前の話
一覧へ
次の話

第5話

🌼–4
44
2025/10/09 21:00 更新





白いバルーンのような部屋から戻ると、カフェの空気は、あの日の午後の穏やかさを取り戻していた。











ハンは何も言わず、約束通り、フィリックスのためだけに豆を挽き、一杯のコーヒーを淹れた。



HAN
…どうぞ。あなただけの、特別なブレンドです




差し出されたカップから、ふわりと、雨上がりの土のような、優しくて少しだけ切ない香りが立ち上る。









フィリックスは、こくりと一口飲んだ。温かい液体が、空っぽになった心に、ゆっくりと染み渡っていくのがわかった。














言葉は、ほとんどなかった。








ただ、穏やかなジャズピアノの音色と、二つの調和した心の音だけが、静かに店を満たしていた。













やがて、カップを空にしたフィリックスは、静かに席を立った。









そして、ドアを開ける前に振り返ると、今までハンが見たことのない、はにかんだような、それでいて心からの本物の笑顔を、ふわりと浮かべた。

HAN
またのお越しをお待ちしております。
あ!僕が心の調律師であることは内緒でお願いします^^


Felix
ふふっ、わかりました!
…ありがとう


その一言は、彼の新しいハーモニーのように、心地よく響いた。






チリン、とベルの音が鳴り、彼は帰っていく。その後ろ姿からは、もう悲しい音は聞こえなかった。






























――それから、数日後。









平日の午後3時すぎ。







『SKZOO』には、いつもの穏やかな時間が流れていた。





壁一面のレコード棚、コーヒーの香り、そして、心地よいジャズピアノの音色。









チリン、とドアベルが鳴る。







ハンが「いらっしゃいませ」と顔を上げると、そこに立っていたのは、一人でやってきたフィリックスだった。









彼は派手な音を立てるでもなく、静かにハンに微笑みかけると、お気に入りの席になった窓際へ向かう。









彼の心臓から聞こえてくるのは、もう、あの痛々しい不協和音ではない。







軽快なポップスのリズムが、オルゴールの優しいメロディを支えるように寄り添う、彼だけの、美しいハーモニー。









本を片手にコーヒーを注文する彼は、もう『未調律』ではない。










この聖域の穏やかな調和の一部となった、大切な常連客の一人だ。












ハンは、そんな彼の姿に目を細めながら、最高のコーヒーを淹れるために、ゆっくりと豆を挽き始めた。

プリ小説オーディオドラマ