第3話

第1話「空席」
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2026/02/24 09:09 更新
第1話  「空席」

レッスンスタジオの扉を開けた瞬間、
いつもと同じ匂いがした。

床のワックス。
少し冷たい空気。
スピーカーの低いノイズ。

何も変わっていない。

何も。

なのに、足が止まる。

視線が、勝手に一ヶ所へ向く。

鏡の前、右から二番目。

そこは、舜太の立ち位置だった。

―――――――――――――――――――――――――

「おはよ」

仁人の声。

「おはよう」

勇斗が軽く手を上げる。

太智はペットボトルの蓋を開けながら
「今日フォーメーション確認からな」と言う。

いつも通りの朝。

いつも通りの会話。

柔太朗も口を動かす。

「おはよう」

声は、出た。

普通に。

でもその“普通”が、ひどく不自然だった。

―――――――――――――――――――――――――

音楽が流れる。

イントロ。

身体が勝手に動く。

何度も繰り返した振り。

何百回も合わせたタイミング。

4人で踊るフォーメーション。

……いや。

本当は、5人だった。

―――――――――――――――――――――――――

「次、移動」

スタッフの声。

立ち位置が変わる。

柔太朗は無意識に、
一歩、余分にスペースを空ける。

身体が覚えている。

そこに、誰かがいるはずの距離を。

鏡を見る。

空間がある。

何もない空間。

光が当たっているのに、
誰もいない。

―――――――――――――――――――――――――

曲が止まる。

「……もう一回」

仁人が言う。

誰も何も言わない。

言えない。

“空席”という言葉を口にしたら、
何かが壊れそうで。

―――――――――――――――――――――――――

サビ。

問題のパートが来る。

舜太のパート。

今は、柔太朗が歌うことになっている。

分かっている。

覚えている。

練習もしてきた。

口を開く。

息を吸う。

音が出ない。

喉が、閉じる。

頭の中で、舜太の声が鳴る。

柔らかくて、まっすぐな声。

それが、自分の声を押し返す。

「……っ」

一拍、遅れる。

音が揺れる。

外す。

止まる。

スタジオが静かになる。

誰も責めない。

でも、その沈黙が一番重い。

―――――――――――――――――――――――――

「……ごめん」

柔太朗が言う。

自分でも驚くほど、小さい声だった。

仁人がすぐに言う。

「謝るな」

でもその言葉が、逆に胸に刺さる。

謝るなって、
どういう意味だ。

歌えなかったのは事実だ。

あそこは、舜太のパートだった。

自分のじゃない。

―――――――――――――――――――――――――

休憩。

壁にもたれる。

汗が流れているのに、
寒い。

視界の端に、空いたスペースが映る。

さっきまで立っていた場所。

今は、誰もいない。

それなのに、
視線を逸らせない。

―――――――――――――――――――――――――

「柔太朗」

勇斗が隣に座る。

何も言わない。

ただ、ペットボトルを差し出す。

受け取る。

キャップを開ける。

水が喉を通る。

でも、何も流れていかない。

―――――――――――――――――――――――――

(なんでいないんだよ)

頭の中で、声がする。

(早く戻ってくるって思ってた)

(また5人で立てるって、思ってた)

現実は、
容赦なくそこにある。

もう戻らない。

あの日で、止まった。

―――――――――――――――――――――――――

レッスンが再開する。

4人で立つ。

音楽が流れる。

柔太朗は、今度こそ歌う。

声は震える。

完璧じゃない。

でも、止まらない。

止まったら、
本当に置いていかれそうで。

―――――――――――――――――――――――――

鏡の中。

4人がいる。

でも柔太朗の目には、
5人が見えてしまう。

幻覚じゃない。

ただの記憶だ。

そこにいるはずの姿が、
消えないだけ。

―――――――――――――――――――――――――

曲が終わる。

拍手はない。

評価もない。

ただ、静かな息遣いだけが残る。

仁人が言う。

「今日はここまでにしよう」

誰も反対しない。

―――――――――――――――――――――――――

スタジオを出る。

廊下がやけに長い。

足音が響く。

前は、ここでよくふざけていた。

「今日ラーメン行く?」
「いや無理、太る」

そんなやり取り。

今は、誰も言わない。

言えない。

―――――――――――――――――――――――――

を出る。

廊下がやけに長い。

足音が響く。

前は、ここでよくふざけていた。

「今日ラーメン行く?」
「いや無理、太る」

そんなやり取り。

今は、誰も言わない。

言えない。

夕方の光。

眩しいはずなのに、
どこか冷たい。

柔太朗は立ち止まる。

空を見上げる。

何も答えはない。

でも、胸の奥が痛い。

―――――――――――――――――――――――――

「……空いてる」

小さく呟く。

フォーメーションも。
隣も。
帰り道も。
心の一部も。

全部、空いている。

その空席は、
誰にも埋められない。

―――――――――――――――――――――――――

それでも、分かっている。

空席は、消えない。

でも、
そこに立ち続けるしかない。

舜太がいない世界で。

――第1話・終

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