高嶺の花に恋をする🐿️の話。
時が、止まったような気がした。
僕の心臓まで止めてしまいそうなほど
魅惑的な焦げ茶の瞳。
音が、止まった。
その中で、コポコポと清流の水が息をするみたいな、
そんな心地のよい音が
耳の横を流れていったような気がしていた。
まっすぐ、前を見つめる。
ふと投げかけた視線は一瞬の交差のあと
すぐに逸らされてしまったけれど、
もう一度、もう一度…と、欲を隠せない僕の視線に
彼女は飽きることなく何度か応えてくれた。
箸に乗せたご飯が運ばれる
小さく開いた口。
目の前に座る友人の冗談に、
手を口元に添えて笑う顔。
毛先まで丁寧に巻かれたミルクティーの髪に、
目を引きつける朱色のニット。
ガヤガヤと人の声が交わる学食。
…そこだけが、
僕にとって「特別」だった。
彼女が、僕の隣に座るヨンジュンという友人の
知り合いだと言うことは、以前から知っていた。
僕と同じ軽音サークルらしい、
彼女のバンドメンバーに
僕のドラムスティックを貸してやれないかと
ヨンジュンに頼まれたときは何事かと思っていたが、
それを頼み込むヨンジュンの顔は真剣そのもので、
この人をここまで必死にさせるなんて、
どんな人だろうと思っていた。
夕食をヨンジュンと共に食べるべく
食堂で待つ僕の視界に映ったヨンジュンと彼女の姿は
完全に心を開ききった二人のようで、
少し羨ましく思ったこともある。
結局、ヨンジュンを介して渡されたスティックは
再び彼を通してあっさり返却され、
僕と彼女との間にはなんの関係もなくなったのだが。
彼女の髪が、明るくなったことに気がついた。
ヨンジュンとすれ違い楽しそうに頷くところを見ると、
二人は大型連休が明けてまだ数日しか経っていないのに
もう何度か話しているらしい。
彼は髪のことにももう触れたんだろうか。
男子寮の部屋で地元のお土産を
仕分ける姿を見かけたけれど、
あれはひょっとして彼女のものだったんじゃないか。
だとしたら、お土産を渡すときにでも
髪の話題にも触れているか。
何を僕は真剣に考えているんだろう。
と思う。
だって、僕にはなんの関係もないのだ。
ヨンジュンはともかく、彼女とは、なにも。
ヨンジュンが僕をすり抜けたその奥を見て、
笑った。
振り向くまでもなくわかる。
『ありがとー!』
「いいえ、ちゃんと返してね」
『もちろん』
ポケットから取り出したUSB、
それが渡るのは彼女の手。
もう、声までも覚えてしまった。
彼女が僕の後ろのテーブルに着席したあと、
彼は暫く手をじっと見つめていた。
触れたんだな。
なんの説明も求めていやしないのに、
ヨンジュンは口を開く。
ヨンジュンと彼女は同じく教職を履修しているらしい。
その授業で必要だから貸してあげるんだって。
…へえ、と思った。
彼は続ける。
バイト先が同じで、…あいついいやつだよ。
って。
声に出さずに「そう」と言った風に頷くと、
ヨンジュンは照れくさそうに笑う。
「テヒョンの話も何回かしてるから、
あいつお前のこと知ってるよ」
「…へえ」
今度は声が出た。
その瞬間、…ちょっと、ちょっとだけ、
心が暖かくなったような気がする。
僕だって知ってるよ。
ちょっと前はオリーブがかった
柔らかい暗髪をしていたこと。
…それから、その髪色の前は
オレンジに近い金髪だったこと。
いつもちゃんとお洒落に服を着こなしていること。
…それが、ヨンジュンとお似合いだってこと。
案外サバサバしていて、
綺麗な顔のわりに恋愛に興味なさそうで、
周りの男の雰囲気が読めないこと。
でも案外、人たらしなこと。
金曜の食堂で振り向いたその顔は
少し疲れているようにも見える。
いつもより薄く見えるメイクに
ノーセットの髪の毛、
いつもより血色のない唇。
なんの話の流れか、
ふと後ろを見た彼女は
僕と目が合ったのか合っていないのか
わからないような微妙な秒間で、
すぐに友人の方を向き直り、
しゃんと座ってしまった。
それでも、彼女の視界にヨンジュンが
いなかっただろうことに、僕の口角は上がっていく。
だって、ヨンジュンと違い僕は
きっと彼女の視界の端くれくらいには映れたのだ。
焦点が合ってなければ意味がない、
なんていつかの僕は言っただろうけど。
広い講堂での講義で、
彼女らはいつも同じ席をとる。
真ん中のブロックの一番後ろ。
これは同じコマを取っていない
ヨンジュンは知らない。
前回は一番端に座っていたから、と通路を挟んで
隣のブロックの2列前、一番端に座る。
友人と冗談を交わしながら、
教授がまだ来ておらず暗い講堂に彼女が入ってくる。
珍しくマスクにキャップ。
少しふらついた足元が危なっかしくて、
思わず目で追ってしまう。
それ、ほぼ前見えてないだろ…と
ゆっくり階段を上ってくる彼女を見ていると、
彼女は僕の座っている段で足をとめる。
「…!」
なんだ、と視線を向けたのもつかぬ間、
階段に飛び出した僕の荷物を
マスクとキャップの隙間で捉えた彼女は
それを避けてまた階段を上がっていった。
新たに合流した友人との軽い冗談が聞こえてくる。
男の名前が聞こえた。
その名前はヨンジュンのものとも、
当然僕のものともかけ離れていて、
ああ、この人は人たらしで男女共に
高い信頼を集めているんだった、と
少し肩を落としてしまった。
レジュメを取りに行って、
再び階段をのぼる後ろ姿を見守る。
彼女の友人たちは既に彼女の前にいて、
僕は彼女の後ろをついて上る。
黒い服から見える白い肌に、
思わず唾を飲んでしまった。
ふわっと香った匂いは、
蜂を呼び寄せる蜜みたいに甘かった。
目が離せない。
僕より幾分も低い位置にある頭が小さくて、
小動物みたいだなと思った。
そんな僕を知ってか知らずか、
彼女はあっさり、淡々と階段を上へ上って、
椅子に座ってから僕を横目で一瞥した。
それから、レジュメへ目を落とす。
両端から投げられる声に、
楽しそうに応えている。
…そういえば、今日は真ん中に座るんだな。
学食のサラダにドレッシングをかける彼女の横から、
醤油をとってすぐ横のテーブルに持っていく。
ヨンジュンからは
「お前さ、そのくらいそこでかけろよ」と
彼女のいる場所を指さされてしまった。
さっと元の場所へ戻して机に座る。
ちらっと盗み見た彼女のお盆には冷奴が乗っていて、
醤油を横取りしてしまったのかも、と焦る。
何事もなかったかのように僕の戻した醤油を
手に取ってかけ、水を注いで自席に戻る途中。
彼女は僕らのいる方とは逆のテーブルを見て、
先に彼女の目の前に座っていた友人に笑いかけていた。
その視線の先には、僕と同じ学部のモテ男。
そいつの視線も彼女にあることに気がついて、
なんだかモヤモヤとしてしまう。
…いやいやいや、彼氏でもあるまいし。
というか、僕は話しかけたことはおろか
名前すら知らないのだし。
「あいつさあ、あの子のインスタフォローして
急にDM送ってきたんだって」
「あげくの果てにはちゃん呼び。」
「狙ってるの見え見えであの子も困惑してたわ」
ヤキモキしていたのは僕だけではなかったらしい。
隣に座るヨンジュンが
真っすぐ彼女を見つめながら言う。
そんな相談されるほど仲がよかったのか、
この二人は。
んで、と隣の隣のテーブルに
視線をやってヨンジュンは言う。
「あいつも、あの子のこと多分気になってる」
それは僕らと同じ寮、彼女と同じ学科の
僕らとも仲のいいスビンで、
おいおいまじかよ、と思わずにはいられない。
彼女が以前ヨンジュンにスビンの話を
していたのを思い出してしまったのだ。
加えて、ヨンジュンとスビン、
そして彼女は同じバイト先。
「…いや、気持ちはわかるんだけどさ…
マジで良い子だし優しいし、
最近より可愛さに磨きがかかってるし…」
彼女を見ていた人間はすぐ気づけるんだな、と思う。
この大型連休が明けて地元から帰ってきた彼女は、
より一段と魅力を増していた。
アンニュイな視線すら、
僕らの目を引きつけてやまないほどに。
5限の授業が終わって、
背伸びをしながら階段を下りる。
珍しく3号館で行われた講義は
友人ら誰とも被っていないコマで、
何かあった時に頼る人がいない分、集中力を使う。
ぐっと目を閉じながら最後の段を下り、
角を曲がったところでとんと誰かにぶつかる。
やべ、誰もいないと思って油断していた。
その瞬間、ふわっと鼻を擽る匂いと、
『…っぁ、』という声に目を見開く。
近くで彼女と目が合った。
長い睫毛やカラコン、もちっとした肌に視線を奪われて、
なんだか夢見心地に「すみません…」とこぼす。
『こちらこそ、怪我してませんか?』
「大丈夫、です…」
覗き込む瞳はいつもの焦げ茶とは違い、
光をたくさん吸収してキラキラしている。
その目に、僕が映っていた。
唖然と、呆然として開いた口が閉まらないでいると、
考えを巡らすように彼女は顎に手を当てる。
…いや、なんでここに。
5限のリアクションペーパーを記入していた僕が
教室を出たのはかなり遅かったはずなのに。
そんな僕の考えは、彼女の言葉に掻き消される。
『…あ、テヒョンくんだ、ヨンジュンと友達の!』
目を見て、無邪気に笑う。
宝物を見つけた小さい子みたいな、
弾けるような純粋な笑顔。
僕を見ている。
紛れもなく、僕だけを。
…こんなの、
こんなのどうすればいいんだろう。
記憶の奥に一瞬で張り付けられて、
なかなか離れてくれない衝撃。
うまく声にできない感情まるっと、
にこやかに笑う彼女。
「…あの、」
『…?』
「名前、聞いてもいいですか」
僕らのアルバムの表紙に貼り付ける1枚は、
今この瞬間がいい。
引き留めるように思わず掴んだ手首。
手汗が滲んでいないといいなと思った。
『…あはは、真剣な顔してなにかと思ったら』
『あなたです、よろしくね』
きっと僕は、もうこれ以上
見て見ぬふりはできないと思った。
この感情の名前はまだうまく分からないけれど、
目に焼き付いた笑顔は、ずっと後を引いていた。












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。