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第1話

The White Day
36
2024/03/14 13:24 更新
ロンディヌスの冬がやって来る。
あたしの国、ロンディヌスは気温が低いことで有名だ。
中でも、もうすぐやって来る「白氷雪期」は、一際寒く、国全体を雪一色に染め上げる。
その光景は、単なる積雪とは違い、ほんのりと青く、透明な雪景色なのだ。
この時期になると、人々はあまりの寒さに外へ出られなくなる。きっと、街では買いだめをする市民で溢れているに違いない。
その、お祭り騒ぎを脳裏に思い浮かべながら、あたしは、貧民街を踏みつけるようにしてそびえ立つ、城壁を見ていた。
ハンナ
ハンナ
………
城の向こうには、あたたかな暮らしがある。あたしの知らない、優しい世界が広がっている。
ロンディヌスは経済的にも余裕がある国だ。周辺国からも、一目置かれるくらいには裕福な懐をしている。
そんなロンディヌスのイメージとは程遠い暮らしが、あの城壁の裏側───この町に隠されている。
ロンディヌスの裏に住むのは、飢えと寒さで心を捨てる他なくなった、「汚ならしい」人間だ。
今日を生きること。例え誰かを犠牲にしても、今日を生きること。あたしが、生きること。
生きて、この町を出ること。
母さんと約束した。必ず幸せになること。
自分と約束した。この町を、「終わらせること」。
あたしは、城壁から視線を外すと、路地裏のテリトリーに戻る。
ハンナ
ハンナ
…腹、減ったな
何をしていても腹は減る。腹が減るのは、体が生きている証拠でもあり、生きようとしている証拠でもある。ハンナは静かに手を合わせた。これは、この町の唯一の文化とも呼べるもので、「生きるため」にこれから人として過ちを犯すぞ、という覚悟をしたことを表す。
「生きるための過ち」───あたしはこれから物を盗む。この町では、人を殺したり、物を盗んだりする前に、必ず両手を合わせて、こうして俯くのだ。
ハンナ
ハンナ
……生けるものこそかなしけれ。生けるものこそ哀しけれ。我ら今ひと度、光の内にあらんことを。
そう呟いてから、あたしはそっと目を開ける。
今日ターゲットにするのは、ここから3キロほど離れた肉屋だ。
この町で売られるものは、城壁の向こうで食いきれなかった残飯や、ほとんど腐っていて、売り物にもならないようなものばかりだ。 
親のいない子供は、チャリティーに保護されるので、食に困ることはあまりないが、あたしのように、15歳を越えた子供は保護されない。
つまり、自分の足で食い物を探すしかないわけだ。
今までの経験測からすると、城壁付近の、物品が集まりやすい地域よりも、少し離れた地域が盗みやすい。
それは、多くの盗人やチャリティー上がりの初心者は、城壁付近を狙うため、店の警戒が強くなるからだ。
逆に、離れすぎた地域も狙いにくい。そうしたところは、そもそも人口が少なく、町の中でも稼ぎ口のある奴らしか出入りしないからだ。
城壁付近よりも、一歩引いた店───警戒が弱く、タイミングさえ合えば、気付かれずに盗めるところ。
もちろん、あたしと同じ考えの奴らも一定数いる。だから日によって、ホットな店と、そうじゃない店が変化する。あたしの感覚だと、今日は肉屋が当たりだ。
ハンナ
ハンナ
行くか。
あたしは走り出した。
体が小柄な分だけ、スピードが出る。ありがたい。
貧民街の雪の積もった石畳を、颯爽と駆け抜ける。
ハンナ
ハンナ
(寒い、とても。)
寒さには慣れた方だが、やはり白氷雪期だけは酷く堪える。
今年はどうやって生きのびよう?
将来なんて、分からない。考えるだけ不安になる。だから、考えるのはやめだ。今は今にだけ集中すればいい。
そのとき、
男の子
男の子
うっ………ぐすっ…
そこに男の子が一人、裸足で立っていた。
チャリティー上がりなのか?ちょうどそのくらいに見える。
気がついたら、あたしの足は、その少年の方へ向かっていた。
ハンナ
ハンナ
……おい、ボーズ。どうしたんだ?
少年は、顔を上げてあたしを見た。
男の子
男の子
……寒い。
ハンナ
ハンナ
あ?
男の子
男の子
これからどうやって生きていけばいいの?僕は一人で死んでいくの?どこへ行けばいいの?……もう何もっ、分からないよ………
ハンナ
ハンナ
………ひとつ。
あたしは過去を思い出した。
ハンナ
ハンナ
分からない分からないじゃ、お前は生きていけないよ。
生きたいなら、自力で動くしかない。
ある頭を使え。何かしら、思い付くものがあるだろ。
男の子
男の子
………そんなこ
ハンナ
ハンナ
ふたつ。
ハンナ
ハンナ
やり方はひとつとは限らない。
一人で行動するのか、仲間を見つけるのか。
生きやすい方を選べばいい。
きつい発言だなんて、あたしが一番よく分かっているさ。
ハンナ
ハンナ
あと、
真っ白な雪の下を探ってみろ。
真っ白なところは人が踏んでいないところ。つまり、草が生えている可能性がある。
草を集めたら靴を編め。編み方は───あたしが教えてやる。
男の子
男の子
………!
少年は、パッと顔を光らす。
男の子
男の子
いいの?
ハンナ
ハンナ
いいも何もないだろ。
みっともなくて見てられないから、最低限を教えるまでだ。
ただし、タダでいいとは言っていない。
少年は、不安そうに、え?と声を漏らす。
ハンナ
ハンナ
お前が集めた草のうち、3割はあたしがもらう。それでいいか?
男の子
男の子
…!もちろん!!
ハンナ
ハンナ
交渉成立だな。
じゃあ、あたしは行くから。
男の子
男の子
え…何処に?
ハンナ
ハンナ
野暮用だよ。
すぐ戻るから、ここで集合な。あんま遠く行くなよ。
男の子
男の子
分かった
あーあ、あたしは何をしてるんだろうな。
情報を分け与えるのに、草が報酬じゃ、やってらんねーよ。
ハンナ
ハンナ
じゃあな
あたしはまた駆け出した。
何甘ったれたことしてんだろうな。ここで生き抜くには、他人に教えてもらってちゃあ上手くいかない。
あの少年が生き延びるには、あたしが口出ししてちゃいけないのに。
ハンナ
ハンナ
(全く、迷惑だよな、あーいうの。)
もうすぐで目的の場所だ。あたしは走っている足を止め、徒歩に切り替える。
ここからは慎重にいかないと。
あくまで自然に。他の客が入った後に続くんだ。
ハンナは、建物の影から、前方10メートル程にある肉屋を睨む。それは、荒野で獲物を狙う肉食動物と何ら遜色のない眼だった。
そのまま待っていると、大柄な男が店に近づいてくるのが見えた。
ハンナ
ハンナ
(………今か。)
タイミングを見計らい、陰から通りに出る。
人目がないことも確認した。絶好のタイミングだ。あたしはあくまでも一般客を装い、店のサッシを跨いだ。
店の中は、木箱がずらりと並んでいて、その木箱の内側に布を敷き、凍った肉塊が十数個入れられている。
肩ロースなどの大きな部位は、上から吊るされていて、そのロープに値札が貼られている。
あたしは、商品を吟味するように、店の中を練り歩く。
ハンナ
ハンナ
(……こんなもんかな。)
一通りそれっぽく振る舞うと、店番から死角になっている位置に移動し、肉を手に取ってみる。
横目で人に見られていないか確認すると、あたしはその肉を、黒コートの懐に忍び込ませた。
ハンナ
ハンナ
(よっしゃ、これでOK…!)
これで数日はやっていけるな。
用がすんだので、また店のサッシを跨いで、外へ出ようとした。
しかしその時、ふと、さっきの少年の顔が思い浮かんだ。
あいつ、あの様子じゃあすぐ死ぬな。盗みも下手そうだし。
ハンナ
ハンナ
………
ハンナはくるりと振り返ると、また店の中に戻った。
怪しまれるのは承知だったが、いくらでも言い訳はできるはずだ。
また、先ほどと同じように、肉の安いコーナーをうろつく。そうすれば、お金がなくて、何とか買えるものを探している少女に見えるかと思った。
小さい店の中で、あたしと店番、大柄の男だけが商品を見ている。
ハンナ
ハンナ
(……今か!?)
店番が背を向けたのを確認して、すぐに肉をコートの中に滑り込ませようとした。
その時───
大柄な男
大柄な男
ちょっと、君何を───
しまった。
大柄の男が見ていたようだ。
声に気づいた店番の目が、ギロリとあたしを捉えた。
ハンナ
ハンナ
っ!
男の足元をすり抜け、あたしは全力で駆け出した。
店番
店番
おい!!この犯罪者が!待ちやがれ!!
後ろで店番のオヤジの怒号が響き渡る。
でも、そんなの知ったこっちゃない。
生きるためには食べなきゃいけない。それにはお金がなくちゃいけない。でもそれもない。稼ぎ口もない。なら、盗むしかない。
店番
店番
社会のクズが!お前みてぇなゴミは、大人しくドブ水食らって死ね!!
なんでこーなるかな。やっちまったよ。
ついてねえな。これでひとつ、食いぶち潰れちまった。
何故か鼻の奥がつんとした。
あたしは必死に走った。店番はもう、追って来ていなかった。息が苦しくても、寒くて体が悲鳴を上げても、あたしは店番でも何でもない、何かから逃げるように、狂ったように走り続けた。
ハンナ
ハンナ
っはあっ、はあっ、はあっ…
いつの間にか、少年と約束した場所のすぐそばまで来ていた。
辺りを見渡してみる。
ハンナ
ハンナ
(あれ、あいつまだ帰ってきてないのか?)
思いながらも、進んでいく。
ハンナ
ハンナ
(あれ、なんだこの赤いの……)
雪の上に、真っ赤な液体が垂れたような跡があった。
もしかして───
男の子
男の子
うっ、ううう……
この声は。
ハンナ
ハンナ
(あいつ……!)
少し離れたところ───5メートル圏内に、あの少年のうめき声のようなものが聞こえた。
もう一度、辺りを見回す。
ハンナ
ハンナ
(……!あの家の裏か)
すかさずあたしは走り出した。
そして、その家の裏に入る。
ハンナ
ハンナ
おいっ!大丈夫───
そこには、鼻血を垂らしてぐったりとした少年が、無造作に転がされていた。
それを、3人の男が取り囲んでいる。ドイツもコイツも、大柄で、明らかにヤバそうな、鋭い目つきをしている。
あたしは、震える指先を、拳の中にしまいこみ、きつく握った。
ガラの悪い男A
ガラの悪い男A
おいおい、これからだってのに保護者登場ってか。
ハンナ
ハンナ
お前ら、そいつに何した…っ?
ガラの悪い男のうち、一人がニヤニヤと笑いながら近づいてくる。
ガラの悪い男A
ガラの悪い男A
べぇつにぃ?ただちょっと遊んでやってただけじゃん。何か文句あんの?
にぃさん。
そうか。
コートで体格が分からないから、コイツらあたしのこと男だと思ってんのか。
ハンナ
ハンナ
……ふざけるなよ。
ハンナは眼光を尖らせ、構えのポーズをとる。
ガラの悪い男A
ガラの悪い男A
おーおー、威勢のイイことだなァ!
おーおー、威勢のイイことだ_

_
ガラの悪い男A
ガラの悪い男A
……ハハハッ!
すぐに間合いをとる。
男は、嗤っていた。やっぱり、効いていない。
ガラの悪い男A
ガラの悪い男A
頑張ったなぁ?クソガキ!じゃあ、今度はこっちの番だ!!
男の太い腕が、脇腹めがけて飛んでくる。
ハンナは、とっさに脇腹をガードする。しかし、
ハンナ
ハンナ
っあああ!
重い。骨がミシミシと軋む。
男の子
男の子
……っにげてっ!
少年が、涙で顔をぐちゃぐちゃにして、あたしに叫ぶ。
ハンナ
ハンナ
っ、っせーよ。お前が逃げろ…
ハンナは何とか構え直す。
男たちはキモチワルく嗤っている。
ガラの悪い男A
ガラの悪い男A
ハハッ!美しいねぇ!いつまで耐えられるかな?小僧!!
また、鉛のように重い腕が脇腹を打つ。
ハンナ
ハンナ
っが!
ハンナは崩れ落ちた。
それを、次々に男たちが蹴り飛ばす。頭や耳の中がキーンと音をたてる。目が、ぼやける。
ハンナは、何度も立ち上がろうとする。
しかし、その度に足を払われ、転けさせられる。
ガラの悪い男A
ガラの悪い男A
おいおい、その程度かよ!
つまんねえっなぁ!!
ハンナ
ハンナ
………ぁっ!
ハンナは最早、されるがままだった。
男たちの容赦ない攻撃に、身体が悲鳴を上げる。ハンナが女だと知らないので、余計に残酷であった。
いや、逆に、女だとばれていなくて、不幸中の幸いだったかもしれない。
強姦、売身、追い剥ぎ……
暴力よりも屈辱的な状況が、用意に想像が出来た。
脳裏に浮かぶ光景が、激痛によって搔き消されていく。
次第に意識が遠くなり、痛みすら感じなくなってきた。ハンナはなす術もなく、意識を手放した。



パチ……パチ……
ハンナ
ハンナ
(………)
パチ……パチ……
ハンナ
ハンナ
(……焚き火…?)
なんだか、暖かい。
あれ、あたし、どうしたんだっけ…?
男の子
男の子
おねーちゃん!!
ハンナ
ハンナ
……ボーズ?
うっすらと目を開けると、少年が心配そうにこちらを覗き込んでいる。
ハンナ
ハンナ
……怪我、ないみたいだな。よかった
男の子
男の子

何言ってるの、まずは自分のことを心配してよっ……!
あれ、何でこいつ泣いてんだ?
あー、まだ頭ぼんやりすんなぁ。
大柄な男
大柄な男
気がついたか。
ハンナ
ハンナ
コイツっ……!あの店にいたデカブツじゃねえか!
ハンナ
ハンナ
お前っ……!
ハンナは突如、男に殴りかかろうと、勢いよく起き上がった。
ハンナ
ハンナ
いっ……!
大柄な男
大柄な男
まだ安静にしていなさい。酷い怪我だ。
男の子
男の子
そうだよ、おねーちゃん!
しかも、この人はぼくらを助けてくれたんだよ?
コイツが……?あたしらを?
大柄な男
大柄な男
まだ名前を名乗っていなかったな。
私はレギウスだ。よろしくな。
なんだコイツ。
あたしがコイツに助けられたって?冗談言えよ、だってあたしはコイツのせいで盗みがばれたってのに。
ハンナ
ハンナ
(!そうだ、肉は───)
急いで懐を探ってみる。しかし、肉はどこにも見当たらない。
ハンナは、レギウスと名乗る男をギロリと睨み付けた。
ハンナ
ハンナ
…おい、お前。あたしの肉をどこにやった?
男は無表情のまま答える。
レギウス
レギウス
あの肉は君のじゃない。店のものだ。
つまり、コイツはあたしの肉を、あの店に戻したってのか……?
ハンナ
ハンナ
は?何やってくれてんだよ……!せっかくの人の食料を!!
ハンナはまた起き上がろうとした。
男の子
男の子
おねーちゃん!!
その時、少年が叫んだ。
ハンナ
ハンナ
……わあってるよ。
あたしはまた、男を睨み付けた。
レギウス
レギウス
……君は、どうして盗みを?
男は、やっぱり無表情のままで、こちらをまっすぐ見つめていた。
ハンナ
ハンナ
はっ!食いもんがねーからに決まってんだろ。
それに、食いもんを買えるような金も、仕事も、こちとらねーんだよ。
何処かの誰かさんと違ってね。
ハンナはわざと見下すような口調で言った。
しかし、男は、何処か悲しそうな顔をした。
ハンナ
ハンナ
(あれ?怒んねぇのか……?)
沈黙が立ち込める。
あたしはどうすれば良いか、分からなかった。
しばらくしてから、男はこう言った。
レギウス
レギウス
君は、盗みが正しいことだと思うか。
ハンナ
ハンナ
……
はぁ?いきなり何だ、コイツ。
ハンナ
ハンナ
…正しくない。だから?
綺麗事なら飽き飽きだ。正しいとか、間違いとか、そんな問題じゃない。この町ではな。生きるか、死ぬかの瀬戸際でみんな戦ってんだ。
正しさが飯をくれるのか?正しさが寝床を用意してくれるのか?違うだろ。
おっさん、テメェもそんぐらい分かってんだろ。
ハンナは目に力を込めた。
ハンナ
ハンナ
…何が言いたい?
また、静寂が辺りを包む。
オッサンは、静かに目を閉じた。
レギウス
レギウス
あの輩どもは、そこの少年を盗もうとした。
………は?
レギウス
レギウス
あの輩どもも、君と同じ、貧しさに苦しむ者たちだ。
奴らは、そこの少年を売るつもりだったのさ。無論、金銭を得て、食事を買うためだろう。
ハンナ
ハンナ
……
レギウス
レギウス
もし君が盗みを生きる手段として、許すのなら、彼らだって許されてもいいはずだ。
だが、君は許さなかった。
赤の他人であるはずの少年を、その身を呈して守った。それは、君がそれを正しくないと、「強く」思ったからじゃないのか?
ハンナ
ハンナ
………
そうだ。
あたしはどうしてこの少年を守ったのだろう?
レギウス
レギウス
君にとって、少年を守ることが正しいことであったのと同じように、私にとって、君の盗んだ肉を元の場所に戻して、代わりに店主に頭を下げることが、正しいことだった。
これが、私があの肉を店に戻した理由だ。
こいつ、あたしの代わりに頭も下げたのか……。
男の子
男の子
それに、おじさんはおねーちゃんを助けたくれたんだ!
おじさんってば、凄かったんだよ~?
3人いっぺんに相手にしても、一撃だってもらわなかったんだ!
ハンナ
ハンナ
うそだ…
男の子
男の子
本当だよ?
ねえ、おねーちゃん。このおじさん、全然悪い人なんかじゃないよ!
だって、助けてくれただけじゃなくて、ぼくたちをここにおいてくれるんだって!!
ハンナ
ハンナ
は?
ハンナは信じられない気持ちで、男を見る。
ハンナ
ハンナ
っ、さてはお前!何か企んでんだろ?!
そうだ、こんなうまい話があるわけないんだ。
ハンナは慌てて表情を固くした。
しかし、男の方は少し微笑んで、言った。
レギウス
レギウス
少年の言うことは本当だ。
私は君たち二人を引き取ることにした。……これ以上、子供たちの信じる正しさが歪められるのが、私は見ていられないんだ。
男は何処か遠い目をして言った。
何か古い記憶を思い出すような、苦しいような、悲しいような───とても簡単な言葉では言い表せないような、そんな顔をしていた。
ハンナ
ハンナ
……言っておくけど、あたしはあんたのこと、まだ信用した訳じゃないからな。
少しでも怪しいことをしたら…ただじゃおかない。
レギウス
レギウス
ああ、分かっているさ。
あたしは信じない。
だけど、この家は、焚き火だけじゃないあたたかさがあるような気がする。
男の子
男の子
そーだ!おねーちゃん!
おねーちゃんの名前、何て言うの?
少年の目が、きらきらと星のように煌めいている。
思わず、ふっと息を漏らす。
ハンナ
ハンナ
おいおい、その前に自分が名乗るのが礼儀ってもんじゃあないのか?
男の子
男の子
っ!そ、そうだね!
ふふっ、真に受けちゃってさ。ほんと、ばかっていうか……
男の子
男の子
ぼくの名前はカラムっていうんだ!
おねーちゃんは?
ハンナ
ハンナ
ハンナ。ハンナだよ。
よろしくな、カラム
カラム
カラム
うん!よろしくね、ハンナねーちゃん!
ハンナは、レギウスの方を見る。
ハンナ
ハンナ
レギウスって言ったな?
あたしはハンナ。よろしくな。
レギウス
レギウス
…ああ、よろしく。
こうして、レギウス、ハンナ、カラムの3人は共同生活を始めることとなった。
それからしばらくして───
あたしはレギウスがどんな仕事をしているのかを知った。
それは、文章を書く仕事らしい。
紙の束が売れるなんておかしな話だが、レギウスの考えた物語が、壁の向こうにいる、とある貴族によって買収されていて、その貴族が、あたかも自分が書いたかのように、世間に発表して、レギウスの代わりに好評を受けているらしい。
レギウスの稼ぎは、利益のうち、数パーセントしかないらしい。
それでも、これが唯一自分ができることだから…ということらしい。
ハンナ
ハンナ
あたしに字を教えてくれないか?
あたしはある日、レギウスにそう頼んだ。
レギウス
レギウス
良いけれど……どうしてまた急に?
ハンナ
ハンナ
あたしも、レギウスみたいに物語を書けるようになりたい。
あたしは、いつかレギウスがあたしの目をまっすぐに見据えたように、彼を見つめた。
レギウス
レギウス
……簡単ではないよ。それでもかい?
ハンナ
ハンナ
……ああ。
あたしは生きる。そして、生きてこの町から出る。
母さんと約束した。幸せになること。
自分と約束した。
この町を終わらせること。
あたしの書いた文章が、何かのきっかけになれば良い。いや、絶対にそうなる。
あたしは、この「不幸な町」を、必ず終わらせてやるんだ。

カラムがもう寝静まった頃だろうか。小さな窓から、ちょうど満月が見えていた。
あたしには、守りたいものがたくさんできたんだ。それは、幸せなことであると同時に、苦しくて、途方もない戦いのようなものなのだろう。
それでもいい。あたしは、あたしの信じる正しさに、もう嘘をつかずに生きるんだ。
いつも表情に乏しいレギウスの顔が、心なしか、あの時のように優しく微笑んだように見えた。

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