春の東京は、思っていたよりも騒がしかった。
石畳を行き交う人々、洋装の婦人、帽子をかぶった紳士。文明開化の風は、私の故郷よりもずっと強く吹いている。
上京したばかりの私は、慣れない街に戸惑いながら、父に頼まれた書類を官庁へ届けに来ていた。
緊張で指先が冷たい。
そのときだった。
「――失礼」
静かな声が、すぐそばで落ちた。
思わず顔を上げる。
そこに立っていたのは、黒の詰襟に身を包んだ一人の男性だった。
整えられた黒髪。
まっすぐで、澄んだ瞳。
騒がしい廊下の中で、彼だけがひどく静かに見えた。
まるで、時間が一瞬止まったみたいに。
「お怪我はございませんか」
どうやら私は、彼にぶつかりそうになっていたらしい。
「あ、いえ……大丈夫です」
声が少し震えた。
彼はわずかに目を細め、安心したように微笑む。
その微笑みに、胸が大きく鳴った。
こんな気持ちは、知らない。
ただの一瞬。
名も知らぬ相手。
それなのに、どうして。
「それは大切な書類のようですね」
彼の視線が、私の抱えている封筒に向く。
「は、はい……」
「では、お気をつけて」
深く一礼し、彼は廊下の向こうへ歩いていく。
背筋の伸びた、その後ろ姿から目が離せなかった。
誰かに尋ねると、そっと教えられた。
「本田菊様ですよ。政府の要職に就かれている方です」
"本田菊"
胸の奥で、その名が静かに響く。
春の風が吹き抜ける。
もう一度、あの人に会いたい。
理由など、きっといらない。
ただ、あの静かな瞳を、
もう一度だけ見つめてみたい………












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!