本田菊――その名を心の中で何度も繰り返す。
ただそれだけで、頬が少し熱を持つ。
上京したばかりの私は、父の知人の紹介で小さな貸家を借りていた。
まだ新しい木の匂いが残る、静かな長屋の一角。
門をくぐろうとした、そのとき。
隣の戸が、静かに開いた。
「……あ」
思わず足が止まる。
現れたのは、見間違えようもないその人だった。
黒髪をきちんと整え、落ち着いた和装姿。
昼間の官庁とは違う、どこか柔らかな空気をまとっている。
どうして、
どうして、ここに。
心臓がまた、大きく鳴る。
彼もこちらに気づき、わずかに目を見開いた。
「……先ほどの」
覚えて、いてくださった。
「お隣に越していらしたのですか」
静かな問いかけに、慌ててうなずく。
「は、はい。本日よりお世話になりますあなたと申します。」
「それは奇遇ですね。私は本田と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
昼間と同じ、丁寧な一礼。
けれど距離は、ほんの数歩。
さっきよりも近い。
夕暮れの光が、彼の横顔を淡く染める。
「……何かお困りのことがあれば、遠慮なく」
穏やかな声音。
その優しさが、かえって胸に沁みる。
「ありがとうございます……本田様」
名を呼ぶだけで、息が詰まりそうになる。
偶然にしては、出来すぎている。
一目見ただけのはずなのに、
こうして隣に立っている。
春の風が、二人の間をそっと通り抜けた。
――もう一度会いたいと願ったばかりなのに。
こんなにも早く、叶ってしまうなんて。
これは、ただの偶然だろうか。
それとも。
私の初恋は、思っていたよりも
近くで始まろうとしているのかもしれない、
そんなことを思いながら自室に入る。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!