八月十三日。
玄関を開けた瞬間、ひんやりとした空気とともに、ふわりと懐かしい香りがした。
あり得ない。
それでも__
たしかに覚えている香りだった。
あなたの下の名前がよく使っていた、あのやさしいシャンプーの匂い。
鍵を閉めて靴を脱ぐと、リビングのほうからカーテンが揺れた。
窓は閉まっているのに、夏の風だけがそっと室内を通り抜けていくような感覚がする。
呼びかけるつもりはなかった。
でも、名前が自然に口からこぼれた。
声が返ってきた。
ほんのり明るくて、少し照れているみたいな、あの声。
目を向けると__
ソファの端に座って、膝を抱えるようにしてこちらを見るあなたの下の名前がいた。
光を透かすような、淡い姿。
けれど、表情はあの日のままのあなたの下の名前で。
泣きそうなほどに、あたたかかった。
いつも通りの言い方。
ただ、それを聞けたのは何年ぶりだろう。
ハヤトはゆっくり近づき、ソファの隣に腰を下ろす。
ほんの数センチの距離なのに、胸の奥がじんと熱くなる。
響いた声は、確かにあなたの下の名前のものだった。
でも空気を揺らす重さはなく、触れれば消えてしまいそうなほど儚かった。
歩み寄ろうとして、ハヤトは一瞬ためらう。
近づけば、手を伸ばしたくなる。
でも伸ばしたら、きっと何も掴めない。
胸が締め付けられるほど、会いたかった。
会いたいと願うほど、もう会えない現実が突き刺さって痛かった。
なのに今、目の前にいる。
あなたの下の名前はゆっくり笑って、ハヤトの横顔をのぞきこんだ。
言ってしまった途端、喉が痛む。
どうしても理解したかった。
どうしても理由がほしかった。
あなたの下の名前は少しだけ視線を落とし、小さく息を吸った。
優しく告げられた言葉は、なぜか胸の奥にそっと落ちていった。
逃げ続けていた現実。
手放せなかった痛み。
それでも最近、ほんの少しずつ未来を考えようとしていた自分。
あなたの下の名前はその変化を見ていたのだ。
その声のかすかな震えが、ハヤトの心臓を刺す。
本当は、もういないはずの人が。
自分のために戻ってきた。
思わず手を伸ばしかけて、途中で止まった。
触れたい。触れたくてたまらない。
けれど、その指先があなたの下の名前をすり抜けるのが怖かった。
あなたの下の名前はその手を見て、少し悲しそうに笑った。
謝らないでほしかった。
触れられないのはあなたの下の名前のせいじゃない。
喉がつまる。
胸が熱くなって、呼吸を整えるのも難しくなる。
言った瞬間、体の奥が震えた。
あなたの下の名前はその言葉を聞くと、そっと近づいてきて、ハヤトの胸に手のひらを置く仕草だけをした。
もちろん、温度はない。
重さもない。
でも、その仕草だけで涙が込み上げる。
その声は、夏の光みたいに優しかった。
夜が近づくにつれ、あなたの下の名前の輪郭は少しずつ薄くなっていく。
焦る気持ちが喉の奥に溜まっていく。
いつ消えるかわからない。
次に会える保証もない。
自分でも驚くほど弱い声だった。
あなたの下の名前は首を横に振る。
その約束だけが、闇の中の灯のようだった。
寝室に移ると、あなたの下の名前はベッドの端に腰掛ける“ふり”をした。
重さはないのに、そこにいるだけで部屋の空気が変わった。
ハヤトはその隣に少し距離をあけて座る。
触れないとわかっていても、触れてしまいそうだったから。
その言葉の優しさに、やっと涙がこぼれた。
あなたの下の名前は嬉しそうに、でもどこか切なげに微笑んだ。
前に進むための奇跡。
前に進むための再会。
皮肉で、優しくて、残酷な愛のかたち。
手を伸ばす。
届かないと知りながら、どうしても伸ばさずにはいられなかった。
指先が空を切る。
それでも__
ほんの一瞬だけ。
確かに、そこに“温度”があった気がした。
錯覚だと分かっていた。
それでも、その一瞬が救いのようだった。
その夜、あなたの下の名前はハヤトの傍にいつか生きていた頃のように横になり、
ハヤトはあなたの下の名前の淡い姿が消えてしまわないよう、まばたきをするのさえ惜しんだ。
お盆の一日目は、
ふたりが再び巡り合うために与えられた、奇跡の始まりだった。








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編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!