第6話

4.事の発端
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2025/12/18 05:19 更新
瀬名泉
なんか、昔に戻ったみたいだねぇ
月永レオ
あぁ!そうだなっ!
泉の言葉に、元気と答えるレオ、静かに頷く凛月。
 彼らは至極当たり前のように――まるで昨日もおとといも去年も、今日までずっと、あのころと同じように四人で一緒にいたかのように、平然とした様子で私に向き合っている。
 な
んだか、私まで錯覚に陥りそうだった。今こうしていることが自然なことで、これからもずっとこうしているのが当然のような。
朔間凛月
すごく、嬉しい
凛月が無垢な眼差しを私に向け、花の蕾が綻ぶような声で言った。本当に心からそう思っている、というような顔で。
 それを見た瞬間、私には無理だ、と思った。私は彼にそんなふうに言ってもらえるような人間ではない。昔のようになにも怖れずに真正面から三人を見つめるなんて、できるわけがない。
 私はもう昔の私ではないから。彼らの知っている私ではないから。
 今の私を、彼らに、凛月に――見られたくない。
 私は、一度は緩みかけた唇をぐっと引き締め、視線を下に向けた。
月永レオ
なぁ、あなたの下の名前。あのさぁ……
レオがなにかを言いかけたそのとき、背後から騒がしい集団が近づいてくる気配がした。
 振り向かなくても分かる。“あいつら”だ。
 
背筋が寒くなった。この三人と一緒にいるのを、絶対にあいつらに見られるわけにはいかない。
月永レオ
あのさぁ…お願いがーー
私はレオの言葉を遮るように軽く手をあげ、勢いよく歩き出すと、その横をすり抜けた。
瀬名泉
あっ、あなたの下の名前!待って……
月永レオ
あなたの下の名前!待って!
泉とレオの声が背中に突き刺さる。肩が震えそうになるのを必死に堪えた。
 そして、二人の後ろに黙って立っていた凛月の傍らを通り過ぎる。すれ違いざま、囁くような、なぜか泣きそうにも聞こえる声が、ぽつりと言った。
朔間凛月
あなたの下の名前…
私は顔を背けて彼の瞳から逃れ、小声で三人に
あなた
ごめん、急いでるから
と告げ、小走りに教室へ向かった。
教室に入って自分の席に座り、昨日と同じように、これまでと同じように、俯いたままただひたすら時が過ぎるのを待つ。相変わらず、誰も私を見ないし、まして声をかけてくることもない。
 朝礼開始のチャイムと同時に、あいつらが馬鹿笑いと共に飛び込んできた。
島野
イェーイ!ギリギリセーフ!
島野
ラッキー! オレもう既に今月三回遅刻してるからさあ、特別指導になるとこだった!
クラスメイト2
いやいや、まだ今月あと二週間あるから、ぜってー無理だろ!
島野
それな!
ぎゃはは、と下品な笑い声。耳を塞ぎたくなるけれど、そんなことをしたらどうなるか目に見えているから、必死に堪える。
 すぐに担任が入ってきて、クラスを見渡しながら「出欠とるぞ」と言った。
「えーと、欠席者は……いないな」
 そのとき突然、
島野
はいはーい!
誰かが叫んだ。あいつらの中のひとり――リーダーの島野の声だ。
 思わず見ると、島野はにやにやと下卑た笑いを浮かべながら、先生に向かって挙手して、やけに嬉しそうに言った。
島野
あなたの名字さんが居ませーん!
瞬間、心臓が氷水の中に投げ込まれたように、大きく跳ねて震えた。

 まさか自分の名前が出されるなんて思ってもいなかった。クラスの人間が私の名前を口にするなんて、いつぶりだろうか。これまでずっと、わざとらしく『いないもの』扱いしていたくせに、なんで急に。いや、『いません』と言われたんだから、『いないもの』扱いなのは変わらないんだけど。今までは名前さえ呼ばれず、もとから存在しない幽霊のように扱われていたのに。
 
他の生徒たちはざわめきながら、ちらちらとこちらへ視線を送ってくる。面白がるような目、笑いをこらえるような目、どこか気まずそうな目、同情を装いつつも好奇心を隠しきれない目、特になんの感情もなく置物でも眺めるかのような無関心な目。
 
真っ暗な舞台袖で息を殺していたのに、唐突に胸ぐらを掴まれて力ずくで引きずり出され、無理やりスポットライトの真ん中に立たされた。そんな気分だった。
島野
いませーん!
「お前らなあ……悪ふざけも大概にしろよ。ったく……」
 
呆れたように肩をすくめてぼやいた先生は、一瞬私のほうを見たものの、深々と溜息をついただけだった。次の瞬間には何事もなかったかのような顔で出席簿を記入している。
 胸の奥のほうでちりちりとなにかが焦げるような感じがした。俯いてぐっと唇を噛む。
 
別に先生に助けてもらおうとか、救いを求めようとか、そんなことは微塵も思っていなかった。

弱味を見せるなんてまっぴらだから、事情を話すつもりもなかった。でも、あんなにあからさまな嫌がらせを目の当たりにしても、こんなふうに適当に受け流されるなんて。別に期待なんてしていなかったけれど、さすがに平常心ではいられない。悲しいとかつらいとかではなく、ただただ虚しくて腹が立った。
連絡事項の伝達が始まってみんなが前に向き直ったので、少し肩の力が抜ける。久しぶりに注目を浴びたせいで、身体が強張っていた。
 ふっと細く息を吐いたとき、ふと視線を感じた。目を向けると、ふたつ隣の席に座っている吉田さんだった。ひどく申し訳なさそう、と表現するのがいちばんしっくりきそうな表情だ。
 別に悪いのは吉田さんじゃないよ、という思いをこめて、私は小さく頷いて見せる。それでも彼女は重苦しい顔のままだった。
 無理もないかな、と思う私がこうなったのは、吉田さんのせいというわけではないけれど、確かに彼女がきっかけだったと言えるから。
 

私がクラスの“幽霊”になった原因は、彼女があいつらから受けた仕打ちについて、苦言を呈したからだった。つまり、私の下らない正義感のせいだ。


 六月のある日の昼休みのことだった。弁当を食べ終えた島野のグループが、いつものように教室の真ん中でふざけ合いながら騒いでいた。すると大山が体勢を崩して吉田さんにぶつかり、その拍子に彼女は食べかけの弁当箱を床に落としてしまった。
 
私を含めて周りにいたみんなが思わず声を上げたけれど、島野たちは、慌てて床にこぼれた食べ物を拾い集める吉田さんを見て、にやにやと笑い出した。謝罪もせずに。
 かちんときた私は、それまで『触らぬ神に祟りなし』と考えて接触を避けていた彼らに向かって、思わず声を荒らげた。
あなた
ちょっと!ぶつかったんだから謝りなさいよ!
その瞬間、吉田さんが弾かれたように顔を上げ、目を丸くして私を見た。
吉田さん
いっ、いいよ!あなたの名字さん。全然大丈夫だし
彼女は焦ったように手を振った。私は隣に腰を下ろして玉子焼きを拾いながら首を振った。
あなた
大丈夫なわけないじゃん。それに、お弁当までこんなんなっちゃって……
吉田さん
ん、でも、本当に大丈夫だから、
米粒とハンバーグのソースで汚れた手を、彼女はそれでも微笑みながらぶんぶんと振っていた。
 私の突然の非難に驚いたのか、意表を突かれたような顔でしばらく口を閉ざしていた島野が、ふっと笑みを洩らした。
島野
いやいや、そいつ縦も横もでかいんだから、ちょっとくらいぶつかったって大丈夫だろ
てっきり謝ると思っていたのに、そんな言葉が出たことが信じられなくて、私は唖然と彼らを見上げた。
クラスメイト2
だよなあ。ぜってー吉田より大山のほうが軽いし、平気だろ
島野に賛同する仲間の言葉に、大山が両手を叩いて大笑いした。
島野
てゆーか吉田さ、それ以上デブったらやべーじゃん。もう食わないほうがいんじゃね?
クラスメイト2
あはは!それな!
島野
だから俺はダイエットに協力してやったんだっつーの! むしろ感謝してほしいくらいだよな
かっと頭に血が昇り、全身が熱くなった。こんなに腹が立ったのは久しぶりだ、と思った。


 私は島野たちが普段から吉田さんをからかっていたのを知っていた。それでも彼女はいつもにこにこ笑って受け流しているように見えたので、苦々しく思いながらも黙っていたのだ。
 でも、これはあんまりだ、と思った。こんな酷い仕打ちを目の当たりにして黙っているなんて、絶対にできない。許せない。
 気がついたときには、私の手は大山の腕をつかんでいた。
あなた
あんたたち、最低!謝りなさいよ!
大山がぎょっとしたように目を見開いた。島野たちは眉をひそめて
島野
あぁ?
凄んできたけれど、怖さよりも怒りが勝った。私は激情のままに彼らを見回し睨んで、
あなた
みんな謝りなさいよ!
あなた
今まで言ったことも全部全部、吉田さんに謝れ!
そう叫びながら目を落とすと、彼女は弁当箱を握りしめながら俯き、肩を震わせていた。垂れた髪の間から見える耳や頬は真っ赤だった。
 
そのときの私には、彼女がなぜ赤くなっているのか分からなかった。怒りや悔しさだろう、と思っていた。
 
でも今思えば、あれは羞恥だったのだろうと分かる。私が「謝れ」と言ったことで、彼女は、自分が島野たちに馬鹿にされ傷つけられてきた現実を突きつけられてしまったのだ。きっと笑って受け流すことで見ないようにしていた、認めたくなかった現実を。
 
私は、失敗したのだ。人の気持ちが分からない――自分が傷ついているという事実を、弱さを、他人に知られたくないという繊細な気持ちが、理解できない人間だったから。

 でも、今の私には、あのときの彼女の気持ちが、痛いほど分かる。

 彼女に怒りがあったとしたら、島野たちよりも、私に対するものだっただろう。
 島野たちは結局謝らず、悪態をつきながら教室から出ていった。


その日を境に、私は彼らに疎まれ、目の敵にされ、あからさまな嫌がらせをされるようになった。持ちものを汚されたり隠されたり捨てられたり、陰口を叩かれたり直接暴言を吐かれたり、机を蹴られたり足を引っかけられて転ばされたり。登校したとき、移動教室や体育のあと、バカ、アホ、出しゃばり、カンチガイ女、などと油性ペンで机に落書きされているのを発見したことも、何度もある。
 
それだけなら、馬鹿な男子たちに絡まれて面倒だ、という程度で済んだ。でも、悪意は急速に広がっていった。彼らと親しくよく一緒に行動していた、クラスの女子の中心敵な派手で騒がしいグループが嫌がらせに加わり、おそらく彼女たちが提案したのだろう、無視が始まった。私をいないものとして扱い、わざとらしくぶつかってきたり、机を勝手に空き教室へと持っていかれたりした。それなのに、不愉快な視線をちらちら送ってきては、なにかひそひそしゃべりながら笑う。
 
そして、その無視には、クラスの全員が参加した。誰も話しかけてこなくなり、目も合わさなくなり、列の前からプリントが回ってくるときも、私だけ飛ばされた。
 
それまでの私にはいちおう、休み時間や教室移動、昼食時間などを共にする友達がふたりいた。出席番号が前後だったことで親しくなった女子ふたりだった。

でも、正直なところ、たまたま番号が近かったから仲良くなっただけの、校内限定の便宜的な友達という感じで、いちおう連絡先は交換していたものの課題や行事予定の確認などの事務的なもの以外でメッセージのやりとりはなかったし、休日に遊びに行くような関係ではもちろんなかった。彼女たちは少し気まずそうな顔をしつつも、他のクラスメイトと同じように私から離れていった。
一学期、私はクラスの副委員長をしていて、それなりに認められ、時には頼られていたように思う。それなのにみんな呆気なく島野側についた。薄情な、という気持ちはやっぱり込み上げてくる。
 
でも、仕方がないだろうと思う。誰もが、島野の機嫌を損ねて次のターゲットにされては堪らないと思っているのは明らかだった。よくある話だ。
 
島野は、子どものころから格闘技かなにかを習っているらしく、身体が大きい。しかも声も態度も大きい。

彼の腰巾着たちも、その威を借りて偉そうに振る舞っている。教室ではいつも、自分たちしかいないと思ってるんじゃないか、と疑ってしまうほどの大声で騒いでいて、立てる物音もいちいち大きい。

それに反応して眉をひそめるような人がいると、途端に険しい顔で「言いたいことあんのか?」と凄む。だから他の生徒たちは気にしない振りをするしかないのだ。子どもじみた恐怖政治みたいなものだ。みんな本気で恐れているというよりは、面倒なやつらと関わり合いになりたくない、と考えているのだろう。

 そうやって、島野たちから始まった私への嫌がらせは、集団無視という形でクラス中に広まり、私は幽霊になった。
いじめ、という言葉は、使いたくない。自分がいじめられているなんて、認めたくない。でも、客観的に見ればこれはいじめと呼ばれる状態なんだろう、と頭では分かっていた。

 本当に、くだらない。あいつら、自分たちの痛いところを突かれたからって逆恨みするなんて、あまりに幼稚だ。新しい楽しみを見つけたとばかりに嬉々として加担している彼女たちも。見て見ぬふりをするクラスメイトたち……はしょうがないとしても。
 
でも、別に、どうってことない。全然平気だ。
 私は強いから、ひとりでも全く大丈夫だから、こんなことで不必要に傷つけられたりはしない。あいつらなんかに傷つけられたりしない。

 それを行動として現すために、私はここまで、意地でも学校を休まずに来た。休んだら負けだ。落ち込んでいる、傷ついているのだと思われるだろう。それは島野たちをさぞかしいい気分にさせるだろう。それだけは嫌だった。たとえどんな目に遭おうと、どんな思いをしようと、あいつらのために休むなんて、私は絶対にしたくないのだ。
 
平気だということを行動で示す。それが今の私にできる精いっぱいの反撃だから。

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