第37話

黒白『海』
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2026/05/02 07:56 更新
白side


ぴゅうぴゅう風が吹く、寒い夜。

歩いて、歩いて、疲れ切った脚は、
痛いのを通り越してなんにも感じなくなって。

力が入らなくて、
その場に倒れそうになった矢先、
見えたのは、海だった。
……
ボロボロの足を引きずって、
なんとか揺れる水面へと向かう。

ぴちゃん

波が足の先に当たった。

崩れ落ちるようにして、砂浜に座り込む。
…綺麗、やねぇ…
出した声は思ったより掠れていて、
深い、深い海の中に、
溶けるように吸い込まれて消えていった。

...このまま、眠ってしまいたい。

そう思うと、ふっと力が抜けた。

体がぐらついて、
海の方へと倒れ込みそうになる

———が、その時。

水中から、手が伸びてきた。
っわ…
体が支えられる。

冷たい手。

でも、不思議と嫌じゃなかった。
怖くもなかった。

綺麗だとすら思った。

その時。
…なぁ
低く落ちた声。

ぱしゃん、と音がして、
海の中から浮かび上がるように影が顔を出す。
何しとるん?こんなとこで
…誰…?
……
問いかけると、
海の中の影は一瞬だけ黙った。

その姿が、月明かりに照らされる。

不思議なほどに濡れていない髪と服。
暗く、深い、夜の海みたいな瞳。

…やっぱり、綺麗だ。

そう、また思った。
…誰、やって?
水面がゆらりと揺れる。

冷たい指は、まだ腕を支えたまま離れない。
まるで、離す気すらないみたいに。
ないんよなぁ、名前…な、付けてくれん?
…なまえ…
濡れた砂浜で、ぼんやりと反芻した。

金色の瞳は、相変わらずこちらを見ている。
…悠くん
考えるより先に、声が落ちた。

ええやん、って“悠くん”が笑う。
…で、何しとるん、初兎
…あれ。
僕、名前言ったっけ。

なんて、そんな思いも
海の泡みたいにぱちんと弾けて、
何も考えられなくなる。

髪が、目が、声が———綺麗だ。
…つかれたんよ
掠れた声がまた、波に攫われていく。
気がついたら、歩いてて…しんどくて…
そこで、言葉は途切れた。

まるで、何かの御伽話みたいだ。
声を奪われた、海の中のお姫様の話。
…そっか
悠くんは、静かにそう言った。

ちゃぷん

手を引かれる。
ほな、来る?
…え?
もう一度水音が鳴る。

悠くんは、ほんの少しだけ口角を上げた。
海の中。静かで、なぁんも聞こえんで。
辛いことも、苦しいことも
当たり前みたいに悠くんは言った。

月明かりが波に溶けて、
その顔だけを浮かび上がらせていた。

海に浸かった足は冷たいはずなのに、
もうそれすら遠い感覚に感じた。
……
…海。
海に行けば、きっと楽になる。

もう歩かんでええし、
考えんでもええ。

全部、終わる。
…なぁ、初兎
ぎゅ、と掴まれていた腕に
さっきより少しだけ強い力が入る。
もう、ええやろ
その一言が、やけに優しくて、重かった。
……
声は出ない。

無言で、ゆっくりと首を縦に振る。

悠くんも、何も言わなくて。
ただ、にこりと微笑んだだけだった。

そのまま手を引かれて、
体が海の中へと沈んでいく。

頭まで入った時、
光る尾ひれが反射して見えた。
…ぁ
小さく零した声は、
ごぼ、と泡になって消える。

…あぁ、思い出した。

人魚や。
人魚姫。
初兎
綺麗な声が聞こえる。

息が苦しい。
ゆう、く…
人魚のまたの名を、セイレーンと言った。

美しい声で人々を惑わし、
海の奥へと連れ去る怪物。
これで、ずぅっといっしょやな
悠くんの声は、綺麗だ。
…っ、は…
目は、もう開かなかった。
水が肺の奥に入り込んでくる感覚。

苦しい…くるしい。

…でも。
———
その二文字を最後に、
僕は息を失った。

くす、と笑う気配。
俺も好きやで…初兎
次の瞬間、唇に何かが触れた。

ぷつりと意識が途切れて。
ただ、沈んでいく。

ゆっくり、ゆっくり———

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