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第1話

『メメント・ラブ:七日間の君』~m×s~
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2025/10/29 09:00 更新
『メメント・ラブ:七日間の君』~m×s~


Side 目黒

柔らかな朝の光が、真っ白なシーツに反射して病室を満たしている。窓の外では名前も知らない鳥たちが楽しげにさえずっていた。あまりにも穏やかで、残酷なほどにいつも通りの月曜の朝。俺はゆっくりと息を吸い込み、硬くこわばる心を無理やり解きほぐすと、ベッドの上で上半身を起こしたばかりの恋人に向かって、練習してきた笑顔を向けた。

「おはよう、佐久間君。よく眠れた?」
「……おはようございます」

彼は、少しだけ戸惑ったような、それでいて人懐っこい笑みを浮かべて俺を見つめ返す。その表情が、これから告げられる言葉を正確に予告していた。覚悟はできている。もう、何度も経験してきたことだから。

「あの……どちら様、ですか?」

その声は、澄んだ水のようにきれいで、けれどナイフのように俺の胸を切り裂く。昨日まで「蓮」と甘く呼んでくれた唇が、今は他人行儀に「どちら様ですか」と紡ぐ。彼の大きな瞳には、純粋な疑問だけが浮かんでいた。

昨日までの七日間に俺と育んだ愛情も、共有した時間も、交わした約束も、その瞳の奥にはどこにも見当たらない。すべてが、きれいさっぱり消え去ってしまった。まるで、初めから何もなかったかのように。

俺の恋人。一週間前、彼は事故で頭を打ち、記憶障害を負った。命に別状はなかったものの、彼の記憶は一週間しか持続しない。

毎週日曜の夜、眠りにつくと、その週の記憶だけが綺麗にリセットされてしまうのだ。

月曜の朝に目覚めた彼は、事故に遭う前の自分に戻っている。そして、俺という恋人の存在を、毎週忘れてしまう。

最初の月曜は、絶望した。

泣き叫び、医者に食ってかかった。

どうして、どうして俺だけを忘れるんだと、眠る佐久間君の肩を揺さぶったこともある。

けれど、何も変わらなかった。

現実は非情で、俺の涙も怒りも、彼の記憶を取り戻す力にはならなかった。それどころか、混乱する佐久間君を怯えさせてしまっただけだった。

だから、俺は決めたんだ。

泣くのも、怒るのもやめた。

彼が俺を忘れるというなら、何度でも出会い直そう。彼が俺を好きになるという奇跡が一度起こったのなら、その奇跡を、毎週起こし続けてみせると。

俺は、胸の奥に広がる鈍い痛みを笑顔で隠し、練習してきた完璧な挨拶を口にする。

「初めまして。俺は目黒。今日から君の担当になる理学療法士だよ。よろしくね」

これが、俺たちの新しい月曜の朝。忘れられても、また恋を始めるための、始まりの儀式。

――――――――――――――――

佐久間君の記憶が生きられるのは、わずか七日間。

だから月曜日は、俺たちにとって常に「初対面」の日だ。理学療法士として彼の前に現れる俺を、佐久間君はいつも少し警戒しながらも、興味深そうに観察する。その視線に、恋人だった頃の甘さは微塵もない。

それでも、不思議なことに、彼は決まって俺にだけ心を開くのが早かった。

「先生って、なんか話しやすいよね。初めて会った気がしない」

リハビリの合間の他愛ない会話の中で、佐久間君が屈託なく笑う。

その言葉を聞くたびに、俺の心臓はきゅっと切なく縮こまる。そうだよね、佐久間君。俺たちは、もう何度も「初めて」を繰り返しているんだから。お前が覚えていないだけで、俺は先週も、その前の週も、ずっとお前の隣にいたんだよ。

「そう?よく言われるよ」

平静を装ってそう返しながら、指先が微かに震えるのを隠すように、リハビリの計画書に目を落とす。本当は、「当たり前だよ、俺たち恋人同士だったんだから」と叫び出してしまいたい衝動を、必死で飲み込んだ。

"安心する"と彼が口にするたび、俺の脳裏には、記憶を失う前の週の彼が鮮やかに蘇る。

ソファで隣に座り、「蓮の匂いがすると安心する」と言って俺の肩に頭を預けてきた佐久間君。料理をしながら、「蓮が隣にいると安心する」と言って後ろから抱きついてきた佐久間君。そんな愛しい記憶の断片が、今の彼の無邪気な言葉と重なって、胸を締め付ける。

それでも、俺は信じている。いや、信じるしかない。

記憶という土台がなくても、彼の心は、魂は、きっとまた俺を選んでくれるはずだと。

俺たちが積み重ねてきた時間は、たとえ彼の脳から消え去っても、その心のどこかに温かい痕跡として残っているはずだと。

だから、俺はこの一週間も、彼をもう一度恋に落とすために全力を尽くす。

理学療法士という仮面を被り、あくまでも「先生」として彼に寄り添う。これは、彼を取り戻すための、俺だけの静かな戦いだ。

「さあ、佐久間君。リハビリの続き、頑張ろうか」

俺は顔を上げ、とびきりの笑顔で彼を励ます。また恋に落とすための七日間。その最初のページが、今、静かにめくられた。

―――――――――――――――――

午後のリハビリ室は、他の患者たちの声や器具の音で少し騒がしい。
俺は佐久間君の隣に座り、事故の影響で少し動かしにくくなった彼の指の可動域を広げるためのマッサージをしていた。

俺の指が、彼の一本一本の指に優しく触れ、関節をゆっくりと解きほぐしていく。

それは、理学療法士としてごく当たり前の行為。けれど、俺にとっては、かつての恋人との触れ合いを唯一許される、特別な時間だった。

その時だった。不意に、佐久間君が俺の手をぎゅっと掴んだのは。

「……あれ?」

彼の声は、自分でも予期せぬ発見をしたかのように、わずかに上ずっていた。俺が「どうした?」と尋ねるより先に、彼は続ける。

「先生の手……なんか、懐かしい気がする」



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