白いバルーンのような部屋から戻ると、カフェの空気は、あの日の午後の穏やかさを取り戻していた。
ハンは何も言わず、約束通り、フィリックスのためだけに豆を挽き、一杯のコーヒーを淹れた。
差し出されたカップから、ふわりと、雨上がりの土のような、優しくて少しだけ切ない香りが立ち上る。
フィリックスは、こくりと一口飲んだ。温かい液体が、空っぽになった心に、ゆっくりと染み渡っていくのがわかった。
言葉は、ほとんどなかった。
ただ、穏やかなジャズピアノの音色と、二つの調和した心の音だけが、静かに店を満たしていた。
やがて、カップを空にしたフィリックスは、静かに席を立った。
そして、ドアを開ける前に振り返ると、今までハンが見たことのない、はにかんだような、それでいて心からの本物の笑顔を、ふわりと浮かべた。
その一言は、彼の新しいハーモニーのように、心地よく響いた。
チリン、とベルの音が鳴り、彼は帰っていく。その後ろ姿からは、もう悲しい音は聞こえなかった。
――それから、数日後。
平日の午後3時すぎ。
『SKZOO』には、いつもの穏やかな時間が流れていた。
壁一面のレコード棚、コーヒーの香り、そして、心地よいジャズピアノの音色。
チリン、とドアベルが鳴る。
ハンが「いらっしゃいませ」と顔を上げると、そこに立っていたのは、一人でやってきたフィリックスだった。
彼は派手な音を立てるでもなく、静かにハンに微笑みかけると、お気に入りの席になった窓際へ向かう。
彼の心臓から聞こえてくるのは、もう、あの痛々しい不協和音ではない。
軽快なポップスのリズムが、オルゴールの優しいメロディを支えるように寄り添う、彼だけの、美しいハーモニー。
本を片手にコーヒーを注文する彼は、もう『未調律』ではない。
この聖域の穏やかな調和の一部となった、大切な常連客の一人だ。
ハンは、そんな彼の姿に目を細めながら、最高のコーヒーを淹れるために、ゆっくりと豆を挽き始めた。











編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。