彼女は助手席に迷いなく乗り込んだ。
彼は何も言わない。
エンジンがかかる。
窓越しに、ほんの一瞬だけ目が合った。
その視線は、あの夜よりも遠い。
車は滑るように走り去る。
私は、ただ立っていた。
追わない。
呼ばない。
そんな資格は、最初からない。
――昔の話。
その言葉が、何度も胸の奥で反芻される。
触れたことのある人間の距離。
触れたことのない私の距離。
どちらが近いのか、分からない。
数日後、終業式。
春休みが始まる。
時間はあるのに、落ち着かない。
教室の窓から見える校庭は、いつも通りなのに、
私の中だけが、少しずつ変わっている。
名前も知らない人。
関係も定義されていない。
それなのに、気になる。
どういう過去を共有しているのか。
どうして彼は、あんな顔をしたのか。
そして――
なぜ、私はあの夜を忘れられないのか。
春は、何かを始める季節だと聞く。
でも、始まりには必ず、
まだ終わっていない何かが混ざっている。
私は知らない。
この春が、どこへ続いているのか。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!